配信プラットフォームへようこそ
時計の短針が定位置である「5」を指すのと、天野 戒が Enter キーを叩き、作成したばかりのファイルを共有フォルダに保存し終えるのは、ほぼ同時だった。
ふぅ、と誰にも聞こえない溜息を一つ。これで今日のノルマは完了だ。
「お先に失礼します」
声のトーンは常に一定。感情の起伏を感じさせない、まるで自動音声のような響き。周囲のデスクから「お疲れ様です」という声がパラパラと返ってくるが、戒はそれに会釈だけを返し、誰かと視線を合わせることは巧妙に避けた。会話は面倒の始まりだ。特にこの金曜の夕方という時間帯は「この後一杯どう?」という、最悪のイベントへの招待状になりかねない。
彼の所属する中小企業のオフィスは、良くも悪くもアットホームな雰囲気に満ちている。それは人によっては心地よいのかもしれないが、戒にとっては息苦しさの同義語だった。
彼は、過度な人間関係を構築することを、人生における非効率の極みだと考えていた。仕事は契約。定められた業務を、定められた時間内に滞りなく遂行する――それ以上でも、それ以下でもない。昇進や出世競争にも興味はない。それは、より多くの責任と、より密な人間関係という名の枷を自ら首にかける行為に他ならなかった。
エレベーターホールで一緒になった営業部の若手社員が、「天野さん、いつもお早いですね。何かご予定でも?」と、人懐こい笑みを向けてきた。
「いえ、特に」
戒は短く答え、壁の階数表示ランプをただ見つめる。会話終了の合図だ。若手社員は気まずそうに頬を掻き、エレベーターが到着すると、そそくさと乗り込んでいった。戒はそれを見送り、一つ後のエレベーターに乗る。一人きりの箱の中、彼はようやく全身の緊張を解くことができた。
彼の人生のテーマは『平穏』。そしてその平穏は、彼自身が築き上げた『日常』という名の城壁によって守られている。城壁の外で何が起ころうと、彼の知ったことではない。嵐も、戦争も、世紀の発見も、城壁の内側には関係ない。彼が求めるのは、昨日と同じ今日が明日も繰り返されること――ただそれだけだった。
最寄り駅の改札を出ると、駅ビルに併設されたスーパーマーケットに吸い込まれる。これも彼の日常を構成する、重要な儀式の一つだ。今日の夕食の献立を考えながらカートを押す。彼の頭の中にあるのは、冷蔵庫の在庫と特売品のリストだけ。
豚バラブロックに貼られた 30%OFF のシールを見つけた時、彼の口元がほんのわずかに緩んだ。今日のメニューは角煮にしよう。あとは付け合わせのほうれん草と、明日の朝食用の食パン。そして、ささやかな贅沢として、少しだけ値段の張るクラフトビールを一本カゴに入れた。
自宅マンションのエントランスでオートロックを解除し、再び一人きりのエレベーターに乗る。彼の城はこのマンションの 703 号室。築 15 年、広さ 35 平米のごく変哲もないワンルーム。
しかしそこは、彼のすべてが完璧にコントロールされた聖域だった。
ドアを開けると、香りのない整頓された空間が彼を迎える。玄関で靴を揃え、コートをハンガーにかけ、買ってきた食材を冷蔵庫にしまう。その一連の動作に淀みはない。
彼はまずシャワーを浴びて、仕事という城外の汚れを洗い流す。部屋着に着替えてキッチンに立つと、ここからが彼の本当の時間だった。
米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れる。豚バラブロックを手際よく切り分け、フライパンで焼き目をつけ、圧力鍋に放り込む。醤油、みりん、酒、砂糖、そして隠し味のオイスターソース。完璧な配合で調味液を作り、鍋に注いで火にかける。
コトコトと鍋が静かに歌い始めるのを合図に、彼はほうれん草を茹で、水気を絞っておひたしを作る。
調理の合間に、彼は本棚から読みかけの歴史小説を抜き取った。分厚いハードカバー。彼が愛するのは、すでに結末の決まった物語だ。予測不能な現実と違い、物語の中の登場人物たちは定められた運命のレールの上を正確に進んでいく。それが心地よかった。
豚の角煮がとろけるように柔らかく煮込まれ、炊き立てのご飯の湯気が立ち上る頃、彼の夕食の準備は完璧に整った。小さなテーブルに、角煮の皿、ほうれん草のおひたし、豆腐とわかめの味噌汁、そして白いご飯が並ぶ。まるで料理雑誌の一ページのようだ。
彼はその光景に満足し、冷蔵庫からクラフトビールを取り出す。グラスに注ぐと、豊かなホップの香りがふわりと広がった。
「いただきます」
誰に言うでもなく呟き、彼は箸を取る。とろけるような角煮の脂の甘みと、少しだけ苦みのあるビールの組み合わせは、一日の疲れを癒すのに十分すぎた。
