代表取締役 星野清彦
夕刻藍子は仕事を終え、高円寺に駆けつける。高円寺で降りるには学生時代以来だ。最後に高円寺に来たのは・・・・。藍子は嫌な記憶に辿り着く。ライブハウスの楽屋で清彦の恋人然と振る舞う麗華を見たのだ。その夜したたかに酔っ払った藍子はバンドメンバーの駿と寝てしまった。あの時の事を思い出すと藍子は自分の頬を引っぱたきたくなる。駿がライブに来る可能性もあった。駿に会いたくないなぁ、そう考えると藍子の足は止まるのだ。しかし今日はマリイの凱旋ライブだ。観覧しないという選択肢はありえない。駿が来るという事は、まさか清彦さんも?いや、風の噂によると彼は名古屋に帰ったはずだ。清彦に会いたいと藍子は思ったが、もし会えても無視されてしまうかも。藍子は色々な感情を胸にライブ会場に向かった。
三百人の収容人数を誇っている大型ライブハウスが今夜の会場だった。藍子が到着した頃には既に立ち見状態だ。週末毎の小さなライブハウスでの合同ライブ、ネットでの動画配信、オーデション、大物バンドの前座等地道な活動を続けるうちにいつに間にかマリイは有名シンガーになっていた。
マリイのステージはすぐに始まった。挨拶もそこそこに一曲目を始めるのはバンド時代からのやり方だ。マリイのハスキーボイスは更に深みを増し、大音量でもないのに観客全員の胸に入り込む。藍子はマリイの卓越した歌唱力に打たれ、駿に会いたくないとか清彦がどうのとかうじうじ考えていた事が馬鹿らしくなる。若い時代をマリイと共有できた事、今日この凱旋ライブでマリイのデビューを祝える事、全てがファン冥利に尽きた。
ふと、マリイの隣に清彦がいればと考える。マリイ一人でも十分聴かせられるが、清彦のサクスフォンと高音の歌声こそがマリイを更なる高みへと導くのに。清彦がマリイとツインボーカ続けていたらもっと早くにデビュー出来たかも知れない。しかしそれは出来ない相談だ。清彦には会社を継ぐと言う使命があった。マリイと清彦のステージ、それは学生時代の束の間の奇跡だったのだ。
ライブが終わった後、藍子は楽屋を訪れた。マリイのデビューを祝う花が廊下まで溢れて、その匂いでむせ返るようだ。
「一般方の立ち入りはご遠慮頂いております」
藍子の前をスタッフが立ちふさがった。藍子は
「マリイさんと学生時代からに友人で、ご挨拶だけでもと思ったのですが」
と自らの意図を説明し、スタッフの背後のマリイを伺う。マリイはカメラに囲まれて撮影に応じていた。
「お忙しそうなんで結構です。差し入れを渡しておいてくれませんか」
藍子はマリイに会うのを諦め、焼き菓子の手提げ袋に自分の名刺を投げ入れてスタッフに渡した。
「ちょっと、アイアイじゃない?」
マリイが声を上げ、藍子の元に駆け寄って来た。スタッフは藍子を楽屋に入れる。
「マリイ、おめでとう」
二人の旧友は抱き合った。初めて言葉を交わした日のように、マリイの体から香水のいい匂いがした。
「デビューまで七年かかっちゃったよ。やっとスタート地点だよ」
とマリイはぼやく。
「ここから先は弾丸の如くよ」
藍子はビュレットナイトの名前の由来を引き合いに出してマリイを励ます。
気づくと藍子の背後にはマリイを取材したがっている音楽業界人らしい数人が立っている。
「ごめん、長話して。またライブに来るからね」
藍子はいとまを告げて、楽屋を後にした。
「藍子」
廊下で彼女を呼び止めたのは懐かしい声だ。藍子は声の方を振り返った。そこにいるのは白いワイシャツとベージュのスラックスに身を包んで微笑んでいる背の高い男性だった。藍子は一瞬誰だか分からなかった。前髪は目にかかるほどの長さで、眼窩が深く、渋い美男子だ。
「清彦さん?」
清彦は頷いて、
「元気だった?」
と聞いた。
「うん。元気だよ。清彦さんは東京でお勤めだっけ?」
藍子は自分でも驚くほどなめらかに言葉を発した。二人を隔てていた七年間と言う時間も、清彦への怒りも、最後に清彦のライブに行かなかった女の意地も、清彦の笑顔の前では雲散霧消である。
「ううん、名古屋に戻ったんだ」
音楽を止めた清彦の手はいやにゴツゴツとして、男としての性的魅力を振り撒いている。藍子の心臓は締め付けられっぱなしだ。彼が差し出した名刺には、「代表取締役 星野清彦」と記されていた。思わず藍子は名刺と清彦を交互に見る。
「急に親の会社を継ぐ事になっちゃて」
「もう社長?すごいわ」
藍子はそう清彦を賞賛しつつ、彼の左手に目を走らせ、指輪がない事に安堵する。しかし藍子はと言うと、結納時に知芳から贈られたダイヤの指輪が薬指に嵌っている。藍子も自分の名刺を差し出した。
マリイに面会を求める者が楽屋前に集い、立ち話が憚られるような混雑だ。更に清彦が人混みの中にかつてのバンド仲間を見つけ、
「お、駿と芸名ジョニーか。お前達も来たのかよ」
と声を上げた。会いたくもない駿と会う。藍子が最も恐れていた状況だ。彼女は逃げるように
「私、行くね」
「行っちゃうの?もう少し喋りたかったのに」
清彦の言葉が藍子に勇気を与える。
「じゃあ日を改めて・・・・」
と彼女から二人で会う事を求めた。
「うん、そうだね。メールする」
清彦は急に疚しいことを企図するかのように早口になる。二人は一度顔を見合わせ、何事もなかったかのように離れた。すれ違いざま藍子は駿と芸名ジョニーに会釈をしてライブ会場を後にした。