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9/11

1月11日

「──はぁ──はぁ─────ぁ」


目が覚めると、涙を流していた。

誰の為の涙なのか、

───何かを成そうとして網出た泪であるか、

ただ気分が悪い───、

気持ち悪い。

頭が痛い。

常に自分の身体を支えていないと、崩れてしまいそうだ。自分を保てなくなりそうだ。

胃から、あらゆる管から、心の臓から、ありとあらゆる感情が押し戻されて吐きそうになる。



「あら、おはよう柚希──って、随分顔色悪いじゃないの」

「おはよう母さん。

大丈夫だよ、ちょっと嫌な夢を見ただけだよ」

「あんた、今日は休みな。学校には連絡しておくから」

「いや、大丈夫、──本当に大丈夫だから」


心配する母親を押し退けて、半ば強引に家を出る。いつも聞いているはずの声も、玄関のドアを開ける時の音も、──ぜんぶ半音高く聞こえる。

───気分が、わるい。



───走った。

走らざるを得なかった。不思議と、自分の中で何が起きたのかは解らない。

それでもだ。

今走らなければ、

とてもとても、どうしようもないくらいに身体が、心がどうにかなりそうだった。

判っている。

判っているはずだ。

きっと何とも無い。

──あれは単なる夢なんだから、何も恐れることなど無い。

そうだ、何も無いのだ。

だから、

きっと、大丈夫なんだ。


そのまま、ボクは学校まで走り続けた。

足が、身体が、その臓器が、

全てが限界を迎えて尚も、走り続けた。

じゃないと、ボクはどうにかなっていたから。

───(いや)な予感がする。



学校に着いてから数十分が経過した。

着いたのは、ホームルームの30分以上前。

だから、気長に彼女が来るのを待った。

でも、されども、

どれだけの時間まっても、ミラが登校してくることは無かった──


「待て宵崎! 今俺たちが確認してる! だからお前は信じて待て!」

「───ごめん先生」


校門まで追いかけてきた担任の男を押しのけて、走った。その時の担任の顔は酷くひきつっていて、──多分、ボクと似通った顔色だったと思う。


何故来ない。どうして来ない。何があった。

彼女に、何が起きたというのだ。

そこで脳裏に浮かぶのは、

─────昨夜の、惨い悪夢。

思い出したくも無い。

目を塞ぎたくなる。耳を塞ぎたくなる。

歯ぎしりせずにはいられない。躰も心もカチカチに硬直して、まるでコンクリートだ。

拳を握り込みすぎて、ちょっとだけ長く鋭い爪の切っ先が手のひらの生命線にチクリと刺さる。滴った血は、(あか)くて凄く綺麗だ───。


「─────ミラ」


思わず溢れ出たのは、想う友の名前。


「───探さなくちゃ。

探さなくちゃ探さなくちゃ探さなくちゃ」


何処にいる。

何をしてる。

何を見てる。

いつからいない。

いつから、どこで、誰といる。

分からない。

判らない。



───ふと、声を聞いた。


「───随分と死にそうな顔をしているねぇ。どうしたんだい? 何か悪いものでも食べたかい?」


つい唖然とする。

サラりと長い黒髪が揺れる。

日中に彼女を見かけるのは、初めての事だ。


「シトラス! ミラが! ミラが!」

「落ち着きなよ。まずは冷静になるのは大事だよ?

──泰然自若」

「─────」


────。


「萩村ビルの屋上───」

「───え?」

「いいから急ぎな! 柚希!」



(はぁ───はぁ──疲れたなあ。疲れるなあ)


