それぞれの情事
藍子は電車の中で周囲を見渡してから、声に若干の非難を込めて言った。
「どう言う事か大方見当はつくけどね」
「ごめん」
大悟も紗羅も小さくなっている。紗羅は言い訳のように付け加える。
「旦那からの精神的虐待に耐えられなくって」
それは紗羅と旦那さんの問題でしょ。大悟を巻き込まないでと藍子は腹立たしく思う。その時、三人の携帯電話が同時にメールを受ける。三人は恐る恐るメールを開いた。
「あんなところで騒ぎを起こすだなんて感心しません。何かあったのですか? 神崎」
美紀からの叱責と事情伺いのメールだった。
「美紀先生には俺から説明するよ」
大悟は美紀に返信をする。
「先ほどは申し訳ございませんでした。先生にご迷惑をお掛けし大変恥ずかしく思っております。今移動中なので夜にでも電話かメールで詳細をお話しさせて頂いてもいいでしょうか?」
「私が悪いの」
紗羅はため息混じりに言って、手で顔を覆った。
「あの男が待ち伏せしているかも知れないから」
藍子はそう言って大悟を一人で帰らせた。念のため藍子と紗羅は紗羅の実家の一つ手前の駅で降りる。紗羅をタクシーで帰らせるつもりだったが急に降り出した雨の為にタクシーは捕まらない。紗羅は親に電話をして迎えに来させた。紗羅を一人にさせる訳には行かず、藍子も一緒に駅に留まった。紗羅は生気の抜けたような顔をしている。
「大悟と付き合っているの?」
藍子が尋ねると、紗羅は首を縦に振った。
「大悟の仕事に差し障りがあったらどうしよう・・・・」
藍子の危惧もそこだった。ショーンは事あるごとに「彼は警察官で」を連呼して、大悟を陥れてやろうと躍起だった。
大悟の立場を考えなよ、身を引くのも愛なんだよ、藍子はそう紗羅に言ってやりたい。でも今の藍子は紗羅と同じようなものである。配偶者に何の落ち度がない点では藍子の方がより悪質である。
藍子は説教をする代わりに、駅舎のひさしから落ちてくる雨だれを見ながら言った。
「私の結婚生活も黄色信号だよ。男の人とたまに会っている」
紗羅は顔を上げて藍子の横顔をまじまじと見た。曲がった事が大嫌いで、正義感に溢れた藍子が。紗羅は七年間と言う時間の中で、誰もが変わって行く事を知った。藍子は紗羅の方を向いた。
「良かったじゃない、七年前の気持ちを成就出来て。私は七年前みたいに純粋な気持ちで誰かを好きになる事はもう出来ないけれどね」
「じゃあ何で男の人と会っているの?」
「うーん、彼を好きだからかなあ。でもその気持ちには、色んな感情が混ざっている」
清彦に藍子への裏切りを償わさせたい、麗華は全てを失ったのに藍子は欲しい物は全部手に入れた、それを麗華に見せつけてやりたい。そんな感情だ。
「私は家庭を壊す気は無い。だから好きになりすぎないようにしている」
藍子は乾いた口調で言った。
「いいね、そんな風に割り切れるなんて」
紗羅の言葉には軽い侮蔑が含まれていた。その後、
「ま、好きでも無い人と結婚した私が言える義理じゃないか」
と冷笑的に呟く。
「大悟とはどうするの?続けるの?」
藍子の問いに紗羅は頷く。どんな結末になっても私は知らないよ、藍子は心の中で毒づいた。
紗羅の親の車が駅に到着した。
「変な事に巻き込んでしまってごめん」
「さっきの事、内緒ね」
藍子は清彦との逢瀬を紗羅に口止めして別れた。
紗羅を親に引き渡し、藍子はもうくたくただ。雨の中帰宅するなり夕飯も食べずにベッドに横になってしまった。夫の知芳が心配顔で寝室を覗く。
「大丈夫か?」
藍子は横になったまま
「夕飯の用意ができなくってごめん」
と謝った。
「藍子の夕飯は?」
「まだ」
「何か買って来ようか?」
藍子はしばらく考えた後、
「冷たいうどんが食べたいな」
とリクエストした。
「オーケー。買って来る。それにしてもお前、冷房を効かせ過ぎてだ。この部屋寒いぞ」
と知芳。
「私は暑くて仕方がない」
「熱でもあるのか?」
「あるかも。あ、アイスも買って来て」
「ビールは?」
「うーん、あんまり欲しくない。何だか気持ちが悪いんだよね」
藍子はそう答え、目を閉じた。