食事を終え、食器を洗い定位置に戻す。すべてが元通りになった部屋で、彼はソファに深く身を沈めた。間接照明だけの薄暗い空間。壁にかけられた時計の秒針が、静かに時を刻む音だけが聞こえる。
(…今日も無事に終わった)
変化のない一日。波風の立たない一日。それこそが天野 戒にとっての幸福の形だった。このまま明日も明後日も、一年後も十年後も。この静かな城の中で、物語の結末を読むように自分の人生を平穏に終えたい。彼は心からそう願っていた。
その夜、彼の――そして世界の――『日常』という名の城壁が、音もなく崩れ去ることになるとは知る由もなかった。
異変は前触れもなく訪れた。
戒が読みかけの小説に再び没頭しようとした、その瞬間だった。視界の右上隅に、ふっと半透明のウィンドウが現れた。まるで PC のデスクトップに表示されるポップアップ広告のように。
しかしそれは、彼の網膜に直接焼き付けられているかのように、彼がどこを向いても、瞬きをしても、決して消えることはなかった。
【配信プラットフォームへようこそ】
黒い背景に、白いゴシック体の無機質な文字列。それだけが静かに浮かんでいる。
「……なんだ?」
思わず声が漏れた。彼はまず極度の眼精疲労を疑った。今日は一日中 PC の画面と睨めっこだったから、飛蚊症か何かの類だろう。
彼は立ち上がり、洗面所で目薬を差す。冷たい液体が目に染み渡り、数回強く瞬きをする。だが、ウィンドウは消えない。右を向けば右に、左を向けば左に、まるで彼の視界に固定されたかのように、同じ位置に留まり続けている。
(幻覚か…?)
疲れているのだろうか。彼はソファに戻り、目を閉じた。暗闇の中でも、そのウィンドウの残像だけが網膜の裏に、ぼんやりと浮かんでいるように感じられた。
その時、静寂を切り裂いて、ポケットに入れていたスマートフォンのバイブレーションが激しく震えた。緊急速報アラートのけたたましい警告音ではない。LINE やニュースアプリの通知が、異常な頻度で立て続けに届いていることを示す断続的な振動だった。
何事かとスマホを手に取ると、ロック画面は通知で埋め尽くされていた。友人からのメッセージ、登録しているニュースサイトの速報、SNS のトレンド通知――そのすべてが同じ内容を告げていた。
『おい、なんか変なの見えないか?』
『【速報】世界中の人々の視界に謎のウィンドウが出現か』
『Twitter トレンド 1 位:#謎のウィンドウ』
戒は息を呑んだ。自分だけではなかった。これは個人的な幻覚などではない。世界規模で発生している未知の異常事態だ。
彼はリモコンを掴み、テレビの電源を入れた。どのチャンネルも通常の番組を中断し、緊急特番に切り替わっていた。画面には、彼が見ているものと全く同じウィンドウの CG 映像が映し出され、困惑した表情のキャスターが興奮気味に喋り続けている。
「…専門家によりますと、これは大規模なサイバーテロ、あるいは何らかの集団幻覚を引き起こす新技術の可能性も指摘されています。政府は先ほど国民に対し、冷静に対応し、不用意にこのウィンドウに触れたり操作したりしないよう、強く呼びかけています…」
スタジオにいるコメンテーターたちは、口々に「ありえない」「SF 映画のようだ」「一体誰が何の目的で」と、中身のない言葉を繰り返している。誰も何が起きているのか理解できていなかった。
SNS を開けば、そこは混乱の坩堝だった。世界中の人々が、自分の視界に映るウィンドウのスクリーンショット(もちろんそれはただの風景写真にしか見えないのだが)を投稿し、不安と恐怖、そして一部の不謹慎な興奮を撒き散らしていた。
戒はテレビの騒音を BGM に、ただソファに座り尽くしていた。彼の愛する平穏な日常が、ガラスのように砕け散っていく音が聞こえるようだった。世界という名の巨大なノイズ。それは彼の城壁を、いとも容易く乗り越え、彼の聖域のど真ん中に土足で踏み込んできた。
(面倒なことになった…)
心の底からそう思った。この騒ぎが収まるまで家で静かにしていよう――それが彼にできる唯一の自己防衛だった。
その時、彼の視界に新たな変化が起きた。
他の人間には見えていないであろう第二のウィンドウが、最初のウィンドウの隣に、すっと音もなく表示されたのだ。
【管理者用コンソールへようこそ】
ユーザー ID: Amanokai_703
ステータス: 管理者(Administrator)
「…は?」
今度こそ彼の口から素っ頓狂な声が漏れた。管理者? 俺が? なぜ?
