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第10話 消失

 文化祭という舞台が片付けられ、学校は再び、無機質でどこか倦怠感の漂う日常へと引き戻されていた。


 あの日、非常階段の暗がりで僕が抱き起こした菜々美の冷たい体温や、彼女が流した大粒の涙。それらはすべて、秋の終わりの冷たい風にさらわれ、今では遠い夢の出来事のようにさえ感じられる。


 だが、確実に変わったものがあった。


 僕の隣を歩く彼女から、あの過剰なまでの優水菜らしさが、潮が引くように消えていたことだ。




 ◇ ◇ ◇




 放課後の図書室。

 冬の足音が聞こえ始めた十一月の午後は、窓から差し込む斜光さえもどこか鋭く、埃の舞う静寂を切り裂いている。


 僕は一人、山積みの参考書と格闘していた。

 目の前にあるのは、数Ⅱの指数関数の応用問題だ。


「……わからない」


 数式は、僕の脳内で意味をなさない記号の羅列へと成り下がっていた。


 かつて、同じ場所で優水菜と一緒に勉強したことがあった。


 彼女は数学が致命的に苦手で、五分も机に向かえば「耕助、これ日本語で書いて。数式じゃなくて漫画で説明してよ」と、突拍子もないことを言ってペンを放り出した。


 僕は彼女の汚れた指先を見て笑いながら、何度も同じ公式を教え、結局最後には二人で購買のチョコクロワッサンを食べて終わる。


 それが僕たちの勉強だった。


 僕の記憶の中の数学は、いつも優水菜の甘い香りと、彼女が投げ出すシャーペンの乾いた音とセットになっている。


 だから、僕にとって数学が解けないことは、優水菜との思い出をなぞるための、ある種の儀式のようなものだったのかもしれない。


「……そこ、底が1より大きいから単調増加だよ。だから不等号、逆にならない」


 静寂を、澄んだ鈴の音のような声が叩いた。


 驚いて顔を上げると、いつの間にか隣の席に菜々美が座っていた。


 彼女は制服のブレザーを律儀に一番上のボタンまで留め、膝の上に手を置いて、僕のノートを覗き込んでいる。


「……いつからいたんだよ」

「さっきから。耕助くんが、あんまり難しい顔をして唸ってるから」


 菜々美は少しだけ口角を上げて笑った。


 それは、優水菜の太陽のような、周囲を強引に照らし出す笑顔とは対照的な、夜の帷を揺らす月光のような静かな微笑みだった。


「貸して」


 彼女は僕の手から自然にシャーペンを抜き取ると、僕のノートの余白にさらさらと数式を書き始めた。


 僕は彼女の手元を、食い入るように見つめた。

 菜々美の指先は細く、白く、一点の汚れもなかった。


 そして、そのペン先が紡ぎ出す論理は、驚くほど整然としていて、迷いがない。


「この問題、まず置き換えるの。t=a^x って。そうすると二次式になるでしょ?」


 僕は目を見張る。


 指数の世界を、一度別の文字に置き換えて整理する。複雑だった式が、急に輪郭を持つ。


「それで、tの範囲をちゃんと考える。指数関数って、絶対に0にならないよね? だから t>0。そこが大事」


 彼女の説明は整然としていた。

 優水菜なら、「0にならないとか、頑固すぎない?」と逃げ出していたはずの場所だ。


「……お前、数学得意だったんだな」

「うん。論理的に答えが決まっているものって、安心するから。どんな事にもちゃんと理屈があるの」


 菜々美はペンを置くと、僕の顔を真っ直ぐに見つめた。

 その瞳には、あの文化祭の舞台で見せた「看板女優」の虚飾は微塵もなかった。


「優水菜さんは、数学が苦手だったんだよね?」


 不意に投げかけられた名前に、心臓が小さく跳ねる。


「……ああ。あいつは、数字を見るだけで頭が痛くなるって言ってたよ」

「そう。……私は、好きだよ。数字は嘘をつかないから」


 彼女のその言葉は、まるで「自分は優水菜ではない」という、静かな宣言のように聞こえた。


 これまでの彼女は、僕が望む優水菜を演じることに必死だった。僕が不機嫌になれば、優水菜なら言いそうなセリフを探し、優水菜ならしそうな仕草をなぞっていた。


 けれど、今、目の前で数式を解いた彼女は、紛れもなく天ヶ瀬菜々美としての能力を使い、彼女自身の言葉を紡いでいる。


 僕は、ノートに書かれた彼女の筆跡を見つめた。

 丸みを帯びていた優水菜の文字とは違う、指数の肩に乗る小さな数字まで、丁寧に揃えてある。


 かつては、優水菜と違う部分を見つけるたびに、裏切られたような、損をしたような不快感に襲われていたはずだった。


 「移植された心臓はあいつのものなのに、なぜ中身はあいつじゃないんだ」と、理不尽な怒りをぶつけたこともあった。


 だが、今はどうだ。


 彼女の筆跡が優水菜と似ていないことに、僕は妙な安堵感を覚えていた。


 この論理的な思考も、数学が好きな感性も、すべては彼女自身のものであり、僕の記憶にある死者とは無関係なのだと感じられたからだ。


 違うってことは、裏切りじゃない。⋯⋯それはきっと、きっと新しい物語の始まりなのだと思う。




 ◇ ◇ ◇




 その日を境に、僕の世界は変わり始めた。


 いや、世界が変わったのではない。僕が菜々美を見る、レンズが変わったのだ。


 僕は無意識のうちに、彼女の中に優水菜との相違点を収集し始めるようになっていた。


 以前の僕は、共通点を見つけることで亡霊を呼び戻そうとしていた。

 しかし今の僕は、違いを見つけることで、目の前の少女の輪郭を確かめようとしていた。


 


