アレクとヒルデガルト
ヒルデガルトの春宮でのピアノレッスンも三回目となった。
お茶会という名目なのでセシリアも毎回同席しているが、自分はいる必要があるのだろうかと思ってしまう。
春宮の召使はアレクが厳選した人間しかいないし、ヒルデガルトの伴の者も毎回どこかで遊ばせているらしいので、ベルンシュトルフ家に知られてしまうことはないと思うのだが、ヒルデガルトはセシリアの同席を求めた。
ピアノのことはよくわからないが、ヒルデガルトが弾けなかった曲がだんだん形になっていくのは見ていておもしろいので、同席しているのが嫌というわけではなかった。
それに暇そうにしていようものなら、オリガにつかまって護身術をやらされてしまうので、それも面倒だった。
ヒルデガルトは二回のレッスンで、ごく簡単な練習曲を一曲仕上げ、二曲目にとりかかっていた。
レッスンが終わりお茶の時間になる。慣れてきてヒルデガルトとも緊張せずに話ができるようになってきた。
ヒルデガルトはいかにも大家のご令嬢といった感じだが、根が素直で悪い人間には見えなかった。
王太子妃の座を奪い取る気も感じられないし、春宮へも単にピアノを習いに来ているだけのように感じる。
「そう言えば家では練習ができないと思いますがどうなさってるんですか。週一回だと少ないのではないですか」
「家では紙に描いた鍵盤で練習しておりますの。これも見つかっては困るのでいつでもできる、というわけではないのですが」
「そんな練習方法があるんですね。音が出なくてやりづらくはありませんか」
「ピアノが習えるだけでありがたいのです。多少儘ならなくとも我慢しなくてはなりませんわ」
「そうですね」セシリアはため息混じりに言った。この国で一番の貴族の家の娘であろうと自由にできることは少ない。
「それでひとつお願いがあるんですけれど」ヒルデガルトが鷹揚に言う。
お願いという名の半ば命令に慣れた人間の口調だ。ヒルデガルトは自分が自由にできる中での振る舞いをよくわかっている。
「今度友人を連れてきてもいいかしら」
「ご友人ですか。ピアノのことをご存知ならば別に構いませんが」
「よかったわ。彼女はメーニッヒ子爵家の娘のマルティナ、上級学校で同窓だった女性です。それでただお茶会に参加するのではなくて、彼女も楽器を習いたがっているのだけれど」
「何の楽器ですか」
「ヴァイオリンなのだけれど……」
はじめからヴァイオリンと言わなかったのは、ヒルデガルトにもためらいがあったからだろう。腕を大きく振って弾くヴァイオリンは、貴族の女性が嗜むにははしたないとされている。しかし美しい音色のヴァイオリンは確かに魅惑的な楽器だ。
「エドワード、貴族の女性にもヴァイオリンを教えてくれる楽士を知らないかしら」セシリアがたずねる。
「ひとりだけ心当たりがあります。楽士ではありませんがヴァイオリンの腕は確かです」エドワードはしばらく考えてから口を開いた。
「楽士ではない、とは一体どんなかたですか」ヒルデガルトがいぶかしげに聞く。
「私の姉です。なので身元は保証します。結婚してヴァイオリンを弾く機会は減りましたが、今でも頼まれれば集まりやお祝い事で弾いているらしいので腕はそれほど落ちていないはずです。弟の私が言うのもなんですが、姉は音楽の神様に愛されているような人なんです。姉が男だったら優秀な楽士になっていたでしょう」
「そうなの、ぜひお姉様にお願いしたいわ。ご家庭があるようだけれど大丈夫かしら」
「問題ないと思います」
「お姉様によろしくお伝えしてね。春宮のほうも問題ないわね」
「ええ、アレ……王太子殿下にはご報告させていただきますが、大丈夫だと思います」
ヒルデガルトはほっとして、カップを口に運んだ。アレクの名前を出して、セシリアはすっかり忘れていたことを思い出し、言った。
