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第9話 祝祭の残滓

 僕たちの学び舎は活気に満ちあふれていた。


 校庭を埋め尽くす模擬店のテント。電球が放つオレンジ色の光が、アスファルトの上で踊り、ソースの焦げる匂いや甘いシロップの香りが、冷え始めた秋の空気を重く湿らせている。


「……本当に、いいの? 耕助くん」


 一歩後ろを歩く菜々美が、自信なさげに僕の制服の袖を引いた。


 人魚姫のドレスから制服に着替えた彼女は、どこか魂が半分抜けたような、危うい透明感をまとっている。


 舞台の余韻か、それとも体調不良の予兆か。彼女の頬は少しだけ紅潮し、琥珀色の瞳は周囲の賑やかさに馴染めないまま、所在なさげに揺れていた。


「いいから歩けよ。お前がいないと、クラスの売上も伸びないだろ。……看板女優の最後のお仕事だ」


 僕は突き放すように言って、わざと歩幅を早めた。

 僕らのクラスは劇のほかに、クラスの一部の男子達がたこ焼き屋をやっている。


 校庭は、最高潮の熱気に包まれていた。


「あ! 耕助、それに天ヶ瀬さんも! こっちこっち!」


 威勢のいい声に振り返ると、ハチマキを締めたクラスメイトの佐藤が、巨大な鉄板の前で汗を流しながら手招きをしていた。


 ソースの焼ける香ばしい匂いが鼻腔を突き、鉄板の上では丸々と太ったたこ焼きが、リズミカルな動きに合わせてくるくると踊っている。


「劇、マジで感動した。最高だったぞ!」

「なんだ、見てたのか。なら、たこ焼き二つ頼む」

「勿論だぜ。菜々美ちゃんはお代は要らないから食べていってくれ」

「俺には? 払わせんの?」


 そんな会話をしながら、僕は二つ分の代金を佐藤に支払う。

 

 差し出された舟皿には、鰹節が踊り、青のりが贅沢に振りかけられたたこ焼きが山盛りになっていた。


 菜々美は少しだけ肩をすくめ、困ったような、けれどどこか嬉しそうな微笑みを浮かべる。


「ありがとう、佐藤くん。みんなも、お店の準備お疲れ様」


 その声、その表情。

 僕の横で菜々美として振る舞う彼女は、やはり完璧に優水菜をなぞっていた。


 佐藤たちクラスの男子は、その天真爛漫な笑顔に鼻の下を伸ばし、やる気を再点火させている。


 僕はそれを見て、胸の奥に澱のように溜まった不快感を飲み込んだ。


「……行くぞ、菜々美」

「あ、待って、耕助くん」


 菜々美は慌てて僕の後に続いた。

 僕たちは人混みを縫うようにして、校庭の端にあるベンチへと向かった。たこ焼きの入った舟皿から立ち上る湯気が、僕らの間の境界線を白くぼかしていく。


「……美味しいね、耕助くん」


 菜々美はたこ焼きを小さくハフハフと冷ましながら、一口で頬張った。

 その瞬間、彼女の瞳がパッと輝く。その仕草も、熱いものを食べる時に左手で口元を隠す癖も、すべてが僕の記憶にある優水菜そのものだ。


「……そうかよ」

「耕助くんは食べないの? はい、あーん」


 彼女が爪楊枝の先に刺したたこ焼きを、僕の口元に差し出す。


 周囲の喧騒が、一瞬遠のくような気がした。


 優水菜と過ごした過去の夏祭り。あの時も、彼女はこうして無理やり僕の口に食べ物を押し込んでは、僕が熱がっているのを見て笑っていた。


「……いらない。自分の食うよ」


 僕は彼女の手を冷たく払った。

 菜々美の瞳に、一瞬だけ、深い悲しみが走る。だが、彼女はすぐにそれを演じられた微笑みで上書きした。


「……そっか。残念」


 彼女は再び、黙々とたこ焼きを口に運んだ。

 その背中が、秋日和の中で驚くほど小さく見えた。


 僕は知っている。彼女の心臓は、今この瞬間も、激しい運動をした後のように打ち鳴らされているはずだ。劇の無理がたたり、病み上がりの徴候が出始めていることを、彼女は必死に隠している。


 「臓器くじ法」によって命を繋いだ彼女にとって、この日常は、薄氷の上を歩くようなものだ。

 氷が割れるのは、明日かもしれないし、数分後かもしれない。

 

