はじめての夜
食事のあとは広くて清潔な浴室に案内された。中まで入ってこようとするオリガをなんとか断ってゆっくりと熱い湯につかる。
朝からいろいろなことがありすぎて、全然気持ちが追いつかない。
考えることはたくさんあるのに、考えがまとまらない。指がふやけるほど湯に浸かって、セシリアはあきらめて浴室を出た。
浴室の外ではオリガが待ち構えていた。ぎょっとするセシリアにバスローブを着せて、何くれとなく世話を焼こうとする。
セシリアは断ったが、仕事だからと言いくるめられて鏡台の前に座らされた。
オリガは、セシリアの赤毛の水分をしっかりとり、香油をたっぷり付け、意外にも優しい手付きで櫛っていく。
爪の手入れをされ、体にも香油を刷り込まれる。自分から驚くほど薔薇の良い香りがしてセシリアは少しひるむ。
「ちょっとやりすぎではないかしら」
オリガはセシリアの言葉が聞こえなかったように、手入れを続ける。
最後に恐ろしく肌触りの良いを寝間着を着せられ、寝室へと案内される。
寝室は程よく暖かく、香だろうか甘い花のような香りが漂っていた。明かりは枕元の燭台だけであたりを優しく照らしている。
部屋の真ん中に天蓋付きの大きな寝台があり、暗くてよくわからないが調度品もいくつか置いてあるようだ。
セシリアは早速寝台に潜りこみ、ふかふかの布団の上で思いっきり手足を伸ばした。
柔らかい布団に包み込まれてそのまま眠りそうになったセシリアの耳に、扉の軋む音が聞こえた。
セシリアは急いで体を起こすと、冷たい空気と共にアレクが入ってくるのが見えた。
夫婦なのだから同じ寝室というのは至極当たり前のことなのだが、セシリアの頭からは「そういうこと」がすっぽりと抜け落ちていた。
言葉が出ないほど驚いているセシリアを見て、アレクは顔をしかめた。
「露骨にいやな顔をするな」
「してません。驚いただけです」
「なぜ驚く。夫婦の寝室に俺が来るのがそんなに驚くことか」
「……いえ」
アレクが、寝台のセシリアから離れた空いている側に腰掛ける。セシリアは無意識に息を大きく吸い込み背筋を伸ばした。
「簡単に受け入れてもらえるとは思っていなかったが、ここまで警戒されるとはな」
「いえ、あの、これは……どうしていいかわからなくて」
アレクは寝台の上に上がり、セシリアに向かい合った。アレクの手がセシリアに伸びる。セシリアは思わず目をぎゅっとつぶった。
「俺が怖いか」
アレクはセシリアの肩に広がる赤毛をすくい上げ、そっとおろした。
「別に怖くは、……ただ心の準備が」
「その心の準備とやらはいつかはできるのかな」
「それは……」セシリアは少しためらったあとに言った。「なぜ待とうとするのですか。殿下なら好きなようにできるはずです」
「アレク、だ」アレクは律儀に訂正してから続けた。「それは、俺が嫌なんだ。甘いと言われるかもしれないが、お前も望んでそういう形になるのがいいと思っている」
「今の私にとってはありがたいですが、そうなる保証はありませんよ」
「そうだな。ここで自信満々に俺に惚れさせてやる、と言えればいいのだがな」
「随分と率直なんですね」
「俺にはなんの権限もないからな。いずれ王になる、というだけで様々な恩恵をこうむっているが、俺が決めて実行できることは今はなにもないのだよ。王太子という地位ですら父の気まぐれによってどうなるかはわからん。俺の一時の欲でお前との関係を悪くしたくはない」
昼間の王太子然とした態度とは違い、セシリアと年の変わらないただの男に見えた。嘘をついているようにも思えなかった。
「私も今更ここ以外には行くところはないのです。その、男女のことについてはわかりませんがアレクとの関係が悪くなることは私も望みません」
「そうか、わかった」アレクは大きなため息を吐いて続けた。「俺は少し仕事をする。お前はゆっくり休めばいい」
「なにかお気に触ったこと……だらけでしょうけど、私は……」
「別にお前に怒っているわけではない。ただ、少し頭を冷やしたいだけだ」
アレクは枕元にあったガウンを羽織ると、寝室の更に奥へと続く扉を開けた。
「明日からは妃教育が始まる。どうかゆっくり休んでほしい」アレクは言いたいことだけ言うと扉の向こうへ消えた。
「え、あの、ちょっと」
セシリアはぽつんとひとり寝室に残された。アレクに言われた通り、寝台に潜り込んだものの、全く眠れる気がしない。
アレクを説得して戻ってもらったほうがいいのだろうが、そもそもセシリアの心の準備ができていない。
仮にアレクが戻ってきたとして、めでたくお床入りとはならないだろう。
セシリアはごろりと寝返りをうった。アレクのいる奥の間の扉が見える。
圧倒的にアレクと話をする時間が足りないのだ、とセシリアは思う。
確かに残ることを決めたのはセシリアだが、一方的に話を聞かされ、もっと詳しく聞いたり何よりもアレクの気持ちを聞きたかった。
物音一つしない奥の間をセシリアは見つめた。執務中に邪魔することはためらわれたが、このままでは眠れそうにないし、なによりこの気持ちを無視することはできなかった。
寝台を抜け出し扉を控えめに叩く。しばらくして扉が細く開き、アレクが顔だけ出して言った。
「セシリア、まだ寝ていなかったのか。どうかしたか」
「あの、お仕事の邪魔をして申し訳ないのですが少しお話できませんか」
「話?」
「はい。いろいろともっと詳しく聞きたいこともありますし、なにより、私はあなたの、アレクの気持ちを聞きたいんです。何を考えて国じまいをしたいのか、もっと知りたいんです」
アレクはセシリアが言い終わってもしばらく黙っていたが、やがてくつくつと笑い出した。
「そうだな。あまりにも一方的過ぎたな。力になってほしいといいながら、お前のことを考えなかった。俺はどうにもこういうことに慣れていなくてな。今のように何かあれば遠慮なく言ってほしい」
「遠慮はします。今晩は眠れそうになかったのでお話ししたまでです」
「わかった。遠慮してもいいから今の調子でなんでも話してほしい」
笑いながら言うアレクは先程の率直さとはまた違った素直さが感じられた。
「早速話を聞きたい、と言いたいところだが今日はもう遅い。明日の夜、ここで話をしよう」
「寝室で、ですか」
「そうだ。ここは誰にも聞かれないですむ。……寝室ではいやか」
「そんな、滅相もない」
「不仲だと思われても困るので寝室を別にすることはできない。お前が気にするのであれば俺は奥の間で休もう」
「申し訳ないのですがそうしていただけると助かります」
「では明晩からはそうすることにしよう。頼むから今日はもう休んでくれ」
「はい」
そのまま扉を閉めようとするアレクにセシリアが声をかける。
「殿下はお休みにならないのですか」
「アレク、だ。俺は切りのいいところまで執務を片付ける。奥の間にはソファも簡易寝台もないので、お前が眠ったあとにそちらで休ませてもらってもいいだろうか」
「はい」セシリアは少し考えたあとに、にっこりと笑って答えた。
「では先に休ませていただきます。でん……、アレクもあまり根を詰めすぎないように早めにお休みくださいね」
「ああ、おやすみ、セシリア」
「おやすみなさい」
セシリアは再び寝台に戻ると胸のつかえがとれたのか、いくらもたたないうちにすうすうと寝息を立て始めた。