第12話 クリスマス後編:聖夜の証明
改札を抜けてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
人混みに流され、無機質なタイルを眺めながら歩いていた僕の足が、不意に止まった。
胸の鼓動が、うるさい。
優水菜が失ったこの心臓が、まるで肋骨を突き破らんばかりに暴れている。それは怒りのようでもあり、必死の叫びのようでもあった。
(……最低だ)
脳裏に焼き付いて離れないのは、氷の上に突き飛ばされ、光を失った菜々美の瞳だ。
あんなに冷たい言葉を投げつけて、あんなに惨めな思いをさせて。それでいて僕は、彼女が僕のために選んでくれた、あの穏やかな一時間半の熱を、まだ手のひらに感じている。
僕は、自分の右手をじっと見つめた。
そこには、彼女の手を引いていた時の、あの確かな重みが残っている。
(あいつの心臓を持っているだけの、ただの他人だ……?)
嘘だ。あんなのは、自分を守るための、醜い保身の言葉だ。僕はもう、分かっていた。
僕が彼女を失いたくないのは、そこに優水菜がいるからじゃない。
不器用に滑り、必死に笑い、僕の横顔を見て「嬉しい」と言った、天ヶ瀬菜々美という少女を、僕自身の心が求めているからだ。
「……クソッ!」
僕は踵を返し、人混みをかき分けて走り出した。
自動改札にicカードをあてて強引に抜け、さっき彼女と別れた場所へ向かう。
心臓が悲鳴を上げる。けれど、今のこの痛みだけが、僕がまだ人間であることを辛うじて繋ぎ止めていた。
いない。
改札前にも、さっきのツリーの下にも。
冬の夜風が容赦なく体温を奪っていく。視界が滲むのは、冷たい風のせいか、それとも──。
「菜々美……っ!」
叫んでも、街の喧騒に飲み込まれる。
あんな風に突き放した僕を、彼女が待っているはずがない。そう思い知らされるたび、心臓が握りつぶされるように痛んだ。
その時だった。駅舎から少し離れた、街灯の光が届かない広場の隅。
公園へと続く街路樹の影に、ポツンと青い影がうずくまっているのが見えた。
アイスブルーのマフラーをきつく巻き、肩を震わせて、彼女は一人で泣いていた。
僕が追いかけてくるなんて、これっぽっちも思っていないような、静かで、諦めに満ちた背中だった。
「菜々美……!」
僕が駆け寄ると、彼女は驚いたように顔を上げた。
赤くなった鼻、涙で濡れた頬。僕が壊してしまった、彼女のクリスマス。
「……耕助くん? どうして……」
「ごめん。……ごめん、菜々美。俺は、最低だ」
息を切らし、彼女の前に膝をつく。
菜々美は悲しげに首を振って、震える声で言った。
「ううん。いいの。……わかってるから。私は、彼女じゃないもんね。私が笑うたびに、耕助くんを苦しませてたんだよね」
その優しさが、僕をさらに打ちのめす。
僕は、彼女の冷え切った両手を、自分の両手で強引に包み込んだ。
「違う。……苦しかったのは、お前を好きになっていく自分を、許せなかったからだ。お前を愛することが、あいつを忘れることになっちゃうんじゃないかって、怖かったんだ」
菜々美は潤んだ瞳で僕を見つめる。僕は震える息を吐き出しながら、心の底にある言葉を絞り出した。
「でも、さっき、お前がいなくなった後に気づいた。……この心臓がこんなに痛むのは、あいつが怒ってるからじゃない。あいつが、俺に『菜々美を追いかけろ』って言ってるからなんだよ」
「……え?」
「あいつを愛した俺なら、きっと、目の前の女の子を泣かせるような真似はしない。……だから、菜々美。俺はお前を、お前として愛したい。菜々美、お前と一緒に生きていきたいんだ」
菜々美の目から、再び大きな涙がこぼれ落ちた。
そして彼女の声は、冬の夜の静寂を震わせた。
「私の心臓は、優水菜さんのものかもしれない。でもね、この心臓がドクンって跳ねて、苦しいくらいにあなたのことを『愛おしい』って感じているこの震えだけは、神様にも、彼女にさえも譲れない、私だけのものなの。
だから……私が笑うのはね、彼女を忘れるためじゃない。
彼女が生きられなかった明日を、私が代わりに全力で『肯定』してあげるためなの。生きるっていうのは、ただ息をすることじゃない。自分の体の中にいる『大切な誰か』と一緒に、もう一度、新しい恋をすることなんだよ。だから、お願い。
私を愛することを、怖がらないで。
あなたが私を好きになってくれるとき、私の中にいる優水菜さんも、きっとあなたの温かさを感じて笑っているから」
その言葉が、僕を縛っていた最後の鎖を解き放った。
僕は彼女を強く抱きしめた。コート越しに伝わる彼女の細い肩の温もりと、一定に刻まれる鼓動。
それはもう、記憶の中の残像ではなく、今、この瞬間を生きている彼女そのものの命だった。
「……菜々美」
「うん」
「これ、……用意してなかったんだけど。ありきたりで、お前に似合うか分からないけど」
僕はポケットから、さっき走りながら駅の雑貨店で見つけた、小さな箱を取り出した。
どこにでもあるような、けれど今の僕にできる精一杯の贈り物。
中に入っていたのは、小さな、一粒の水晶が揺れるシルバーのネックレスだった。
「雪、みたいだったから。お前に、似合うと思って。……天ヶ瀬、菜々美」
菜々美は息を呑み、そのネックレスを宝物のように見つめた。
「……つけて、くれる?」と彼女が囁く。
震える手で、彼女の細い首に銀の鎖をかける。冷たい金属が肌に触れ、彼女が小さく身を震わせた。
「綺麗……。ありがとう、耕助くん」
すると、菜々美も自分のカバンから、小さな包みを取り出した。
「私もね、用意してたの。……本当は、今日渡せないかもって思ってたけど」
開けられた包みの中には、僕の着ているコートと同じ、深い紺色の手袋が入っていた。
「ずっと、耕助くんの手、冷たかったから。……クリスマスデートできた記念と、それから、私を私として呼んでくれた、今日のお礼」
僕はその手袋を受け取り、すぐにはめた。
驚くほど温かかった。そこには、彼女が大切に持ち歩いていた名残の体温が宿っている。
「……温かいな」
「うん。……ねえ、耕助くん。私、これからもずっと、この心臓と一緒に、あなたに恋をしてもいい?」
「……ああ。俺からも、よろしく頼む」
彼女が顔を上げると、夜空から白い粒が舞い落ちてきた。
予報にもなかった、本物の初雪だ。
「あ、雪……」
「ああ。……ホワイトクリスマスだな」
菜々美は、ネックレスの水晶を指でそっと撫でながら、最高の笑顔を見せた。
それは優水菜の面影を一切介さない、天ヶ瀬菜々美だけの、眩しいほどの輝きだった。
街のイルミネーションが、今は二人を祝う灯火のように温かい。
僕たちは、降り積もる雪の中、どちらからともなく顔を寄せた。
唇が重なる直前、僕の胸の中で、心臓がトクン、と優しく跳ねた。
それはかつての幼馴染からの、祝福の合図のように思えた。
聖夜の闇は、もう怖くない。
僕たちは、死者が残した熱を抱いて、新しい明日へと踏み出していく。
「メリークリスマス、菜々美」
「メリークリスマス、耕助くん」
二人の白い息が、一つの形になって、冬の空へと溶けていった。
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