婚約式
真っ白な部屋で三日間過ごして、四日目の朝が来た。
昨日もアレクは昼過ぎにやってきて食料を置いていってくれた。アレクは籠を置くと、今日は忙しいと言ってすぐに姿を消した。
籠には、たっぷりのパンケーキと、ベーコンと卵、クリームに桃のコンポート、それに大きなポットとたくさんの焼き菓子が丁寧に詰められていた。
質素な食事とアレクからの差し入れをたっぷり食べて、ゆっくり眠って婚約式の朝を迎えた。
いつも通り、質素な朝食のあとに、たくさんの女官たちが部屋に入ってきてセシリアの婚礼の支度を始めた。
王太子の宮殿なので、女官たちがたくさんいるのも当然なのだろうが、今まで食事を運んでくる人間にしか顔を合せなかったので、セシリアは少し戸惑った。
セシリアは心の準備もできないままに、髪を複雑な形に結い上げられてベールをかぶせられる。ベールは目が詰まっていて視界が悪い。
何もわからないまま、女官に手を引かれて隣の礼拝室に連れていかれる。
広くはない礼拝室は人の気配で満ちていた。
そのまま身廊を進み、祭壇の前まで手を引かれる。祭壇の前には大柄な人影が立っている。女官からその人影に引き渡される。
見ず知らずの大きな手は、固くタコがある。
意外に思いながらもその手に自分の手を重ねたまま、セシリアは司祭が祝詞を唱え、参列者が賛美歌を歌うのを聞く。
賛美歌が終わると、ベールに手がかけられ一気に上へと引き上げられる。
急に入ってきた光が眩しくて思わず目をつぶる。徐々に目を開け、視界がはっきりしてくると目の前に立っていたのは食事を差し入れてくれたアレクだった。
正装しているものの、間違えようもない。
驚きすぎて息を吸ったまま止まってしまう。一方アレクはいたずらが成功した男の子のような、嬉しくてたまらないという顔をしている。
そのあとの式のことはよく覚えていない。アレクにエスコートされるまま、言われた通りに動いて式は終了した。
国王陛下と王妃殿下とも顔を合わせたのだが、一言二言挨拶を交わしただけで、正直それもよく覚えていない。
両親と兄も式に参列していたのだが、特に言葉を交わす暇もなくあっという間に退席してしまった。
そのあとは礼拝室の隣の小部屋ではなく王太子妃の部屋に通された。部屋には実家からの荷物が届いていて、母があつらえてくれた若草色のドレスに着替える。
座る間もなく女官が顔を出し「王太子殿下がお呼びです」と伝える。
女官に連れられて執務室へと向かう。執務室には二人文官らしい人間がいるが、セシリアを連れてきた女官も含め全員人払いされた。
アレクと執務机を挟んで対面する。セシリアは何か言わなければ、と思ったが何も言えなかった。
アレクが執務机から立ち上がり、視線の高さが逆転する。アレクが机を回り込み、セシリアの前に立つ。
「アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ヴォルガンティアだ。これからよろしく頼む」
「先日はお見苦しいところをお見せして申し訳ございませんでした、殿下」セシリアが深く頭を下げる。
「そんな堅苦しい態度はよせ、セシリア」
セシリアははじかれたように頭を上げた。怯え切った顔でぎこちなく言う。
「私、は、カタリナ・フォン・シーラッハです」
「それはもういいんだ、セシリア。どこから説明したらいいものか」アレクは天を仰いでため息を吐いた。「俺はセシリアを王太子妃に、と言ったのだが行き違いがあって、カタリナを王太子妃にということになっていた。俺はしばらく国を空けていて、気付いたときにはもう遅かった」
そんな都合の良い話があるだろうか、にわかには信じがたいがアレクの様子を見ると嘘をついているようには思えない。それにアレクがこんな嘘をつく理由はないはずだ。
「よくわかりませんが、私を王太子妃に、ということでお間違いないのですか」
「ああ、間違いない」
「でも、なぜ私なのですか。私は学校を卒業してから社交の場にも出ていません。それこそカタリナならばまだわかりますが」