彼は恐る恐る、その新しいウィンドウに意識を集中させてみた。すると、まるで思考を読み取られたかのように、ウィンドウの内容が詳細なメニュー画面へと遷移した。
【メインメニュー】
・スキル管理
・ユーザーリスト(オンライン: 約 48 億)
・ワールドマップ(アクティブエリア表示)
・ログ閲覧
・利用規約設定
見慣れた PC の GUI に酷似したインターフェース。だが、そこに並んでいる単語は、どれもこれも現実離れしていた。ユーザーリストに表示された「約 48 億」という数字は、おそらく今この瞬間に起きている人間の数だろう。ワールドマップを選択すれば、地球の衛星写真のような映像が広がり、無数の光点が世界中で明滅している。
そして彼は、最も重要な項目に気づいた。
【スキル管理】
└ スキルリスト(1 件)
└ 【F】絶対寝坊しない
└ 効果: 設定した時刻、あるいはその数分前に、極めて自然かつ爽快な覚醒を促す。
└ 対価設定: ______
「絶対寝坊しない…?」
あまりにも地味で、あまりにも日常的な、しかし誰もが「まあ、あったら少しは便利かも」と思うであろう絶妙なスキル。世界を揺るがす大事件の核心がこれだという事実に、戒は思わず眩暈がした。
そしてその下にある『対価設定』の項目。そこは空白になっており、カーソルが点滅している。まるで戒に入力を促しているかのように。
(俺が…これを決めるのか…?)
その瞬間、彼は理解した。自分はこの未曾有の事態の単なる傍観者ではない。この狂ったゲームの、唯一のルール管理者に、なぜか選ばれてしまったのだと。
彼の額に、じっとりと汗が滲む。面倒だ。面倒だ。面倒だ。
彼の思考はその一言で埋め尽くされた。関わりたくない。見なかったことにしたい。このまま電源を切るように意識を閉ざしてしまいたい。
だが視界に浮かぶコンソールは、彼の意思とは無関係に、その存在を主張し続けていた。天野 戒の築き上げてきた『日常』という名の城壁は、今や完全に崩壊した。彼は望むと望まざるとにかかわらず、世界の中心に引きずり出されてしまったのだ。
部屋の中には、テレビキャスターのヒステリックな声と、窓の外から微かに聞こえるパトカーのサイレンの音だけが響いていた。天野 戒はソファの上で石のように固まっていた。
彼の視界では、無機質な管理者用コンソールが、静かに、しかし有無を言わせぬ圧力で彼からの応答を待ち続けている。
『対価設定』――その空白の欄が、まるで深淵のように彼の思考を吸い込んでいく。
(どうすればいい…)
彼の頭の中で高速でシミュレーションが始まった。選択肢はいくつか考えられる。
一つ、金額を設定する。例えば『100 円』と。
もしこのスキルが本物なら、世界中から莫大な金がこのプラットフォームに流れ込むことになるだろう。そして管理者である自分は、その金の流れをコントロールできるのかもしれない。億万長者? いや、国家予算規模の富を手にすることも可能かもしれない。
――だがその考えは即座に却下された。金は人の欲望を最も強く刺激する。金の流れは必ず追跡される。ハッカー、政府機関、犯罪組織……世界中のありとあらゆる組織が金の出所である自分を特定するために血眼になるだろう。そうなれば、彼の愛する平穏な日常など木っ端微塵に吹き飛んでしまう。何より、世界中から金の催促やクレームが来ることなど、想像するだけで吐き気がした。却下だ。
二つ、無視する。
このまま何もせず、コンソールを放置する。これも魅力的な選択肢に思えた。自分は何もしていない。何も決めていない。だから自分に責任はない。――そうやって目を逸らし続ける。
