第一話 「Tigridia」
ただひたすら、逃げていた。
荒れ果てた街並み。
崩れかけたビルの影を縫うように全力で駆け抜ける。
「……はぁ、はぁっ……っ!」
肺が焼けるみたいに痛くて息もまともに吸えない。
でも、止まるわけにはいかなかった。
だって背中には――
「ルリ! しっかりしろ!もう少しだ、もう少しで……!」
「……ごめん……ナツ……」
力なく漏れる声。
それでも、俺の服を掴む手は必死ですこし痛いくらいに震えてた。
「謝るなよ……! 今はそれどころじゃねぇだろ!」
その時。
ドォンッ、と遠くで何かが爆ぜる。耳に残る甲高い音――銃声。
追っ手がすぐそこまで迫ってる。
「クソッ……!」
焦燥で奥歯を噛み締めた瞬間。
「――おい。こっちだ」
目の前に、影が立ちはだかった。
街灯に照らされて現れたのは、黒いコートを着た男。
冷めた目で俺たちを見下ろしてくる。
服装に見覚えがあった。
政府公認の夜哭統制機構――《LORE》のもの。
「……お前……LOREの人間か?」
男は鼻で笑い、わざとらしく肩をすくめる。
「半分正解。昔は確かにいたけどな。今はフリーだ。…見ろ」
魁星の声に、俺は思わず足を止めた。
ビルの影。そこにいたのは、人間の“はず”だったもの。
皮膚はまだらに黒く染まり、腕は異様に肥大化。血走った目でこちらを睨みつけ
――次の瞬間、獣みたいな叫びをあげた。
「うわっ……!」
思わず後ずさる俺に、魁星が淡々と告げる。
「“夜哭”だ。……人間が異界に食われちまった末路」
「夜哭……?」
「初めは痣が出る。次に身体の一部が変質する。
……自我は残る場合もあるが、大抵は完全に崩れる」
魁星はコートの内側から、禍々しい光を放つ剣を取り出した。その刃は青白く揺らめき
――まるで感情そのものに呼応してるように見えた。
「DESPERATIO……」
ルリがかすれ声で呟く。
魁星は口角を上げる。
「よく知ってんな。夜哭の核を焼き切れる唯一の武器だ。普通の剣や銃じゃアイツらは死なねぇ」
夜哭が咆哮し、俺たちに飛びかかってきた。
「下がってろ」
魁星の声と同時に、青い閃光が走る。次の瞬間
――夜哭の体は一刀のもとに両断され、核らしき光が焼き切られて消えた。
残されたのは、ただ静寂。
魁星は剣を鞘に収め、吐き捨てるように言う。
「夜哭は悪魔でも怪物でもねぇ。
……元は人間だ。だからこそ厄介なんだよ」
ビルの一角に作られた、粗末な隠れ家。
暖房も効かず、冷気が床から染み上がってくるような部屋だが
――今の俺たちには、それだけで十分だった。
ベッドに横たわるルリが、ようやく肩の力を抜いたように見える。
「痛いか?」
「……ううん」
嘘だ。
唇の端が震えている。顔色も悪い。
それでも俺を安心させようとして、そう言うんだ。
「ねぇナツ…これから、どうするの」
「……逃げるしかない」
短く答える俺を、魁星が壁にもたれて見下ろしていた。
「しばらくはここで休め。回復するまでは動くな」
「でも…あいつらが」
「ああ。だから長居はできねえ。けど――」
魁星の言葉が途切れた。
同時に、外から足音。鋭く、規則正しい。
「っ……!」
「随分早かったな……」
魁星の目が細められる。
扉の向こうに迫る気配――
LOREが、この場所を嗅ぎつけた。