 ◇ ◇ ◇




 ある日の帰り道。


 駅へと続くイチョウ並木の下を、僕たちは並んで歩いていた。


 優水菜はいつも、僕の腕に絡みついたり、突然駆け出して「追いかけて!」とはしゃいだりする、落ち着きのない台風のような歩き方をした。

 彼女の足音は、いつも弾んでいて、リズムが予測できなかった。


 一方で、菜々美の歩幅は一定だった。

 カツ、カツ、と規則正しく刻まれるローファーの音。


 彼女は常に僕の右側、半歩後ろを正確に守って歩く。

 それは僕を立てているというよりは、僕の歩調を観察し、それに自分を最適化させているような、献身的で知的な距離感だった。


「耕助くん、歩くの早いよ」

「……あ、悪い」


 僕が足を緩めると、彼女も自然に速度を落とす。


 ふと、強い北風が吹き抜けた。


 並木のイチョウが一斉に散り、僕たちの頭上に黄色い雨を降らせる。

 菜々美は不意に足を止め、空を見上げた。


「……綺麗。……ねえ、耕助くん。冬が来るね」


 彼女が伏せた睫毛の上に、イチョウの葉が一枚乗る。

 彼女はそれを手で払うとき、下唇を少しだけ噛む癖があることに気づいた。


 優水菜は、そんな時、自分の長い髪を指でくるくると弄って、「もう、冬なんて嫌い! 寒いし!」と膨れていたはずだ。


 菜々美は、寒さを拒絶しない。


 冷たい空気を受け入れ、その中で自分がどう在るべきかを探っている。

 その凛とした佇まいは、僕の知っているどの優水菜とも重ならなかった。


 ひとつ、またひとつ。

 菜々美の上に貼られていた優水菜の代役というラベルが、立冬の乾燥した空気の中で乾き、剥がれ落ちていく。


 かつて、僕は彼女を優水菜の器としてしか見ていなかった。

 あいつの心臓が動いている以上、その体はあいつのものであるべきだと、傲慢(ごうまん)にも信じていた。


 だが、数学を解く指先も、一定の足音も、下唇を噛む癖も。


 それらすべては、心臓の鼓動とは無関係に、菜々美という人間が時間をかけて積み上げてきた人生の形だった。


 僕は、自分が恥ずかしくなった。

 僕は彼女を救ったつもりでいて、実際には彼女の個性を殺し、死者の皮を被せようとしていたのだから。


「……何、笑ってるの?」


 菜々美が不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。


「いや……別に。お前、本当に優水菜と似てねーな、と思って」


 僕は、極めてフラットなトーンで言った。

 以前なら、これは彼女を傷つけるための蔑みの言葉だった。だが、今の僕が放ったのは、最大級の肯定だった。


 菜々美は一瞬、目を見開いて立ち止まった。街灯の下、彼女の瞳が揺れる。

 そこに映っているのは、死んだ少女の幻影ではなく、今の僕自身の姿だ。


「……悲しくないの? 似ていなくても」

「……悲しくねーよ。別物なんだから、当たり前だろ」


 僕はぶっきらぼうに言って、歩みを早めた。

 胸の奥に溜まっていた澱が、すっと消えていくような感覚。


 優水菜ではない彼女を認めることは、僕にとって、優水菜の死を本当の意味で受け入れることでもあった。


 そしてそれは、隣にいる少女を、初めて一人の人間として見ることの始まりでもあった。


「……そっか。よかった」


 菜々美が、小走りで僕に追いつく。

 マフラーに顔を埋め、少しだけ頬を赤く染めた彼女が、勇気を振り絞るようにして僕の制服の袖を引いた。


 文化祭の時のように自信なさげではなく、確かな意志を感じさせる力強さで。