しかし本当にそうだろうか? この空白の欄は明らかに管理者の入力を待っている。もし自分が何もしなかったせいでシステムが暴走したり、あるいはとんでもないデフォルト値(例えば利用者の寿命を対価に取るなど)が設定されたりしたら? 何もしなかったことが最悪の選択になる可能性も否定できない。これもリスクが高すぎる。
三つ、システムを停止させる。
管理者ならば、あるいはこのプラットフォーム自体を停止させるコマンドがあるのかもしれない。それができれば、すべてを元通りに――
いや、と戒は首を振った。本当に元通りになるのか? すでに世界はこのプラットフォームの存在を知ってしまった。消し去ったとしても、一度起きたことは消えない。そして、もし停止に失敗すれば、自分は管理者としてシステムに干渉しようとした痕跡を残すことになる。それは、自ら「ここに管理者がいます」と手を挙げるようなものだ。
思考が行き詰まる。どの選択肢も、彼の信条である『面倒事を避ける』という原則に反しているように思えた。
彼は自分に与えられた権限の範囲を、もう一度冷静に確認する。スキル管理、ユーザーリスト、ログ……そして彼は一つの結論にたどり着いた。
自分にできるのは、おそらくこのプラットフォームという舞台の上で、与えられた役割を演じることだけだ。システムの根幹を破壊したり、その存在を消し去ったりすることはできない。ならば取るべき行動は一つしかない。
この舞台の上で、最も目立たず、最も波風を立てず、最も誰からも文句を言われない選択をする。
「……」
戒はすっと息を吸った。そして、まるでキーボードをタイプするかのように指先を動かすイメージで、対価設定の空白欄に二文字を打ち込んだ。
『無料』
これだ、と彼は思った。無料。タダ。対価なし。
これならば金の流れは発生しない。身元が特定されるリスクは最小限になる。有料にして「金を取るのか」と非難されることもなければ、「効果がないじゃないか」というクレームに発展する可能性も低い。タダなのだから文句は言うまい。
そして何より『無料』という設定は、彼に心理的な免罪符を与えてくれた。
(俺は何も奪っていない。ただ、そこに在ったものをタダで解放しただけだ。だから、これから何が起ころうと俺の責任じゃない)
それは究極の責任逃れであり、彼が彼の平穏を守るための苦肉の策だった。彼は祈るような気持ちで、コンソールの『確定』ボタンに意識を集中させた。
【F】絶対寝坊しない|対価:無料
この設定を全ユーザーに公開しますか? [Y/N]
彼は迷わず「Y」を選択した。
その瞬間、テレビの向こうでキャスターが驚きの声を上げた。
「あっ! 今ウィンドウに変化が! スキルリストに対価『無料』という文字が表示されました!」
スタジオが、そしておそらく世界中が、新たな混乱に包まれる。SNS のタイムラインは「無料だって!」「どういうことだ」「罠じゃないのか?」という言葉で、再び加速し始めた。
戒はテレビの電源を消した。外の喧騒が嘘のように遠ざかる。
彼は自分の選択が世界に何をもたらすのか、まだ正確には理解していなかった。
ただ、自分は最善の手を打ったはずだと信じたかった。
彼は管理者コンソールに新たに『ワールドマップ』という項目を表示させた。そこには地球を模した立体映像が浮かんでおり、無数の光点が明滅している。
彼が『無料』と設定してから数分後。ワールドマップ上に、ぽつりぽつりと、これまでとは違う鮮やかな青色の光点が灯り始めた。
ログ: ID: dfa83h が【F】絶対寝坊しない を取得しました。(エリア: 日本 東京)
ログ: ID: 93kfnr が【F】絶対寝坊しない を取得しました。(エリア: アメリカ ニューヨーク)
ログ: ID: b52mns が【F】絶対寝坊しない を取得しました。(エリア: ブラジル サンパウロ)
