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第11話 クリスマス前編:氷上の境界線

 十二月二十四日。街は暴力的なまでの光と色彩に溢れていた。


 スピーカーからは聞き飽きたクリスマスソングが流れ、道行く恋人たちは、まるでこの夜が終われば世界が滅びるとでもいうような切実さで寄り添い合っている。


 駅前の巨大なモミの木の下。僕は、冷えた指先をポケットの奥に押し込み、その人影を待っていた。


 かつての僕なら、ここで待っているのは優水菜だった。彼女はわざと数分遅れて現れ、「待った? 待ったよね! ごめん、可愛くするのに時間かかっちゃった!」と、冬の寒さを吹き飛ばすような熱量で僕の腕に飛び込んできただろう。


 だが、人混みの中で現れたのは、淡いブルーのコートを着た菜々美だった。


 彼女は約束の五分前に現れ、僕を見つけると、アイスブルーのマフラーに顔を半分埋めたまま、静かに歩み寄ってきた。


「……待たせちゃったかな、耕助くん」

「いや、俺も今来たところだ」


 定型文のようなやり取り。けれど、彼女の瞳は嘘をつけないほどに輝いていた。


 その瞳を見つめるたび、僕の胸の奥で、鋭い棘のようなものがチクリと刺さる。


 彼女が菜々美として笑うたび、僕の中の優水菜が薄れていく。その消失を、今の僕は以前ほど苦痛に感じていない。……それが、たまらなく怖かった。


「……行こうか。一時間半は滑れるだろ」

「うん。……スケートなんて、私、初めて。上手く滑れるかな」

「俺だって久しぶりだよ。……まあ、転んだら笑ってやるから安心しろ」


 僕が冗談めかして言うと、彼女は「ひどいな」と小さく笑った。

 優水菜なら「絶対助けてよ! お姫様抱っこしてよね!」と騒いだはずだ。

 

 菜々美はただ、僕の歩幅に合わせて、静かに、一歩一歩を確かめるように冬の街を歩き出す。




 ◇ ◇ ◇




 駅前のビルの一角にある、屋外スケートリンク。

 冬の傾いた陽光を映し出す青白い氷の板は、どこか現実離れした冷たさを放っていた。


 貸靴に履き替え、リンクサイドに立った菜々美は、生まれたての小鹿のように足元を震わせていた。


「……思ったより、滑るね」

「当たり前だろ、氷なんだから。ほら、手」


 僕は無造作に左手を差し出した。

 菜々美が、おそるおそるその手を握る。


 手袋越しではあるが、彼女の手のひらの震えが伝わってきた。その瞬間、僕の脳裏を一つの映像がよぎる。


 臓器くじ法――。


 優水菜が理不尽に亡くなったあの日。病院の冷たい廊下で、彼女の体から取り出された心臓が、この少女の胸へと運ばれていった。

 今、僕の手を握っているこの腕の先にある心臓は、かつて僕が愛した少女のものだ。


 だが、その心音を刻んでいるのは、この少し控えめで、数学が得意で、僕の歩幅を気にする天ヶ瀬菜々美という少女の命なのだ。


 氷の上に踏み出すと、滑らかな浮遊感が僕たちを包んだ。

 菜々美は僕の手に縋り付くようにして、必死にバランスを取っている。


「あっ、……わ、耕助くん、待って、早いよ!」

「力が入りすぎなんだよ。もっと力を抜いて、氷を信じろ」

「信じろって言われても……怖いものは、怖いよ」


 菜々美が顔を赤くして抗議する。

 その表情、その声。それはもう、僕の記憶にある優水菜の模倣ではなかった。


 優水菜なら、もっと大げさに怖がり、もっと派手に転んで見せただろう。

 だが、菜々美の怖がり方は、もっと切実で、もっと個人的なものだった。


 僕は、彼女の手を強く握り直した。


「……大丈夫だ。俺が持ってるから」


 その言葉を口にした瞬間、僕の中に言いようのない罪悪感が噴き出した。


 「俺が握っている」のは、誰だ?

 菜々美の手か? それとも、彼女の中に残された優水菜の欠片か?


