第参話
カランという心地の良い音を立てて開いた扉。
夏の夜特有の湿った空気から隔離された店内は、程よい湿度に保たれて快適だった。
「あっ、たっくん。こっち」
喫茶店には既に千夏が到着しており、控えめに手を上げて俺を呼んだ。
「えっと、お待たせ」
「う、ううん。私も今来たところだから」
幼馴染とは思えないほど、余所余所しい挨拶を交わす俺たち。
あの日以降、千夏と顔を合わす事はなかった為、彼女に対しては懐かしい感覚を覚えるより“知らない大人の女性”と会話をしているような違和感を覚える。
千夏の対面にある椅子を引いて座ると、店内を見渡す。
都会からやって来たというオーナーが趣味で開いているこの喫茶店“森の隠れ家”は、近隣住民たちの憩いの場として活用されているらしい。ランチタイムには近所のご老人たちで和気あいあいとしていると両親が話していたが、今は俺たちの貸し切りだ。
元々、17時には閉店していたようだが、今日に限っては千夏が予約をしていた為、特別に21時くらいまでは開けてくれているらしい。皆が顔見知りという田舎ならではの柔軟な対応と言える。
「あの……えっと、いきなり呼び出してごめんね。それと、来てくれてありがとう……」
申し訳なさそうに目を伏せつつ、頭を下げる千夏を手で制す。
「いいよ。別に予定はなかったし」
千夏を前にしても落ち着いていられるのは、やはり俺の中ではある程度、気持ちの整理が付いたからだろうか。
千夏から和也の子を妊娠したと告げられた時、俺は彼女の話を聞かずに逃げてしまった。
その後は故郷からも逃げるように東京の大学へ進学し、卒業すると同時にそのまま東京でベンチャー企業へ就職した。
あの日から約7年。7年という月日は記憶を風化させる。良くも悪くも……。
「たっくんは今、何をしてるの?」
「俺? 俺は企業勤めのサラリーマンだよ……って、それは知ってるか」
「あ、うん。たっくんのお母さんから東京で就職した事は聞いてるけど、どんなお仕事をしてるのかなって」
まぁ、母さんには会社でAIの開発に携わってると説明しているけど、理解していない感じだったからなぁ。その際に「AIって何ね?」と聞かれて説明に困った事を覚えている。
「会社でAI作ってる……正確にはAIを作ってる会社の下で、その一部を請け負って作ってると言った方が正しいけど」
「そうなんだ。何だか難しそうだね……。たっくん、昔から頭良かったもんね」
「そんな事ないだろ。ちーちゃんの方が成績良かったし」
俺が“ちーちゃん”と呼んだ事が意外だったのだろうか。千夏は目を見開いて俺を凝視した。
「ちーちゃんって……またそう呼んでくれるの?」
「まぁ、色々あったけど、十年近く前の話だし……ね」
「……うん。ありがとう」
少し気不味い空気が二人の間に漂う。それを払拭するように俺は千夏へ尋ねた。
「ちーちゃんは……和也と上手くやってるみたいだな。今日、散歩させてた子は何人目?」
「あ……」
バツが悪そうに言い淀んだ千夏は、手に持っていたアイスコーヒーをテーブルに置くと、真っ直ぐに俺を見据えた。
「和くんとは……離婚したの」
「……え?」
その言葉に驚いた俺が今度は逆に千夏を凝視した。
暫く視線を通わせていた俺たちだったが、徐に口を開いた千夏がぽつぽつと自身の過去を語り始めた。
和也の子を身籠った千夏は、高校を卒業すると同時に彼と結婚した。
所謂“出来ちゃった婚”ではあるものの、農家である和也の家は千夏を歓迎した。嫁を娶れば農家を継ぐ事を嫌がっていた和也も観念せざるを得ないだろうと、和也の両親は考えていたのだろう。
実際、その通りに和也は家を継いだが、遊び盛りの彼にとって農業へ従事する生活はあまりにも退屈で苦痛な日々だったらしい。
子育ては千夏と両親へ任せ、和也は毎日のように街へ繰り出しては遊び惚けた。一応は仕事をするものの、基本的に全ての作業を雇った外国人労働者に丸投げして、あまり本腰を入れて農業へ取り組む事はなかったらしい。
それでも生活する上で大きな問題はなく、何とか暮らせていたが、ある日、とんでもない事件が起こった。
和也が外国人労働者へ手を出して妊娠させたのだ。
妊娠が発覚した際、既に人工中絶が可能な期間を過ぎていた事が最悪だった。金銭に困っていたが故に日本へ出稼ぎにやって来た外国人労働者は、体に違和感を覚えても産婦人科に掛かる金を捻出できず、既に中絶不可能となった段階で「妊娠をしたから責任を取ってくれ」と和也へ詰め寄った。
それを拒否した和也と外国人労働者は激しい口論になったが、その際に和也は外国人労働者に暴力を振るってしまった事が決定打となった。
警察沙汰にしない代わりにと、和也は外国人労働者とその間に出来た子の面倒を見る事となり……千夏とは離婚する事を選んだ。
田舎のネットワークによって、和也が外国人労働者を妊娠させた事は直ぐに広まり、千夏は怒った両親から連れ戻されるように実家へ帰り、そのまま離婚調停を経て和也とは別れたらしい。
和也の間に生まれた子供は千夏が実家へ連れて帰り、最後まで養育費の支払いを渋っていた和也だったが、結局は調停で決まった額の養育費を千夏へ渡す事となった。
これに関しては和也へ一切の同情ができない。自制心の利かない彼自身が招いた結果だと思う。
和也との離婚を後悔しているのかとの質問に対し、千夏はゆっくりと首を振った。
『ううん、全然……。たぶん私、和くんの事をあまり好きじゃなかったんだと思う』
それでは何故、和也と結婚したのか。それを訊いて良いものかと逡巡する間に千夏の話は続く。
和也と離婚した後、千夏は子育てをしつつ実家暮らしをしていたが、子供が保育園に入る年齢になった頃、今後の人生について考え始めたそうだ。
『その頃、たっくんは大学でキャンパスライフの真っ最中かな?』
自虐的な笑みを浮かべる千夏を見て、胸がざわりと波打った。
当時の俺は千夏を失ったショックで恋愛を遠避けており、合コンなどへの参加も徹底的に拒絶していた。
本来、楽しいはずのキャンバスライフを灰色に染めたのは誰だよ――皮肉の一つでも言いたくなったが、千夏の言い分を聞かずに逃げてしまった後ろめたさと、彼女が味わった苦労を知ってしまった事で、その恨み言を吞み込んだ。
もう終わった事だ。今更蒸し返す必要はない。
俺は深呼吸して気持ちを落ち着かせると、千夏に話の続きを促した。