第伍話
【千夏視点】
夏の夜空を彩る星々が浮かんでいる。
大きな杉の木を見上げれば、その頂上には一際明るい一等星が瞬いており、まるで季節違いのクリスマスツリーのように感じた。
こんな自分にも少しは童心が残っていたのだな――と、自虐的な笑みを浮かべた千夏は眼前に立つ青年を見据えた。
真っ直ぐに見つめ返す青年の瞳が「俺はもう逃げない」と語っているように感じ、千夏はその青年“たっくん”と決別した日を思い出していた。
学校では優等生だと思われていた千夏はその当時、周りからの評価を窮屈に感じていた。
千夏は自分が優等生だとは思っていなかったし、年相応におしゃれや芸能ニュースに興味のある極めて普通の少女だと思っていたからだ。そして何より、千夏は閉鎖的な田舎の人間関係が好きではなかった。
田舎の小さな学校という小さなコミュニティで得られた“優等生”の肩書を捨てて、華やかな外の世界、テレビの中で見るような大都会へ飛び出す事を夢見ていた。
ある日、千夏は校則を破って街へ遊びに出た。
千夏たちの通った中学は昔ながらの厳しい校則が残っており、電車に乗って市外へ赴く場合は保護者の同伴が必要とされていた。塾や習い事等の理由がある場合にはその限りでないが、原則として行動には制限がなされていた。
無論、千夏たちの中学に通う生徒たちが皆、その校則を守っていた訳ではないが、仮にも優等生と称されている千夏にとって、それは大冒険に他ならなかった。
千夏が向かった場所。そこは市街地ではあるものの、地方である為にやはり田舎だった。それでもドラッグストアはおろか、コンビニエンスストアすら殆ど見かけない千夏たちが住む町に比べれば都会だと思えた。彼女の生活圏にある店と言えば、田畑の真ん中にポツリと立つ、農家向けの商品を取り扱うホームセンターくらいだったからだ。
化粧品すら碌に手に入らない閑散とした田舎と違い、活気のある繁華街を練り歩いていると、千夏は一人の男性に声を掛けられた。
「当時の私はそれが逆に嬉しくて『可愛いね』って言われただけで舞い上がって、その人に着いて行ったの……」
田舎に嫌気が差していた千夏にとって、都会のおしゃれな男性から声を掛けられるという事は「街に受け入れられた」ように感じられた。
千夏より少し年上のその男性はこの街に詳しいようで、漠然とした千夏の希望通り、コスメショップや小物店を案内してくれた。
これまでの紳士的な態度から男性を信用し切った千夏は、男性から不意にカラオケへ誘われた時も二つ返事でそれを了承した。田舎育ちで人を疑う事なく育ち、カラオケ店にすら入った事のなかった千夏に断る理由はなかったのだ。
「……でも、カラオケ店の個室に入った瞬間、私はその男性から――唇を奪われ、身体を弄られた」
「なっ!?」
驚きの声を上げるたっくんを見て、千夏は当時の気持ちを思い出していた。
いつかは眼前の幼馴染に捧げる事になるのだろうかと、漠然とそう思い描いていたファーストキスは、その日始めてあったばかりの男性から一瞬の内に奪われた。その時感じた途方もない虚無感は筆舌に尽くしがたいものだった。
呆然と思考停止に陥った千夏だったが、その直後には男性の手を振り解いて個室を飛び出した。そして、逃げ出したその先で――
「和くんに出会ったの」
「えっ……何で和也が? ――ッ、まさか!?」
その男性と和也が“グル”だったのではないかと予想したのだろう。
あどけない少年から青年へと変貌を遂げた幼馴染が目を剥いて驚いたが、千夏はそれを否定するように首を振った。
実際に和也が街を訪れていた理由は、千夏の遭った被害と何ら関係がない。
その日、「街に出たら、綺麗な女の子とワンチャンあるかも」という、思春期男子にありがちな期待を抱いた和也は、ナンパ目的で街へ繰り出していた。しかし、その結果は散々なもので、街で出会った女性たちに声を掛けるも「ダサ過ぎ」「田舎臭いガキ」と一蹴され、和也は意気消沈していた。
気分転換をする目的でカラオケへ行き、そのフラストレーションを発散しようとしていたところで、和也と千夏は偶然出会ったのだった。
「そう言えば以前、和也から街にナンパへ行ったと聞かされた事があったな……」
思い出したように呟く青年を見て、千夏の胸が痛んだ。
当時、千夏と眼前の幼馴染は恋仲になかった。それ故に何ら後ろめたい想いを抱く必要はないのだが、千夏は自分の軽率さを呪った。
ファーストキスを奪われた上に身体を弄られ、気が動転していた千夏と、ナンパに尽く失敗し、意気消沈していた和也。偶然出会った二人はそこに運命のような何かを感じ、その日の内に――身体を重ねたのだった。
お互いに思春期であるが故に膨れ上がった性への興味もあった。しかし、それ以上に偶発的なその出会いは「今日という日が無駄ではなかった」と思い込みたい二人を錯覚させたのだった。
「別に好きでもなかった男の子と、あんなに簡単に……。本当に馬鹿だったな」
自虐的に笑う千夏を見て、幼馴染の青年は無言で目を伏せた。