ログウィンドウには凄まじい速さで、スキルの取得履歴が流れ続けていく。青い光点は瞬く間に増殖していった。最初は数十、数百だったものが、数十分後には数万を超えていた。
彼らは勇気ある者か、愚かな者か。あるいは、ただの野次馬か。
戒は、まるで神の視点から自分の蒔いた種が芽吹いていく様を、ただ眺めていた。
数時間後、スキルの取得者数が「78,542」という数字を示したところで、増加のペースは緩やかになった。おそらくこれが初日に動いた人間の総数なのだろう。
78,542 人。
この全員が、明日の朝一斉に、彼の設定したスキルによって完璧な朝を迎える。その時、世界は一体どうなるのか。
戒は自分の部屋のベッドに横たわりながら、暗い天井を見つめていた。これから訪れる夜明けが、これほどまでに恐ろしいと感じたことは生まれて初めてだった。彼の愛した平穏な日常は、もう二度と戻ってこないのかもしれない。
夜が明けたのか、それともまだ夜の中なのか。天野 戒の意識は、ふっと驚くほど自然に浮上した。
重力から解放されたかのような軽やかな覚醒。泥の中に沈んでいた意識が引き上げられるような不快感は一切なく、まるで最初から水面に浮かんでいたかのように滑らかに目が開いた。
部屋はまだ薄暗い。しかし頭は冴え渡っていた。昨夜の混乱と心労が嘘のように、思考はクリアで、身体には活力が満ちている。これが『絶対寝坊しない』のスキル効果か――彼は身をもってその完璧すぎる性能を体験した。
そしてその完璧さが、彼に現実を、そして恐怖を叩きつけた。
(本物だ…)
枕元のスマートフォンを手に取ると、表示された時刻は午前 5 時 55 分。彼がセットしていたアラームが鳴る、ちょうど 5 分前だった。
その瞬間から、世界は変わった。
彼が手にしていたスマートフォンが、狂ったように震え始めた。SNS の通知、ニュース速報、友人からのメッセージ。昨夜とは比較にならない、まさに洪水のような情報の津波が、彼の小さな端末に押し寄せていた。
「マジかよ、昨日のあれ本物だった…」
「アラームの 5 秒前に、まるで鳥のさえずりでも聞いたみたいに自然に目が覚めた。何これ、怖い」
「目覚めが良すぎて逆に不安になるレベル。二度寝する気が全く起きないんだが」
SNS のタイムラインは、同じような内容の投稿で埋め尽くされていた。昨夜スキルを取得した 78,542 人が、ほぼ同時に同じ奇跡を体験し、その衝撃をネット上に解き放ったのだ。
最初は「またまた」「どうせネタだろ」と冷笑していた人々も、様々な言語で驚くほど具体的で、嘘とは思えない体験談が次々と投稿されるのを見て、次第にその認識を改めていく。
そして一つのハッシュタグが自然発生的に生まれ、世界中のトレンドを駆け上がった。
#謎のスキル本物だった
そのタグを追うだけで、人類が新たな現実に直面している様が手に取るように分かった。
「半信半疑だったけどこれはガチ。人生最高の目覚めだ」
「昨日スルーした奴息してる? w 今すぐダウンロードしとけ。無料だぞ!」
「昨日寝坊で会社クビになった俺に謝ってほしい」
懐疑は確信へ。静観は熱狂へ。人々の感情が沸騰していく。
午前 7 時を回る頃には、事態は新たなフェーズに移行していた。昨日まで様子見を決め込んでいた億単位の人間が、我先にとプラットフォームにアクセスし、『【F】絶対寝坊しない』スキルをダウンロードし始めたのだ。無料であることも、その勢いを爆発的に加速させた。
戒はベッドから起き上がれないでいた。彼は管理者用コンソールを開き、ワールドマップを表示させる。
昨夜はまばらだった青い光点が、今やウイルスのように大陸の輪郭を覆い尽くさんばかりの勢いで増殖していた。
【F】絶対寝坊しない|取得者数:948,152… 2,319,874… 11,547,980… 34,891,044…
