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第14話 ひとつの解答

 一月も十日が過ぎ、正月気分の抜けた街は、ただただ灰色の寒さに支配されていた。

 空は低く垂れ込め、アスファルトを冷やす風は、人々の足早な歩みをさらに急かせる。


 僕は、自分の不注意で痛めた足首の診察のために、市内でも大きな総合病院を訪れていた。

 湿布で誤魔化していた痛みが引ききらず、念のために重い腰を上げたのだ。


 会計を待つ、消毒液の匂いが鼻をつく混み合った待合室。液晶画面に映し出される受付番号をぼんやりと眺めていると、背後から落ち着いた、重みのある声で呼び止められた。


「君は……久連耕助くんかね」 


 振り返ると、そこには白衣を纏った中年の男が立っていた。眼鏡の奥にある瞳は、すべてを見透かすような鋭さと、深い慈愛を同時に湛えている。


「そうですけど……誰ですか?」

「失礼。この病院で外科医をやっている阿部と申します」

「はあ、そんな先生が何か?」


 男はわずかに口角を上げ、丁寧に会釈をした。


「天ヶ瀬菜々美を知っているね? 私は彼女の主治医なんだ」

「っ……!」


 心臓が大きく跳ねた。天ヶ瀬菜々美の主治医。彼女に優水菜の心臓を繋いだ、ある意味で僕たちの運命を決定づけた設計者。


「いつも、天ヶ瀬さんがお世話になってます」

「いやいや、お礼を言うのは私の方だよ。最近の彼女は、定期検診に来るたびに楽しそうでね。よく君の話をしているよ。手術をする前、絶望の中にいた彼女とは大違いだ」


 阿部先生は穏やかに笑った。だが、その笑みはすぐに消え、深い溝のような皺が眉間に刻まれた。


「……それはそうと、耕助くん。少し時間をくれないか。君にだけは話しておかなければならないことがある」




 ◇ ◇ ◇




 案内されたのは、人の気配のない静かな談話室だった。窓の外では冬の枯れ木が風に揺れている。先生は椅子を勧めると、組んだ指に力を込め、声を落とした。


「君は、最近の彼女の体のことについて何か聞いていることはあるかね?」

「いえ、特に」

「なら単刀直入に言おう。⋯⋯最近、彼女の容態が思わしくない」

「……え?」


 耳を疑った。正月の神社で、あんなに元気に石段を登り、あんなに力強く「生きる」ことを語っていた彼女が。


「医学的な数値は、奇妙な矛盾を示している。肉体的な拒絶反応は、投薬治療によってほぼ完璧に抑え込まれているんだ。心臓そのものは、彼女の体の一部として完治したと言っていいレベルだ。だが――」


 先生はそこで言葉を切り、僕の目を射抜くように見つめた。


「彼女自身が、心臓を受け付けなくなっている。数値に現れないはずの、精神的拒絶反応だ」

「精神的……拒絶……?」

「そうだ。通常、移植患者は『生きたい』という本能がすべてを凌駕する。だが彼女の場合、無意識下で自分の鼓動を……いや、その心臓を、拒んでいる節がある。まるで、自分が生きていくことを、自分の心そのものが許していないかのように。⋯⋯あり得ないと思うかもしれないが、これ以外説明がつかないのだよ」


 喉の奥がカラカラに乾いた。先生は、カルテをなぞるように言葉を続ける。


「このままでは、精神的な負荷が引き金となって心不全を起こしかねない。完治したはずの体が、心によって壊されていく。彼女が何を恐れ、何を拒んでいるのか……それを聞き出し、救い出せるのは、彼女が最も信頼を寄せている君にお願いしたい。いや、君にしか頼めないことなんだ」




 ◇ ◇ ◇




 病院を出た僕は、感覚のなくなった足首を引きずるようにして菜々美の家へと向かった。


 インターホンを鳴らすと、間を置かずに「はーい」という弾んだ声が返ってくる。

 扉が開くと、いつも通りの菜々美が立っていた。


「耕助くん? どうしたの、急に」


 彼女が着ているのは、マフラーと同じアイスブルーのカーディガンだ。けれど、その奥に見える首筋のラインや顔は、以前と何も変わらない。僕を見上げる琥珀色の瞳も全く同じだ。