「あのね、耕助くん。……来月の、クリスマスイブのことなんだけど」


 その言葉が、凍てつき始めた夜の空気に、小さな、けれど消えない熱を灯した。




「クリスマス……? 何だよ、急に」


 僕はわざと無愛想に聞き返したが、耳の裏が熱くなるのを隠せなかった。


「……放課後、空いてるかなって。その、予備校とか、勉強があるならいいんだけど。数学のお礼もしたいし」


 菜々美の声は、最後の方は消え入るようだった。


 数学を教えたのは彼女の方だ。お礼を言わなければならないのは僕の方なのに、彼女はそうやって、僕が誘いに乗りやすいような理由を差し出してくれている。


 その細やかな配慮も、やはり優水菜にはないものだった。優水菜なら「クリスマスなんだから、絶対デート! 決定!」と、拒否権なしに命令していただろう。


「……お礼なんて、別にいらねーよ。お礼したいのはこっちの方だし」

「あ、……そうだよね。ごめん、変なこと言って」


 菜々美がしゅんと肩を落とす。その姿を見て、僕は慌てて言葉を継ぎ足した。


「……でも。まあ、空いてるけどな。別に、予定なんてないし」

「え……?」

「だから、……行ってもいいよ。どこか」


 菜々美の顔が、パッと明るくなった。

 その輝きは、舞台のスポットライトよりもずっと鮮やかに、僕の視界を塗りつぶした。


「本当に? どこがいいかな。……映画? それとも、イルミネーションが見えるところ?」

「菜々美が行きたいところでいいよ。お前が選べ」


 僕は、彼女に選択を委ねた。


 優水菜が行きたかった場所ではなく、 菜々美が行きたい場所に。

 それが、僕にできる唯一の、過去への決別であり、彼女への誠実さだった。


「……じゃあ、駅前の大きなツリーの下で待ち合わせ、でもいい?」

「ああ。……遅れるなよ」

「うん! 絶対、遅れないから」


 菜々美は、今日一番の、そしてこれまでで一番彼女らしい笑顔を見せた。

 その笑顔は、僕の記憶のどのページにも存在しない、新しい色彩を放っていた。




 ◇ ◇ ◇




 家路につく途中、僕はふと、夜空を見上げた。

 オリオン座が、冬の訪れを告げるように高く昇っている。


 僕の左胸の奥では、今日も一定のリズムで心臓が動いている。

 

 僕は、ポケットの中で拳を握りしめた。


 クリスマス。


 あの日、優水菜と約束して果たせなかった最高の一日。

 僕はそれを、菜々美と一緒に書き換えることになるだろう。


 それは過去の上書きではない。

 真っ白な雪の上に、二人分の、新しい足跡を残していくための儀式だ。


「……寒いな」


 呟いた自分の吐息が、白く濁って消えていく。かつては、その白さが寂しくてたまらなかった。

 けれど今は、その白さが、これから何色にでも染まることができるキャンバスのように見えた。


 図書室に置き忘れてきた、解きかけの数式。

 そこに書き込まれた彼女の筆跡。

 それこそが、僕たちがこれから解いていく、正解のない問題への、最初の一歩だった。


 僕たちの聖夜は、もうすぐ始まる。

 嘘でも、演技でも、代役でもない。

 ただ、そこに生きている二人の、不器用で、真っ直ぐな、冬の物語。


 僕は、少しだけ歩幅を狭めた。

 半歩後ろを歩く彼女が、迷わずについてこられるように。


 そして、いつかその半歩が埋まり、横に並んで歩ける日が来ることを、密かに願いながら。

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