第弐話
俺は千夏と付き合っている事を両親に話してはいなかった。だから当時、両親が冗談めかした様子でその言葉を発したとしても仕方がない事だった。
「千夏ちゃんが和也君の子供ば身籠ったらしか。タクの嫁に来てもらおうと思っとったばってんが……残念やなぁ」
両親は俺と千夏の関係を只の幼馴染同士だと思っている。実際に俺たち二人は恋人らしい事を何もしていない為、傍から見ても仲の良い友人同士にしか見えなかっただろう。だから、両親の言葉に悪気はないと理解している。
最初は質の悪いただの冗談だと思い込もうとした。しかし、淡々と語られる事実がその悪夢のような言葉が現実だと理解させようとする。
両親はまだ何かを話していたようだが、決壊したように溢れ出した感情を抑えきれなくなり、俺は逃避するように家を飛び出した。
「クソッ! 何がどうなってんだよ! 妊娠って、マジで意味わかんねーよ!」
両親は残念だと冗談めかして言ったが、俺にとっては冗談ではない。
漠然とはしているものの考えてはいたから。いつかは千夏と恋人らしい事をしてお嫁さんになってもらって……この田舎で仲良く暮らすって。
先週までは普通だったろ? 何か致命的な問題があったのか?
何気ない話をしながら一緒に帰って、宿題や授業が大変だと愚痴り合って、どうでもいいテレビ番組の話をして……。
――千夏ちゃんが和也君の子供ば身籠ったらしか
「クソッ! クソォオオ! 何なんだよ!」
いつの間にか溢れ出した涙を振り切るよう、がむしゃらに走る。
田畑が並ぶ田舎道の舗装は悪く、砂利や草で何度も足を取られそうになる。それが余計に腹立だしくて、気が付けばまた頬に涙が伝っていた。
千夏が和也の子を妊娠したなんて最初は信じていなかった。信じたくなかった。
俺の知らない内に千夏が和也と逢っていたなんて、想像した事もなかった。
田舎は嫌いだ。あっという間に噂が広まる。千夏が産婦人科へ行った事はその日の内に広まり、もはやこの辺りでは、彼女が和也の子を妊娠した事実を知らない人間を探す方が難しいだろう。
走って走って走って……気が付けば青空は灰色の雲に支配されていた。
ぼんやりと曇天を見上げる俺の頬にポツリと雨粒が落ちた。
そのまま暫く立ち尽くしていると、本格的に空が泣き出し、その冷たい涙で俺の熱い涙を洗い流してゆく。
「…………」
無言でトボトボと歩き出す俺。その足は一本の大杉を目指していた。
「あっ……」
杉の木に近付くと、木の陰からずぶ濡れの少女が現れた。
「……千夏……か?」
「たっくん……」
そこには今、一番会いたくない人物がいた。いや……むしろ無意識の内に俺は千夏を探していたのかもしれない。
家から中学校までの道程に立つこの大杉の下で、俺と千夏は雨宿りをした事があった。そしてこの場所にはもう一つ大切な思い出がある。千夏が俺の告白を受け入れてくれた場所でもあるのだ。
「なぁ……妊娠ってマジなのかよ?」
言葉を選ぶ余裕などなかった。非難するように問うと、千夏はどこか虚ろな瞳を揺らし、ゆっくりと頷いた。
「ごめん……なさい」
「――ッ! ふざけんなァ!!」
俺が叫ぶと同時に空も怒号を上げた。
辺りには一瞬光が溢れ、その直後に空気を揺らすような爆音が響く。
今思い返してみれば雷の鳴る中、大木の下で雨宿りなんて正気の沙汰ではないが、この時の俺はそんな事に気を回せるほどの余裕を持ち合わせてはいなかった。
「その……たっくん、話を聞いてくれる……?」
「……誰が阿婆擦れの痴話なんて聞くかよ。もう二度と俺に話掛けんなよ」
背を向けて雨の中へ駆け出す俺の背中に「待って、たっくん」という千夏の悲痛な叫びが届いた。
後ろ髪を引かれて立ち止まりそうになるが、俺は必至で雨の中を駆ける。土砂降りの雨が千夏が漏らす嗚咽のように聞こえ、俺は耳を塞ぎながら走り去った。
その後、俺は徹底的に千夏を避け、彼女もまた俺に話し掛けてくる事はなかった。