それでも、足は緩めなかった。

どれだけ辛くても、

どれだけその苦痛が大きくても、

ボクはその歩みを停めなかった。

彼女が待っているから、──いや、違うか。

この際理由なんかどうだっていい。

そうだな──、

何か理由をつけるとするなら、ボクは彼女の、

───友達だから。



死にたがっている人間と、殺したがっている人間は、どこかで同じ座標にいる。


太陽は天蓋の真上。

地面が融ける寸前のアスファルトの上、ただひとつだけ、風が凪いだ場所がある。

ビルの屋上。コンクリートの手すり。その端に、少女の足がぶら下がっていた。


「やめて──お父さん、私は、まだ……」


その男の目に、理性の光はなかった。

黒目の中央にピンで止めたような瞳孔。そこだけが異常に細くなっている。──まるで、それがすべての光を遮断しているように。


ミラの父親。

彼はもう、ずいぶん前からこの世界にいなかったのかもしれない。


「───忌々しい。アイツの血が混ざってるってだけで、こうも腹立たしい」

「───でも私は」

「お前はいつもそうだよな。いっつもいっつも俺の言うことなんて聞かないで、前も、アイツの事ばっかだったもんな」


彼女が貫けるのは沈黙のみ。

何かを言う事は出来ない。言葉が出ない。


「───ミラ!」


───叫ぶ。

やっと喉が動いた。

ボクは彼の数歩手前で、呼吸を止めていた肺に空気を送り込んだ。


「……誰だ、お前」

「ボクはその子の友達だ」

「柚希? なんで、ここに……」


ミラの目には、小粒の涙が溜まっていた。


「───一緒に学校に行こう。ミラ」

「ふざけるな。ふざけるなよ、俺はもう、解放されたいんだ! ここでミラを殺して、俺も楽になるんだよ!」


この父親は、娘を殺すことで、過去から現在にいたるまでの“人生”を閉じようとしていた。

だが──そんな結末は許されない。


「ミラは生きている。お前の都合で死なせていい命じゃない!」

「都合? 都合だと……!? お前に何がわかる!」


男の叫びが風圧を持って吹き飛ばす。

ひび割れた魂の叫びが、屋上全体を震わせた。

次の瞬間、男はコートの内側から銀の刃を引き抜いた。


「ならば見せてやる……この子がどれほど“歪んでいる”かをな……!」


ミラの目が見開かれた。

刺突の軌道は明確。的確。死を与えるためだけに研がれた動き。


 ──いや、間に合わない──!!


そう思った。

──────が。


「動くなッ!!」


爆音のような怒声と同時に、二つの影が割り込んだ。

制服を着た警察官。刃が振り下ろされる直前、男の腕は後方から強引に捻られ、彼の体はコンクリートにねじ伏せられた。鈍い音が響く。


ミラは、その場に座り込み、小さく震えていた。

ボクは彼女のそばに膝をつき、なにも言わずに肩を抱いた。

言葉なんて、いまさら何の意味も持たない。

こうして誰かが近くに居さえすれば、心は安らぐものだ。



───風が吹く。

肌寒さを忘れて走ったせいで、暑いのか寒いのかが混乱している。

ボクの短い髪の毛が、風に揺らされる。

ボクは気づけば、再び走り出していた。

何かを考えたりはしなかった。

ただただ足を動かした。

煌びやかに輝く太陽の下を、一心不乱に駆け巡る。

───決して立ち止まること無く、決して振り向く事無く、発砲された弾丸のように真っ直ぐに。

ボクが向かうべき先は、既に定まっている。

彼女がいる場所。


彼女が向かう場所は、当たり前だが、手に取るように分かる。

町外れにある、深い森。

その頂上へと足を急がせる。

多分───、

ここから、距離にして僅か2キロメートル。

ボクが本気で走れば、ほんの数分で到着する。

ボクにとってそれは、慣れた動作だった。

動きに一切の無駄を含まず、無我夢中で駆ける。

たった数日の間の関わり。

それでもボクと彼女とでは、長い時間のように感じる事ができる。



……



そうして、描いた空想は、実像と成る。

この街の全てが見渡せるその情景を背にし、彼女はそこに佇んでいた。

豊かな緑の真ん中に、一つ浮かぶ綺麗な影。

ボクが考えることくらい、簡単に理解出来る。予測できる。


「やぁ柚希。随分といい顔をしているねえ」


彼女───シトラスと自らを呼称した女はボクに向けそう言い放つ。

やはり、声を聞くと安心するのだ。

辻褄が合うな。

───安心する訳だ。


「ミラのお父さんは精神病院へ運ばれたよ。ミラは今、普察と事情聴取をしている。

ありがとうシトラス。シトラスが警察を呼んでくれたんでしょ?」


事件は、否。事件と言われるまで広がらなかった事態。

最悪の結末は、免れたのだ。


「そっか。そりゃあ、良かったね」


場の雰囲気も読まずして、大気中は風の音でうるさい。風が冷たいせいか、シトラスの耳は微かに赤く染まっている。


「ねぇ柚希。私はね、明日──ううん。多分、もうこの後すぐ、この街を出ていくんだ。

遠くへ行くんだよ、うんっと遠くへ。だからもう──会うことは無い」


彼女は悔いの無いような、そんな表情と声で言い切る。

驚きはしなかった。

彼女の事を気づいた時、いや、恐らくは出会った時から、別れはこうなんだろうと判っていたのだ。


「シトラス。あなたは、また、帰るの? あの、暗い部屋に。また、───泣き続けるの?」


ボクに意表を突かれ、彼女は一瞬だけ驚いた様子を見せ、

「──気づいてたんだ。でも、もう大丈夫だよ。───もう、多分泣かないから」


───強がり。


それでも、今は彼女を信じたかった。

それに対して、ボクはゆっくり頷いた。


「しっかし気づいてたとはねぇ〜! てっきり最後までバレずに貼り通せるかって思ってたのに」

「夢に、出てきたんだよ。いや、少し違う。多分ボクは、あなたの夢を見た」

「夢、か。あは、そりゃずるいなぁ」



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