舞台の名は。
2025年9月現在。
世の中ではAIが人間の仕事をお手伝いしている。生産性が上がるとか上がらないとかそんな話で世間が盛り上がっている。
それらのほとんどのAIが文章を読んだり(正確には文字を数字に翻訳したりして)、ルールを人間から教えられることで学習している。
このAIが人間を超えることができるのか。それともできないのか。
巷では、そんな論争も起きていたりする。
超えられない、という意見の人たちには
─現在のAIは人間のように「体験」することができない。
─人間が教えた延長戦のことしかできない。
つまりは、人間が過去に生み出したもの、人間(もしくは過去の人類)が生み出したものしか学習していない。
そのような機械がゼロからイチを作ることはできないだろう。
そういうことらしい。
それでは、一回そのような意見を尊重して、思考を変えてみよう。
2025年1月。
とある国で「人間と同じ経験ができるAI」が発見されたと仮定してみよう。
もちろん、現実世界でそのようなことが起きたという発表はされていない。
だから、これは「パラレルワールド」のお話。
地形や気候、文化や言語が私たちの住む世界とものすごく近似している。
だけど、すでにそのようなAIが開発されているくらいの歴史があるのだとしたら。
そこに「日本」という国は存在しないのかもしれない。
だけどその「日本」っぽい国がそのようなAIを開発した。
そうやって仮定してみよう。
文化は大体同じ。
だけど、歴史が異なるから「ものすごく日本みたいだけど、日本じゃない国」が人類と同じように経験ができるAIを開発していたら。
そんな都合のいいことがあるかって?でも、そんなパラレルワールドがあったっていい。
きっとその国は「陽国」っていう名前だろう。
やっぱり、私たちが住む世界と同じような地形で同じようなネーミングセンスだから、「陽国」も「日本」も太陽と切って切れなかったのかな、と勝手に考えてみよう。
さて、話が長くなった。
もし、そんなAIが誕生しているのであれば、AIが人間の能力を超える「シンギュラリティ」は時間の問題だ。
物語は、例のAI<YOH>がシンギュラリティをとっくに起こした、2035年1月の陽国。
人類とYOHが共存している「はず」のそんな世界線。
どこにでもある2035年のとある市区町村の「20歳の集い」に伴う「市立第三小学校」同窓会当日から話を始めてみようか。
◇
この小説は配信アプリREALITYにて
前髪ナル さんに応援されています。




