君が必要
「麗華の事では色んな事の積み重ねがあるの。私たち姉妹は麗華と常に競争させられて。祖父が亡くなった時の相続でも納得出来ない事もある。でも父が事業を承継したから仕方がないのかなぁ」
「どう言う分配だったの?」
「うちの実家の事、覚えている?敷地内に会社と、私達の自宅と、祖父の家があったんだけど。私達が住んでいた家と土地は父親が相続して、祖父の家と土地は麗華の母親が相続したのよ。私達が相続した方には抵当権が設定されていて、麗華の方は何にも付いていない綺麗な状態だったわ」
「確かに不公平だね」
「祖父の家を取り壊してアパートにして、そこに麗華夫婦が越して来て、子どもが生まれたって事情なのよ。麗華の旦那さんは自称音楽家で、定職につかないから普通の賃貸物件を借りられなかったの」
そんなくずみたいな男と俺を二股かけていたのか。清彦は恨めしく思う。
「うちの土地の抵当権者は銀行。祖父の代から会社の経営が思わしくなくって結構な金額を銀行から借りていたみたい。勿論父親自体も会社の借金の連帯保証人よ」
「うちも同じような状況だ」
清彦は暗い顔で言った。
「去年お父様が亡くなったって言っていたよね」
「親父は事故で突然亡くなって、俺と母親がいきなり代表取締役に就任することになったんだ。当然会社に債務があった。自宅も担保に入っているし、俺も母親も連帯保証人だ。離婚もそれが原因だ」
清彦の告白に藍子は言葉を失った。清彦は自嘲気味に続ける。
「妻とは見合いで結婚した。昔ながらの家と家の結びつきを考えた結婚だった。俺んちが没落したらそりゃ離婚になるさ」
突然の交通事故で清彦の父親は亡くなった。崖から車ごと転落したのだ。自殺だと言う噂は当初から出ていた。
後から後から湧いて出てくる会社や父親自身の借金。番頭がしらの叔父は事あるごとに
「職人を連れて独立する」
と言外に圧力をかけ、清彦や会社を操作しようとした。まだ二十代の清彦と専業主婦であった母親には会社経営は重すぎた。
舅は中部地方では名の通った財界人である。清彦の会社の経営状況はとっくに把握済みだった。
「悪いけれど、君の努力で経営を立ち直らせる事は出来ないと思うよ」
幾つもの修羅場を切り抜けてきた舅は清彦の経営手腕を見限り、娘との離婚を勧奨した。
「そろそろ行こうか」
ジントニックのグラスが空になったところで清彦は促す。藍子は割り勘を申し出るが清彦が会計を済ませてくれた。
「昔住んでいた部屋を見に行きたい」
清彦は言った。藍子ももう少し清彦といたかったし、若き日の思い出の地を見ておきたかったので清彦に従った。二人はシャッターの下りた夜更けの商店街を抜け、住宅街の低層マンションにたどり着いた。
「あー懐かしいな」
清彦は呟いた。二階の部屋を見上げながら、
「あそこに住んでいた頃は、コンクールで賞を取ったり、テレビに出たり、フェスで前座をやったり、怖いものなんてなかった。遠くに輝いている栄光に手が届くと思っていた」
「そうね」
「で、七年後はこうだけどよ。経営が傾きかけた会社の社長か」
街灯が灯る薄明かりの中、清彦の横顔に深い影が落ちた。
「今は悪い事が重なっているけれど、清彦さんならば大丈夫だよ」
「藍子っていつもそうだよな。俺が困っている時に必ず俺の前に現れる。弾丸の如くだ。君こそビュレットナイトだよ」
清彦は藍子の肩を叩いた。
「えーそうかなぁ」
藍子は懐疑的だ。
「俺が大学三年の頃名古屋に引っ込んだ事があっただろう。藍子から手紙を貰って、すごく励まされたんだ」
その手紙は藍子も覚えている。
「みんな待っています。勿論私もそうです。清彦さんのサックスをまた聴きたいです。
機会があればまた連弾したいです。
待っています。」
しかしあの手紙は渋々書いたものだ。
「清彦さん、実はあの手紙・・・・・」
藍子が真実を告げようとすると、
「知っている。マリイが書けって言ったんだってな」
「ううん。手紙を書けとは言われていない。フェスが近いから清彦さんを東京に戻せって言われた」
「それでも俺は嬉しかったよ。それにその時は俺よりも藍子を必要としている人を助けていたんだろう」
「え、誰の事?」
「耳の不自由な人達。藍子が合気道を教えていたじゃないか」
「ああ、聾唖学校組ね。私が教えていたわけじゃないのよ。私がきっかけを作っただけ」
「俺は驚いたし感動した。聾唖の人達があんな激しい演武をするなんて」
「その時は演武を通じて聾唖者に強くなって欲しいって気持ちでステージに上がって貰ったんだ」
ここで清彦は笑い出してしまう。
「藍子は相変わらず熱血漢だな。漢だよ漢。男の中の男だ」
と清彦は再び藍子の肩を叩いた。
「ひどいなー」
藍子は清彦をぶつ真似をした。すかさず清彦は藍子の手首を捕らえた。普段の藍子だったら男の手を振りほどき、逆に地面に組み伏せてやるところだった。しかし藍子は出来なかった。既に藍子の気持ちは清彦を受け入れていた。清彦は藍子の手首を握ったまま訴える。
「今の俺は藍子を必要としている。このまま藍子と離れる事は出来ない」
「そうは言っても・・・」
藍子は困惑している。
「分かっている。結婚しているよね。藍子に迷惑はかけないよ。藍子の負担にならない範囲で会ってくれるだけで良いから」
あんなに大好きで、老舗企業の社長たる清彦さんが私に頭を下げている。その事実に藍子は驚愕した。清彦は藍子の心の動きを見透かしたかのように彼女を抱き締めた。
十一年前、ステージから落ちた藍子を清彦が抱き留めた。偶然が生んだ抱擁を藍子は忘れたことはなかった。その日から藍子は清彦を求め続けていた。
藍子は今自分の中に欲望が湧き上がってくる事を認めざるを得ない。清彦の体は温かかった。藍子は清彦の背中に腕を回した。一瞬夫の知芳の顔を思い浮んだが、顔を近づいて来る清彦を拒む事は最早出来なかった。
清彦に唇を奪われ、藍子は後戻り出来ない事があるのだと三十前になって初めて知る。もっと欲しい、最後まで知りたい、そんな気持ちが藍子を後押しした。夫と日常の一部として交わしている口付けとは明らかに違う。温かく、官能的で、人に気持ちを裸にする。藍子は貪るように清彦の唇を求めた。