「その時から二人は……付き合っていたのか?」
暫く沈黙が流れた後、絞り出すように投げ掛けられた幼馴染からの質問に千夏は「ううん。そうじゃない」と短い否定を返す。
和也と交わった後、千夏は自身の軽率さを激しく後悔していた。
千夏にとって和也は只のクラスメイトであり、幼馴染の友人という認識しか持っていなかった少年だ。いくら冷静さを失っていたとはいえ、状況に流されるべきではなかったのだ。
千夏にとってそうであるように、和也にとっても千夏は初めての相手だった。
これまで「そこそこ可愛い子だな」程度にしか思っておらず、彼女の幼馴染を揶揄う“ネタ”程度にしか認識していなかった千夏は特別な存在となった。
初めて触れた異性であり、秘密を共有した関係。和也が千夏に惹かれ、彼女へ交際を申し込むのはある意味において必然であったと言えるだろう。
「も、もしかして、俺……なのか? 和也じゃなくて寧ろ、俺が後から二人の仲を……?」
「――違うよ」
千夏は絶望したように項垂れた青年の言葉を遮るように否定した。
「勘違いしないで、たっくん。私は和くんの事が好きだった訳じゃない。私が好きだったのは……」
躊躇いがちに千夏は青年へと視線を送る。
今更伝えたところで遅すぎる言葉。それに当時の千夏も彼と同様に、幼馴染へ抱く感情が恋心なのか、それとも親愛の情なのかを明確に判別する事ができていなかった。
「……そうか。ただひたすらに子供だったって事なのか……俺たちは」
「そうだね。でも……私はたっくんと違う。だって私はその後に罪を犯したから……」
そこまでだったら「互いに未熟だったね」という青春の酸い思い出に過ぎなかったかもしれない。しかし、高校へ進学した後、千夏が再び和也と出会ったことで運命の歯車は狂い出した。
高校に進学後、素朴だった千夏の容姿は少しずつ磨かれてゆき、美しい少女へと成長していた。幼馴染の恋人がおり、成績も優秀で、容姿にも花がある。
客観的に見ても、千夏は青春を謳歌しているように見えた。
その一方、千夏たちの通う公立高校とは別の私立高校へ進学した後、サッカー部へ所属していた和也は、なかなかレギュラーになれないストレスや部活内での人間関係に悩まされていた。自分は負け組なのではないかと劣等感を抱き宛もなくぶらついてところで、和也は千夏と再会を果たした。
かつて恋慕した少女は更に美しさを増し、充実した毎日を送っているように見えた。和也はそれがとても腹立だしく感じた。
俺が先に告白したのに!
かつて呑み込んだ感情が膨れ上がり、和也を突き動かした。
本来なら千夏と肩を並べていたのは自分だったはずだ。そう思い込んだ和也は千夏の幼馴染と、自分を選ばなかった千夏を憎悪した。彼らのせいで自分は上手く行っていないのだと逆恨みの感情に支配された和也は千夏に迫り、こう言った。
「あの事“たっくん”にはバラされたくないだろ? だから頼む! 最後に一回だけ付き合ってくれよ」
それはできないと拒絶する千夏だが、和也は諦めなかった。かつての自信を取り戻す為、そして惨めさを払拭する為にも、和也は千夏を抱く事が必要だと思い込んだのだった。
和也に対して少なからず後ろめたい感情を抱いていた千夏は、最終的に折れ「一度だけ」と約束して、それを受け入れた。
幼馴染に対して恋心を自覚し始めていた千夏にとって、秘密を暴露される事だけは何としても避けたかったし、街で救われた事のある和也からの告白を袖にしてしまった罪悪感もあった。それが一度だけでも彼を裏切る行為だと知りながら。
一度だけ……ごめん。たっくん。
和也としても一度だけで納得するはずだった。それで過去に置いて来た鬱屈を清算するつもりだった。
――しかし、その一度の過ちで千夏は和也の子を妊娠してしまった。
「これが、あの日に伝えられなかった私の罪」
罵倒されるのだろうかと幼馴染の反応を窺うが、彼は目を瞑ったままピクリとも動かなかった。
虫の声や川のせせらぎだけが夜の空気を揺らし、二人の間には静寂だけが響いている。
やがて開いた瞼から覗いた幼馴染の眼差しは、まるで迷子の少年のようだった。しかし、その唇が紡ぐ声は青年のそれで、はっきりとこう告げた。
「……もう終わった事だ。俺はちーちゃんを恨んではいない」
そして一呼吸置くと、真っ直ぐな瞳で千夏を見据えた。
「だから、もうお互いに過去ばかりを振り返るのは止めよう。ちーちゃんにはちーちゃんの、俺には俺の人生があって、幸せになる権利がある。……俺はそう思ってる」
その言葉はどこか自分自身に言い聞かせているようであり、過去との決別を意味しているようにも感じられた。
実際に今後、幼馴染と自分の人生が交わる事はないだろう。そう悟った千夏は最後に幼馴染に笑いかけた。
それに応えて微笑む幼馴染は立派な大人へ成長してはいるものの、やはり夏空の似合う少年“たっくん”の面影を有していて、千夏は溢れ出しそうになる涙を必死に堪えた。
(さよなら、たっくん……)