「……あ、これ。途中の店で美味そうだったから。差し入れだ」


 僕は、道すがらの商店街で買った、たい焼きの紙袋を差し出す。


「わあ、ありがとう! ここのお店の、皮がパリパリで美味しいんだよね。あがってよ。お茶淹れるね」


 菜々美は子供のように目を輝かせて袋を受け取ると、僕をリビングへと招き入れた。


 リビングのテーブルには、相変わらず数学の参考書とノートが広げられていた。いつも通りの菜々美。


 僕はソファに腰を下ろし、彼女がキッチンから戻ってくるのを待った。


「はい、お待たせ。耕助くん緑茶で良かったよね?」

「ああ、悪いな」


 差し出された緑茶の熱が、指先からじわりと伝わってくる。

 菜々美は僕の隣に座ると、早速紙袋からたい焼きを取り出した。


「そういえば、足首は良くなったの? こないだ言っていたやつ」

「……まあな。病院の先生にも、もう大丈夫だって言われたよ。それより、お前こそ。数学、進んでるのか?」


 僕が努めて他愛のない調子でノートを指差すと、菜々美は「あ、忘れてた!」と声を上げ、慌ててペンを握った。


「それがね、昨日からこの積分の問題がどうしても解けなくて。……ほら、ここの面積を求めるやつ」

「……どれ。……ああ、お前これ、最初の立式が逆だろ。グラフの上下をよく見ろよ」

「あ……本当だ。うわあ、恥ずかしい。私、なんでこんな基本的なところを間違えちゃうんだろう」


 彼女はペロリと舌を出して笑った。

 その、なんてことのない仕草。数学の答えを間違えて悔しがり、たい焼きの頭から食べるか尻尾から食べるかで真剣に悩む。そんな、どこにでもいる高校生の、退屈で、けれど愛おしい日常。


 けれど、僕たちは知っている。

 この「他愛のなさ」が、どれほど細い糸の上で保たれている奇跡なのかを。


「……味、するか?」


 僕が不意に尋ねると、菜々美はたい焼きを頬張ったまま、一瞬だけ動きを止めた。

 それから、ゆっくりと咀嚼し、幸せそうに目を細めて頷く。


「……うん。すごく美味しいよ。甘くて、あんこがたっぷりで。……私の中に、ちゃんと届いてる感じがする」


 彼女は自分の胸を、今度は掻きむしるのではなく、慈しむようにそっと押さえた。


 窓の外では、冬の陽光が庭の枯れ木を優しく照らしていた。

 僕たちはその後、本当に他愛のない会話を続けた。

 クラスの誰が風邪を引いたとか、最近始まったドラマが面白いとか、次に降る雪が積もったらまた滑りに行こうだとか。


 優水菜の名前は、あえて出さなかった。

 出す必要がなかった、と言う方が正しいかもしれない。


 今の僕たちの間には、言葉にしなくても共有されている「温度」があった。過去の悲劇を塗りつぶすのではなく、それを抱えたまま、新しい色を重ねていくという静かな合意。


「ねえ、耕助くん。もし私が、もっとわがままになって、耕助くんを困らせるようになったら……どうする?」

「……今だって十分わがままだろ。石段駆け上がるとか言って俺をヒヤヒヤさせた癖に」

「あはは、確かに。でも、私ね、もっともっと欲張りになりたいの。美味しいものをもっと食べたいし、いろんな場所に行きたい。……耕助くんと一緒に、ね」


 彼女はそう言って、僕の手をそっと握った。

 そこには、もう氷のような冷たさはなかった。春を待つ土のように、しっとりと、けれど確かな熱を帯びた「生」の温もり。


「……ああ。全部付き合ってやるよ。数学以外の補習も含めてな」

「あ、それはちょっと手加減してほしいな」


 僕は腰を上げた。


「あ、待って。これ、忘れ物」


 菜々美が僕に手渡したのは、僕が机に置き忘れた紺色の手袋だった。


「……じゃあな、菜々美。また今度」

「うん。また今度。……じゃあね、耕助くん。いや、耕助!」


 玄関先で見送る彼女の姿を背に、僕は冬の冷気の中へと踏み出した。

 胸の中では、一つの鼓動が力強く刻まれている。

 それは僕自身の心臓の音であり、同時に、彼女から託された未来へのファンファーレのように聞こえた。


 生きるということは、こうした他愛のない今を一つずつ積み上げて、いつか振り返ったときにそれを「人生」と呼ぶことなのだろう。


 冬はまだ続く。けれど、僕たちの心には、もう春の陽だまりが、決して消えることのない温もりとなって宿っていた。

 僕は深く息を吸い込み、冷たい空気を全身に巡らせる。


 精神的拒絶反応。僕は今だ信じられない。このままいけば彼女は最悪死んでしまう。理由は不明で少しずつ現実味を帯びていく。


 だが、確かなこともある。明日も、その次も。僕たちはきっと、この鼓動と共に生きていく──。

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