「学校の礼拝室でもよく歌っていただろう」
「な、んでそれを」
「俺も礼拝室でしょっちゅう昼寝してた。そこで大声で歌うおもしろい女の子がいて、調べてみたらお前だった」
「それは……」ここにきた最初の日に歌っているところを見られてしまったが、それ以前に見られていたとは。
「それは殿下以外にも私が歌っていたことを見た人がいる、ということでしょうか」
「いや、そんなところでさぼっていたのは俺だけだ。俺以外、お前が礼拝室で歌っていたことを知ってる奴はいないと思う」
アレク以外の人間に知られていないということで少しほっとするが、それでも急にいろいろなことを言われて気持ちも理解も追いつかない。
「もしカタリナが来ていたらどうなっていたんですか」
「それはそれでどうとでもなる。それにカタリナはここには来られなかった。そうだろう」
この口ぶりだと、アレクサンドルはカタリナが駆け落ちしたことを知っているに違いない。ひょっとすると妊娠のことも知られているかもしれない。セシリアはまだ気は抜けないと思った。
「カタリナは、なにか罪に問われてしまうのでしょうか」
「シーラッハ家を咎める気はないし、王太子妃には正式にセシリア・フォン・シーラッハを迎えたことになっている」
「家のほうには」
「知らせてある」
今までの心配がすべて杞憂に終わって、体中の力が抜ける。安心したせいか、泣くつもりはないのに次から次へと涙があふれてくる。
アレクサンドルの大きな手がセシリアの頬に添えられ涙をぬぐう。
「そもそも全部俺が悪い。忙しくて婚約のことを人任せにしておいたらカタリナが王太子妃になっていた。俺の確認不足だ。近衛騎士だと嘘をついたことも。あのとき俺が王太子だと告げるのがためらわれてしまって嘘をついた。すまなかった」
セシリアは涙で何も言えず、ただアレクをただ見つめた。アレクはセシリアの頬に置いた手を肩へとまわし自分の胸へと抱き込んだ。
「本当にすまなかった」
優しく髪をなでられて気持ちが落ち着いてくる。家族以外の男性と触れ合うのははじめてだし、騙し討にあったようなものだが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
しばらく髪をなでていたアレクサンドルの手がセシリアの小さなあごを持ち上げる。アレクサンドルの顔がセシリアの顔にゆっくりと近付く。
「え?」セシリアが思っている以上に大きな声が出た。
「えって、セシリア……」
「すいません。でも……それに私なんかが王太子妃なんて」
アレクはしばらく憮然とした顔をしていたが、すぐに平然とした態度を取り戻した。
「なんだ、王太子妃という立場は不満か」
「滅相もありません。しかし私よりふさわしい娘がいたのではありませんか。それこそカタリナのほうが」
「いや、お前がいい」
「なぜですか」
「学生時代、セルディーン地方の水害についての報告書を学校に提出しただろう」
「はい、別荘があって思い出の場所でした。別荘は流されてしまってシーラッハ家には建て直す力はありません。なのでせめて私はどうしてそうなったかが知りたくていろいろと調べてまとめました。まとめると誰かに見ていただきたくて学校に提出いたしました」
「あれはよく書けていた」
「お読みになったのですか」
「読んだ。俺はお飾りの王太子妃はいらない。自分で考え、意見を言える王太子妃が欲しいのだ」
「あれは、思い出の場所が壊れてしまったのでなぜかと思って調べただけです。そんな自分の意見など」
「謙遜はしなくていい。能力があるのならばきちんと使え。優秀な人間を遊ばせておくほど今の国は人的に豊かではない」
ヴォルガンティア王国は肥沃な土地に恵まれて入るが、王の度重なる粛清で人材は不足している感は否めない。しかし急に言われても、セシリアはなぜ自分が、としか思えなかった。
「人が不足しているのは、私でもなんとなくはわかります。でも、なぜ私が。もっと優秀な殿方はいらっしゃるでしょう」