 


 一時間半という限られた時間は、残酷なほど早く過ぎていく。

 リンクの照明が点灯し、夕闇が青く街を染める頃、菜々美も少しずつ慣れてきたのか、僕の隣で並んで滑れるようになっていた。


 冬の冷たい風が頬を叩く。吐き出す息は白く、背後に長く尾を引いていく。


「……気持ちいいね、耕助くん。世界に二人きりみたい」


 菜々美が、不意にそんなことを言った。

 冬の日差しの光が彼女の琥珀色の瞳に反射し、まるで星を閉じ込めたかのように瞬いている。


 その一瞬、僕は確かに、彼女のことを綺麗だと思ってしまった。


 優水菜の代わりとしてではなく、この氷の上で、必死に転ばないように僕の手を握りしめている、天ヶ瀬菜々美という少女そのものに、心を動かされてしまった。


 その自覚は、冷水を浴びせられたような戦慄を僕にもたらした。


(……俺は今、彼女に惹かれているのか?)


 もし、僕が菜々美を愛してしまったら。

 それは、臓器くじ法というあの忌まわしいシステムを、肯定することにならないだろうか。


 優水菜が死に、彼女の命が菜々美に繋がれた。もし優水菜が死ななければ、菜々美も死んでいたはずだ。


 僕が菜々美を好きになるということは、優水菜の死によって得られた結果を喜ぶことと同義ではないのか。


「ねえ、耕助くん。どうしたの? 急に黙り込んで」

「……いや、別に。お前の滑り方、変だなと思って」

「えっ、ひどい! これでも一生懸命なんだから」


 彼女は頬を膨らませ、僕の手を少し強く握りしめた。その指先の温度。手袋越しに伝わる微かな脈動。


 それが僕をさらに追い詰める。


 この脈動の主は誰だ。

 もし僕が「菜々美、お前が好きだ」と言えば、それは優水菜への裏切りになる。


 けれど、彼女を見ていると、僕の胸は確かに、優水菜といた時とは違う、静かで深い熱を帯びていくのだ。


「……少し、休もうか」


 僕は逃げるようにして、リンク脇のベンチを指差した。

 菜々美は「そうだね、足がパンパンになっちゃった」と笑い、僕に従った。


 自販機で買った熱いココアを二つ。

 缶から立ち上る湯気が、僕たちの間の境界線を白くぼかしていく。

 菜々美は、熱い缶を両手で包み込み、幸せそうに目を細めていた。


「……耕助くん。私ね、今日ここに来られて、本当に良かった」

「……まだ始まったばっかりだろ」

「ううん、そうじゃなくて。……私、手術を受けた後、ずっと怖かったの。自分が誰なのか、わからなくなっちゃいそうで」


 彼女は、離れた氷の上に視線を落とした。


「でもね、最近……耕助くん、私のことを見てくれるようになったでしょ? 優水菜さんじゃなくて、今の私を。……それが、すごく嬉しいの」


 その嬉しいという言葉が、僕の胸をナイフのように切り裂いた。

 彼女は、僕が彼女個人を愛し始めていることを喜んでいる。


 だが、その喜びの土台には、優水菜の死があるのだ。

 優水菜が犠牲にならなければ、この穏やかなクリスマスの夜も、僕たちの出会いも、この会話も、存在しなかった。


「……菜々美」

「なあに?」

「……お前は、怖くないのか。自分の命が、誰かの死の上に成り立っていることが」


 残酷な問いだとわかっていた。けれど、聞かずにはいられなかった。

 菜々美は、少しだけ驚いたように僕を見つめ、それから寂しげに微笑んだ。


「……怖いよ。毎日、怖い。……この心臓が、いつか止まっちゃいそうで……でもね。もし、私がこの命を否定したら、私に心臓をくれた彼女は、もっと報われない気がするの」


 彼女は、自分の胸のあたりをそっと手で押さえた。


「だから私は、精一杯生きて、精一杯誰かを好きになりたい。……それが、私にできる唯一の恩返しだと思うから」


 彼女の言葉は、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも正しかった。

 だからこそ、僕は耐えられなかった。


 その正しさを受け入れることは、僕にとって優水菜を過去に葬り去ることを意味する。

 優水菜を菜々美の幸せのための肥やしにしてしまうような、そんな悍ましい感覚。


(俺は、優水菜を切り捨てるのか?)