まるで壊れたスロットマシンのように、カウンターの数字が回り続けている。現実感のない天文学的な数字。その一つ一つが、生身の人間の選択であるという事実が、彼に重くのしかかる。
彼はテレビをつけた。もはやどの局も通常の番組を放送してはいなかった。画面には「【緊急速報】スキルは本物と判明! 人類は新たなステージへ!」という扇情的なテロップが躍っている。
昨日まで「集団ヒステリーの一種」などと冷静に分析していたはずのコメンテーターが、今日は一転して「これは神の御業か、あるいは宇宙からのメッセージか!」と、興奮で顔を紅潮させて叫んでいた。
街に繰り出した中継レポーターは、道行く人々にマイクを向けている。誰もが興奮と少しの怯えが混じった表情で、自分のスマートフォンと空を交互に見上げながら、スキルについて語っていた。もはやこの話題以外のすべてが、世界から消え去ってしまったかのようだった。
社会機能は麻痺寸前に陥っていた。電車は動いている。店も開いている。
しかしそこにいる人々の意識は、ここにはない。誰もが自分の視界の隅に浮かぶプラットフォームと、そこから与えられた小さな奇跡に心を奪われていた。仕事や勉強が手につくはずもなかった。これが、人類が『パラダイムシフト』を初めて肌で感じた一日だった。
ピロン、と軽快な通知音が鳴り、戒はびくりと肩を震わせた。会社の上司からのグループ LINE だった。
『緊急連絡。本日は社会的な混乱を鑑み臨時休業とする。各自安全を確保し、不要不急の外出は控えるように』
戒はそのメッセージに乾いた笑いを漏らした。
(社会的な混乱…か)
その混乱を引き起こした張本人が、今こうしてワンルームの部屋で、誰にも知られず膝を抱えている。これほど皮肉なことがあるだろうか。
彼は会社に「体調不良で休みます」と連絡を入れるつもりだったが、その手間さえ省けてしまった。
彼はただ、自室の PC の前に座り、管理者用コンソールを呆然と眺めていた。億の単位に達したカウンターは、それでもまだ止まる気配を見せない。
(俺は…一体何をしてしまったんだ…?)
テレビから流れる熱狂的な報道も、SNS を埋め尽くす興奮の声も、彼にはまるで遠い国の出来事のように感じられた。
ただ、この世界的な狂騒が、すべて自分の部屋で、自分の「面倒だ」という、たったそれだけの感情から始まったことだという事実だけが、冷たく重い現実として彼の背筋を凍らせていた。
彼の愛した平穏は、どこにもなかった。
世界は彼の与えたスキルによって熱狂し、未来への期待に満ち溢れている。だがその輪の中心にいるはずの彼だけが、誰よりも深い孤独と、先の見えない不安の中に、たった一人で取り残されていた。
(今はまだ『絶対寝坊しない』だからいい…)
彼の脳裏に最悪の可能性がよぎる。
(もし次に出現するのが…こんな無害なスキルではなかったとしたら…?)
人を傷つけるスキルだったら? 世界を破壊するスキルだったら? その時、自分はまた『無料』という免罪符に逃げ込むことができるのだろうか。
彼の思考を中断するように。まるでその不安に答えるかのように。
静まり返った部屋の中で、彼のコンソールの通知欄が、静かに、しかしはっきりと新たなメッセージを知らせた。
それは彼が最も恐れていた、現実からの呼び出しだった。
[NOTICE] 新規スキルが生成されました。承認しますか? [Y/N]
戒は息を呑んだ。震える視線を、ゆっくりとその通知の下に表示された新たなスキルの詳細へと動かす。
そこに記されていた文字列を認識した瞬間、彼の心臓は氷水で満たされたかのように冷たく、そして重く沈んでいった。
熱狂に沸く世界の裏側で、天野 戒の本当の戦いが始まろうとしていた。