「……お茶、買ってくる」

「あ、うん。お願い」


 僕は逃げるようにその場を離れた。

 自販機の前に並び、冷たい緑茶を二本買う。


 列に並んでいる間、僕は何度も後ろを振り返った。彼女が、不意に消えてしまいそうな気がしたからだ。

 いや、本当は、彼女の中にいる優水菜の幻影が、僕を置き去りにしてどこかへ行ってしまうことを恐れていたのかもしれない。


 お茶を手に、ベンチへと戻る。


 だが、そこに菜々美の姿はなかった。

 食べかけのたこ焼きが残された舟皿だけが、寂しく置かれている。


「……菜々美?」


 嫌な予感が、心臓を直接鷲掴みにしたような感覚。


 僕はあたりを見回した。先ほどよりも校庭の熱気はさらに増している。


 ふと、校舎の陰。

 光の届かない、暗がりの非常階段の近くに、人だかりができているのが見えた。


 不自然に大きな声。そして、嘲笑うような男の笑い声。


「――だからさ、そんなに怯えるなって。劇の主役だろ? サインくらい、いいじゃないか」


 僕は人混みをかき分け、その中心へと飛び込んだ。


 そこには、他校の制服を着たガラの悪い三人組が、菜々美を囲んでいた。


 中心にいる髪を染めた男が、菜々美の細い手首を強引に掴み上げ、自分の方へと引き寄せている。


「やめて、ください……。……友達が、戻ってくるから……」


 菜々美の声は、今にも消えてしまいそうだった。


 いつもの優水菜のハキハキとした強気な態度は、そこには微塵もない。恐怖によって身体が硬直しているのが、遠目にもわかった。


「友達って、あのお茶買いに行った地味な奴のこと? あんなの放っておけよ。俺たち、バイクで来てるんだ。もっといいところに連れてってやるよ」


 男が菜々美の腰に手を回そうとした。

 菜々美は悲鳴を上げることもできず、ただ目を見開いて、絶望を湛えた瞳で僕を探していた。


「……その手を、離せ」


 僕の喉から出たのは、自分でも驚くほど冷たく、低い声だった。


 三人組が驚いたように振り返る。


「あぁ? なんだよ、お前。邪魔すんなよ」

「その女に触るな。……今すぐ離せと言ってるんだ」


 僕は一歩、男に詰め寄った。

 脳内を白熱した怒りが駆け抜ける。

 彼女を愛しているからではない。彼女を守りたいという正義感からでもない。

 

 ただ、この世界に唯一残された優水菜の遺品を、あいつの身体を、こんな僕のようなクズ共に汚されることが、耐えられなかった。

 それは、僕の聖域を、僕の過去を、土足で踏みにじられるのと同じことだった。


「なんだよ、やるのか? お前みたいな――」


 男の言葉が終わる前に、僕はその手首を掴み返し、力任せに捻り上げた。


「痛っ……! テメェ!」

「失せろ」


 僕は男の胸ぐらを掴み、そのまま壁へと押し付けた。

 周囲の空気から一気に体温が奪われるような、鋭い殺意。


 三人組は、僕の瞳に宿る本物の狂気に気圧され、舌打ちをしながら逃げるように去っていった。


 静寂が戻る。

 菜々美は、その場にへなへなと座り込んだ。


 彼女の目からは、大粒の涙が溢れていた。


「……耕助、くん……」


 僕は黙って、彼女を抱き起こした。

 彼女の身体は、秋風よりもずっと冷たくなっていた。


「……バカか、お前は。……なんで、言い返さなかった。優水菜なら、もっと強気だったはずだろ」


 僕は彼女の震えを感じながら、残酷な言葉を吐いた。

 菜々美は僕の胸に顔を埋めたまま、掠れた声で囁いた。


「……できないよ。……あんな時、優水菜さんのふりなんて、できない……。私は、私なんだもの」


 その言葉が、僕の胸に重く突き刺さる。

 僕は彼女を支えながら、再び光の中へと歩き出した。


 看板女優の最後のお仕事は、まだ終わっていない。


 僕たちは、この嘘に満ちた祝祭を、最後まで演じきらなければならないのだ。

ご覧頂きありがとうございます!

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明日もう1話投稿したら1週間ほどお休み頂きます。

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