 あの日、共に笑い、共に泣き、未来を誓い合ったあの少女を。

 忘れないでと、血まみれの視線で僕を捉えた、あの最期の時間を。


 今のこの心地よい感情のために、僕はあの記憶をゴミ箱に捨てるのか。


「……行こう」


 僕は、残ったココアを飲み干し、立ち上がった。


「え、あ、待ってよ」


 菜々美が慌てて後を追う。

 僕は彼女を振り返らず、氷の上へと再び戻った。


 滑る。

 ひたすらに、滑る。


 思考を停止させ、風を切る音だけに集中したかった。

 けれど、氷を蹴るたびに、足元から臓器くじ法の非情な論理が響いてくる。


 お前は彼女を好きになり始めている。

 お前はシステムを享受している。

 お前は優水菜を殺している。


「耕助くん、危ない!」


 菜々美の鋭い声。

 前方でバランスを崩した子供を避けようとして、僕の足元が大きく乱れた。

 視界が回転し、硬い氷が僕の肩を打ち付ける。


「……っ、い、て……」

「耕助くん! 大丈夫!?」


 すぐに菜々美が滑り寄ってきた。彼女は膝をついて、僕の体を支えようとする。


「どこか打った? 頭は? ……あ、顔、擦りむいてる……」


 彼女の手が、僕の頬に触れた。震える指先。潤んだ瞳。

 その瞬間、僕は理解してしまった。

 僕は、この少女を、どうしようもなく失いたくないのだと。


 優水菜の身代わりとしてではなく、この、僕を心配して泣き出しそうな顔をしている天ヶ瀬菜々美という個人を、守りたいと思っているのだと。


 だが、それは救いではなかった。僕にとって、それは最悪の陥落だった。


「……触るな」


 僕は彼女の手を、力任せに振り払った。

 菜々美が、氷の上に突き飛ばされる。


「……え?」

「触るなと言ってるんだ。……お前は、あいつじゃない。あいつの心臓を持っているだけの、ただの他人だ」


 僕は、自分でも驚くほど冷酷な言葉を吐いた。何回目かも分からない。成長も変化も何もない、最低野郎の言葉。


 それは彼女に向けた言葉ではなかった。

 自分自身への、必死の抵抗だった。

 菜々美を愛しそうになる自分を、力ずくで引き戻すための、最低の毒だった。


 菜々美は、氷の上に座り込んだまま、信じられないものを見るような目で僕を見上げた。

 琥珀色の瞳から、光が消えていく。

 その表情を見ることが、僕にはできなかった。


「……帰るぞ」


 僕は、彼女を残したまま、出口へと滑り出した。

 背後で、小さな、嗚咽のような音が聞こえた気がした。


 けれど、僕は振り返らなかった。

 振り返れば、僕は完全に優水菜を捨ててしまう。この冷たい氷の上が、今の僕たちに相応しい場所なのだと、自分に言い聞かせながら。




 ◇ ◇ ◇




 スケートリンクを後にした僕たちの間に、会話はなかった。

 華やかなイルミネーションが、今はただの安っぽい電飾の屑に見えた。


 菜々美は、僕から数歩離れて、黙ってついてきている。

 彼女がどんな顔をしているのか、今の僕には想像することさえ恐ろしかった。




 駅の改札前。


「……今日は、ここで」


 僕は、彼女の方を見ずに言った。


「……うん。……ありがとう、耕助くん」


 菜々美の声は、今にも消えてしまいそうだった。

 彼女は、アイスブルーのマフラーを、ぎゅっと握りしめている。


 それは、彼女自身の意志で選んだ、彼女を象徴する色だったはずなのに。


「……じゃあ」


 僕は背を向けた。これでいいんだ。自分に言い聞かせる。


 菜々美に惹かれることは、優水菜を二度殺すことだ。

 臓器くじ法が生んだこの歪な幸福を、僕は享受してはならない。


 だが、改札を抜け、人混みに紛れようとしたその瞬間。僕は、見てしまった。

  ガラス張りのビルの壁面に映る、自分の姿を。


 そこには、大切なものを自分の手で壊しておきながら、泣くことさえできない、幽霊のような少年が立っていた。


 そして、その胸の奥では。僕の意志とは無関係に、優水菜から引き継がれた心臓が、痛いほどの熱を持って、菜々美の名前を呼ぶように激しく脈打っていた。


 クリスマスは、まだ終わらない。

 聖夜の闇は、これからさらに深く、冷たく、僕たちを飲み込んでいく。

私が本作品を書くにあたって、数々のジレンマや葛藤がある中で、一番書きたかったものがこの11話につまっています。


ご覧頂きありがとうございます!

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