「殿方、ね。俺は今まで国事に関わってこなかった、全く新しい人材を見つけたい。例えば主人よりも力量のある奥方とかな。お前の家も似たようなものではないか」
「……」図星を突かれてセシリアは何も言えなかった。
「奥方がすべてを取り仕切っている家は少なくはない。夫が奥方の操り人形のような家も間々ある。俺はそんなまどろっこしいことはしないで、奥方が直接宮廷に出てくればいいと思っている。才があるのなら国のために使ってほしい」
「私に才があるとは思えませんが……それに、私は幼いころに神隠しにあっています。傷物ですよ」
「別にお前が悪いわけではないだろう。それに関しては」
アレクはふうっと息を吐いて、自分の蜂蜜色の髪の毛をくしゃりとかきあげた。
「伝えなければいけないことがある。が、今言っても混乱するだろう。日を改めてでいいか」
「はい、後日で結構です」これ以上、何か聞いても処理しきれない、セシリアも同じ気持ちだった「それより殿下」
「なんだ」
「そろそろ放していただけないでしょうか」
話している間、セシリアはずっとアレクの腕の中にいた。顔と顔の距離が近い。話の内容的に神妙な顔をしていたが、男性に抱きしめられたことなどないので、本当はどんな顔をしていればいいかわからなかった。
「だめか」
「だめ、というかものすごく話しづらいのですが」
「……わかった」
しぶしぶといった感でアレクがセシリアを解放する。
「言っておくが、別にお前が有能だからという理由だけで王太子妃に選んだわけではないからな」
何を言っているのだろうと首をかしげるセシリアに、アレクはあきれたように言った。
「お前は本当に察しが……、つまりなんだ、お前を気に入っているということだ」
「え」
「王太子である俺にとって妃候補の選択肢はそう多くはない。家の格というものがある。でもそれ以上に学校の礼拝室で見かけたときからこの娘しかいないと思ったのだが、嫌だったか」
「嫌、というか私にとって嫁ぐという選択肢がなかったので、正直困惑しています。なにもかも狐につままれたようで」
「それもそうだな。お前にとってはなにもかも初耳のことでさぞかし驚いたと思う。しかし、俺はお前にまだ話さなければならないことがある。俺が一番言っておかなければならないことだ」
「何、ですか」今まででも十分驚きの連続だったが、これ以上なにがあるのだろうか。聞くのが少し怖い。
「俺は、ヴォルガンティア王国をたたもうと思う」
「国を、たたむ?」
「そうだ。正確に言えば王政をやめて違う形にしたい。例えば共和制とか」
「共和制?」
「王が政治を執るのではなく、国民から選ばれた人間が政治を執る。代表者はいるが、複数人が選ばれて話し合いで国のことを決めいてく」
「そんなことが可能なのですか?」
「可能だ。南の小国のノヴァティア公国は公国とは名ばかりで実質は共和制だ。二年前革命が起こり共和制となった」
「昨日貸していただいた本に載っていました。統治者が王から大公に変わったとなんとなく聞いた覚えがあります」
「そう、表向きはな。大公が統治者という形にはなっているが実際の国の方針は議会で決めている」
「そんなことが」
「俺は向こうに姉が嫁いでいて……まあ、そのことは追々わかるだろう。とにかく王政をやめにしたい」
「なぜですか、次の王になるのはあなたでしょう」
「俺は王政には行き詰まりを感じている。俺の父を見ればわかるだろう。気の向くままに人を処断し、決まり事もすぐに変わる。土地が肥沃で民が飢えていないから問題がないが、これが天候不順で飢饉でも起きようものならなにがあるかわからない。一人の人間に権力を委ねるのはいい方策ではないと俺は思う」
「それは王太子であるあなたがやらなければならないことなのですか」
「俺がやるからこそ穏便にやることができると思っている。革命でも起きようものなら国が荒れる」
「殿下のお考えはわかりました。でも、そんなこと本当にできるのでしょうか」