「そう言えば王太子殿下が、ヒルデガルトさんにご挨拶したいとおっしゃっていました。仕事が早く切り上げられそうなら顔を出す、と」
いつも優雅なヒルデガルトらしからぬ動きに、受け皿ががちゃりと乱暴な音を立てる。
「なんでそういう大切なことを早くおっしゃらないの」ヒルデガルトが立ち上がって言う。
「すいません。忘れていて」
「私は……お暇いたしますわ」
ヒルデガルトは楽譜など手荷物をまとめると扉へと向かおうとする。
「ちょっと、お待ちになってください。そんなに急いで帰らなくても、供のかたもまだ戻られていないし」
セシリアも急いで立ち上がりヒルデガルトを引き留める。
「マチルダなら勝手に帰ってくるでしょう。とにかく私は帰らせていただきます」ヒルデガルトは言い切ると扉を開けた。
「エドワードはゆっくりしていっていいわ」
呆気に取られているエドワードに一声かけると、セシリアもヒルデガルトを追って応接室を出た。
ヒルデガルトは足早に御者が詰めている厩近くの控えの間に向かう。ヒルデガルトは小柄なので、そう苦労せず肩を並べながらセシリアが聞く。
「急にどうなさったのですか」
「急用を思い出したのよ」
「そんなにアレクと会うのがお嫌ですか」
ヒルデガルトの足がぴたりと止まる。セシリアに向き直り、消え入りそうな声で言う。
「一体、どんな顔で殿下にお会いしろと言うの、貴女は」
セシリアは返す言葉がなかった。廊下でふたり、しばらく見合っていると「セシリア!」とよく通る声が聞こえた。
声のほうを向くとアレクがこちらへと駆け寄ってくるのが見えた。それに気付くとヒルデガルトはセシリアの陰に隠れるように移動した。
アレクはあっという間にセシリアたちのところまで着いた。
「セシリア、こんなところでどうした」
「いえ、少し外の空気が吸いたくなって」
「ヒルデガルト、久しいな」アレクがヒルデガルトに目を止め、声をかける。
「お久しぶりでございます、殿下」相変わらずセシリアの陰に隠れたまま、ヒルデガルトが挨拶を返す。
「今日のお茶会はどうだったかな」
「もちろん楽しく過ごしましたわ」セシリアが答える。
「セシリアは社交界に出ていなかったこともあって、知己が少ない。これからも仲良くしてくれるとありがたい」
「はい、殿下」ヒルデガルトが慎ましく頭を下げる。
「お茶会はもう終わりか。できれば俺も参加したかったのだが」
思ってもみなかったアレクの言葉に、セシリアは詰まりながら返した。
「女同士、殿方には聞かせられない話もございますので殿下はご遠慮いただけますか」
「だがエドワードもいるのだろう」
「エドワードはいいのです」セシリアがきっぱりと言う。
「そうか」言葉とは裏腹に納得していない顔でアレクが言う。
「ではまた、ヒルデガルト。セシリアをよろしく頼む」
思ったより早く立ち去ってくれたとセシリアは胸をなでおろす。大方、仕事が切り上げらたというのは方便でまだ残っているのだろう。
セシリアは自分の陰で固まっているヒルデガルトに声をかけた。
「もう一度戻ってお茶を召し上がりませんか」
「そうね、さっきはああ言ったけれどマチルダを置いていくのはかわいそうだわ」
ヒルデガルトはセシリアの陰からでて隣に並んだ。
「それに殿下が貴女をどう想っているかなんとなくわかったわ」
「それは……」
「結局、人の気持は力ではどうにもできないものなのよ。私もこうやってお父様に内緒でピアノを習っているわけだし」ヒルデガルトは美しい眉根を寄せて続けた。
「でも王太子殿下が思い通りにならないとなると、一気に排除の方向に向かうかもしれないわ。お父様は」ヒルデガルトが息を吸う。ひゅっと喉がなる。「恐ろしいかただから」