第四話
千夏の話を聴けば聴くほど、彼女が記憶の中の“ちーちゃん”と乖離してゆく気がする。
間違いなく眼前の女性はあの“ちーちゃん”なのだが、俺の知る彼女はこんなにも自虐的な笑みを浮かべる人物ではなかった。
夏空を背景に花の咲くような柔らかな笑みを浮かべている。そんな少女だったはずだ。
「和くんと離婚した後、和くんとの間に生まれた子供を保育園へ通わせるようになって、ちょうどその頃に、私はマッチングアプリで一人の男性と知り合ったんんだけど……」
千夏は言う。自分にはもう他人に縋る生き方しかできなかったのだと。
「シングルマザーなんて“チョロい”と思われたのかな……。その男性とは半年くらい付き合ったけど、結局は遊ばれて終わりだった」
高卒、子持ち、離婚歴あり、社会経験なし……自分に価値がないと思い込んだ千夏は、再婚に人生のやり直しを賭けた。しかし、マッチングアプリで知り合ったというその男性へ献身的に尽くすも、最後は無慈悲に切り捨てられたそうだ。
「その後もマッチングアプリで色々な男性と知り合ったけど、結婚の話を出すと皆、徐々に離れていったの」
そう言って笑う千夏の顔は疲れ切っていた。
知り合った男性は誰も本気で千夏との未来を考えていなかった。ただ彼女の若さを搾取する為だけに接触して来ただけなのだ。
「それで、ちょうど1年前かな……二度の離婚歴がある中年男性と知り合って結婚したの」
今日、ベビーカーで散歩させていた赤子はその男性との間に出来た子なのだろうか。
「今はその男性と?」
「……ううん。その男性とも少し前に別れた」
遠い目をして笑った千夏は、ゆっくりと袖を捲り上げた。
「これ、見て」
捲り上げた腕には無数の痣があり、あまりの痛々しさについ眉間に皺を寄せてしまう。
「醜いよね……。子供が生まれて直ぐ、その男性は人が変わったように私に暴力を振るうようになったの。自分に向ける愛情が足りないと感じたのかな……『お前は本当に僕を愛しているのか』と、暴力で私の愛情を試すようになった」
「――ッ!? 何だよ、そいつ……」
再婚した中年男性は千夏の愛情が自分から赤子へ移ってしまったのだと感じたのだろうか。
時折、赤子の世話をする千夏へ憎悪の瞳を向ける事もあったそうだ。
「結局、暴力に耐えきれなくなって実家に逃げ帰ったのが先月の話。今月の初めには正式に離婚が成立して、結局はまた独り……」
一見、優しそうに見えたその男性だが、過去の離婚理由も同じく配偶者への暴力だったのかもしれない。そう付け加えた後、千夏は真っ直ぐに俺を見据えて口を開いた。
「たっくんからすれば、ざまぁ見ろ……みたいな?」
「そんな訳ないだろ!!」
静かな喫茶店内に俺の怒号が響いた。
何事かと顔を出した喫茶店のマスターに「すみません」と頭を下げた後、席に座り直すと、優し気に見つめてくる千夏と瞳が合った。
「私の為に怒ってくれるの? やっぱり、たっくんは優しい……のに、どうして私は……」
◇ ◇ ◇
少し歩かないかという千夏の提案を了承し、俺たちは懐かしい道を歩んでいた。
無邪気だったあの頃、一緒に歩いた通学路。
どこもかしこも思い出に溢れていて、まだ幼かった頃の俺たちに少し……ほんの少しだけ戻れたように錯覚する。
喫茶店を出た時にはもう日が暮れていた。街灯が殆どない道を歩けば、空には星々が煌めき、虫の声や川のせせらぎが夏の夜を彩っていた。
「人生にリセットボタンはないって、校長先生とかが言いそうな言葉だけど、ホントにそう……気が付くの遅すぎだよね。私って……」
「…………」
掛ける言葉が見つからなかった。
まだ二十代半ばの俺たちは、まだまだ人生を歩んでいかなければならない。何も終わっていない。しかし、ここで俺が「人生はまだこれからだよ」と陳腐な言葉で励ましたところで、何一つ解決する道理はない。白々しいだけだ。
……だから、慰めの言葉は千夏にまたあの自虐的な笑みを浮かべさせるだけだろう。
「ここ、覚えてる?」
千夏に連れられて歩いた先には一本の大杉が立っていた。
俺たちにとって思い出深いこの木を忘れるはずがない。無言で頷く俺を見て、千夏は「良かった」と呟いた。
「たっくんにとっては既に過去。きっとどうでもいい話だとは思うけど……あの日、伝えられなかった事……聴いてくれますか?」
「……ああ」
俺たちの間を夏の生温い風が吹き抜けた。