「できる、と思う。時間はかかるだろうがな。協力者もまだ数えるほどしかいない。今権力側にいる人間は猛反対するだろう。だから今権力と無縁の場所にいる人間を味方につけたい。まずは手始めにお前に力になってもらいたい」
「私が、ですか」
「そうだ。嫌か」
「嫌、というかいろいろなことを一辺に聞きすぎて混乱しています。でも殿下のお考えはわかりました」
「セシリア、その、殿下というのはやめにしないか。アレクでいい」
出会ったときは近衛騎士のアレクだったが、王太子とわかった今、アレクと呼ぶのは抵抗がある。
「……アレクサンドル様」
「長いからアレクでいい」
「……アレク様」
「略称に様はいらない」
「……アレク」
「それでいい、セシリア。そんな顔で呼ばなければなおいいがな」
アレクの圧に負けて従ってしまったが不本意なことには変わりない。そんなに顔にでていたのかとセシリアは自分の口元を押さえる。
「嫌なものは嫌だと言えばいい。だからといってすべてを聞いてやれるわけではないがな。そういうときは話し合えばいい」
「今のは話し合っていません」
「そうだな。今回は譲ってくれ」アレクは楽しそうに笑う。
「わかりました。ひとつ貸しです」
「食べ物を差し入れてやっただろう」
「そうでした。じゃあこれで貸し借りはなしですね」
「俺の話に乗るにしろ乗らないにしろそれはお前の自由だ。そしてたとえ断ったとしてもそれはそれでかまわない。乗らない場合でも黙っていてもらえると助かる」
「初めて会った私にそんなにいろいろと話してしまってよろしいのですか。どんな人間かもわからないのに」
「人となりは多少なりともわかっているつもりだ。悪いが身辺も調べさせてもらった」
「王太子妃になる人間の身辺調査をするのは当然のことだと思います。カタリナのこともご存知だといいうことですよね」
「そう、だな。カタリナのことは多分お前以上に知っている。知りたければ教えるが」
「いえ、知りたくなればお声がけいたします」
下手に動いてカタリナのことが皆に知られてしまうより、今はそっとしておくほうがいいだろう。
「今日はこれくらいにしておこう。話すべきことも紹介したい人間もいるがまたの機会にしよう」
「はい、殿下」
「アレク」
「……アレク」
「部屋まで送ろう。まだ不案内だろう」
そう言って、アレクはセシリアの手をとって執務室を出ようとする。
「あの、手を……」
「これもだめか。俺の奥方は手厳しいな」
「だめ、ではないですが、どうすればいいのか」
「普通にしていればいい。迷子になったら困るだろう」
手をつないだまま部屋を出て廊下を進む。王太子と王太子妃の私室は近いが、執務室とはそれなりに距離がある。
そこここで立ち働いている召使いたちに見られて、セシリアは気恥ずかしくなる。アレクのほうを伺うとまったく何事もないような顔をしている。自分のほうが過剰に反応しているのだとわかってはいるのだが、どうにも気になって仕方がない。
しかし、アレクの手は大きく温かく嫌な気持ちどころか、なんだか安心できる。見知らぬ場所で手を引かれて、まるで自分が小さなこどもに戻ったような気になってくる。
ほどなく王太子妃の私室に着いた。アレクは部屋には入らず、扉の向こうで言った。
「セシリア、どうかよく考えて決めてくれ。期待はしているが無理強いするつもりはない」
予期せず王太子妃になったが、その先の選択肢が示されていて、自分で選ばなければならない。誰にも相談せず自分の頭でしっかりと考えなければ。
「昼食は無理だが夕食は一緒にとろう、セシリア」
アレクはそう言うとセシリアの頭のてっぺんに口づけた。
セシリアは驚いてアレクを見上げる。アレクは苦笑いして、何も言わずそのまま立ち去った。
将来が大きく変わってしまったセシリアは自室に入り、王国の未来と一筋縄ではいかなそうな婚約者のことを考えた。
強い風が吹いて、目の前のもやが晴れたような気分だ。不安は大きいけれど。
セシリアはいったい自分には何ができるのだろうかと考えはじめていた。