夢を捨てなかった二人
藍子は合気道の演武中にステージから落下してブルースバンドのボーカル・清彦に抱きとめられた。藍子の恋は走り出すが、成就することはなかった。
合気道道場も清彦のバンドも解散して七年、藍子は二十九歳になり、家庭を持った。清彦は親の跡を継ぎ、バッグ製造会社の社長に就いた。道場門下生の大悟は警察官になった。紗羅はカナダで日系人と結婚をした。清彦とツインボーカルを務めていたマリイはいつまでもメジャーデビューができなかった。清彦をこっぴどく振った麗華は長距離恋愛の末イタリア人と結婚をし、藍子宅の隣に新居を構えた。
天水師範の妻で、同じく師範の美紀は、離婚後警備会社に就職し、地方議員と再婚している。
天水師範はインドに渡りIT企業のデリー支社に勤務した。彼は亡命チベット人の僧医にバスの中で救護されたのがきっかけで、チベット亡命政府本拠地・ダラムサラに居ついてしまった。
師範と門下生たちの七年越しの縁が紡ぐ物語、再始動。
「マリイ、凱旋ライブ決定!
今般マリイがメジャーデビューする事になりました。よって彼女の根城だった高円寺にて凱旋ライブが開催されます。古くからのマリイファン、ビュレットナイトのファンそして最近からマリイを聴きだしたファンも是非高円寺でマリイの声に身を委ねて下さい。ヨロシク」
歌手・マリイからの告知メールが藍子に届いた。ビュレットナイト、このバンド名を七年ぶりに目にし、藍子の気持ちはさざめき立つ。藍子は二十九歳になった。ビュレットナイトのボーカルの一人、星野清彦とは卒業式以来会っていない。藍子は彼等の解散ライブに誘われていながらその誘いをすっぽかしたのだ。藍子の女としての意地がそうさせた。清彦が自分の従姉妹の麗華と愛し合った事実は過去のこととはいえどうしても許すことはできなかったのだ。しかし、藍子は待っていた。拒絶されても再び清彦が藍子を求めてくる事を。それが藍子を満足させる清彦の償いだった。
清彦が藍子の前に姿を表すことはなかった。二人の関係はそれで終わりである。清彦がステージから落ちた藍子を抱きとめた事も、グランドピアノで連弾した事も、卒業式の日に恋人のように一瞬だけ指を絡めた事も、全ての触れ合いは未来へと通じなかった。
清彦とは結ばれなかったが、ツインボーカルの相方・マリイがメジャーデビューを果たせた事は藍子にとっても喜びである。告知メールの凱旋ライブ日時は六月上旬である。藍子は居間のカレンダーを見た。排卵日はライブの数日前だ。妊娠を望んでいる藍子は、常に排卵日を気にして計画を立てている。
「知芳、聞いてよ。遂にマリイがメジャーデビューを果たすんだよ!」
藍子は夫の知芳に喜び勇んで報告した。
「マリイちゃんって俺たちの結婚式で歌ってくれた歌手?」
「そう。大学を卒業して苦節七年。やっと彼女の夢が叶った。私、彼女の凱旋ライブに行ってくるわ」
「おお行ってこい。CDも買ってやれ」
「大人になるとみんな夢を手放すじゃない?彼女だけだよ、夢を大事にし続けたのは」
台所で夕飯の準備をしながら、藍子はまだ興奮している。
「夢を手放さなかったのはもう一人いるだろう」
知芳は笑いを含んだ声で言った。
「誰のこと?」
「君の師範だった天水先生だ」
天水克通。七年前にチベット医学を学ぶ夢を胸に、道場を閉めた師範である。藍子と知芳は共に合気道有段者だ。知芳は藍子とは他道場ながら同じ流流に属しており、知芳の道場にも天水の噂は届いていた。
「俺は直接指導してもらった事はないけれど、恐ろしい先生だったらしいね」
と知芳。
「うん、恐ろしかった。すぐに雷を落とす」
「天水先生はまだインド?」
知芳の問いに、藍子は顔を曇らせ、
「インドで体を壊して会社を辞めたって聞いた。もしかして日本に帰って来ているのかも」
「そうだったのか。心配だな」
知芳は冷蔵庫からビールを出し、缶のまま飲んだ。
週末藍子は一人で実家に戻った。楓は実家の敷地内で洋菓子店を経営しているのだ。マリイのライブに楓の店の商品を差し入れに持って行く積りだった。
「ぎゃーん」
奇声を発しながらこちらに突進してくるのは麗華の四歳の息子、マルコだ。麗華親子の住むアパートと藍子の生家は垣根で隔てられているが、マルコは御構いなしに垣根の隙間から鵜飼家に侵入した。彼は生まれながらに粗雑で、更にまともな躾がされていない。マルコのよだれと鼻水と泥で汚れた手で触れられたら大変だ。藍子は咄嗟に身をかわす。案の定マルコは飛び石に蹴つまずき派手に転んだ。うつ伏せに倒れて泣いているマルコを藍子は立ったまま見下ろす。不潔なマルコに触りたくないので手を差し伸べて彼を起こす事などするはずもない。藍子が視線を感じて横を向くと、垣根の向こうから麗華が藍子を睨みつけている。
「マルコ君大丈夫?」
藍子は取ってつけたように気遣うが、相変わらず棒立ちだ。庭で草むしりをしていた初子が見兼ねて駆け寄り、
「あらあら血が出ているじゃないの。可哀想に。立てる?」
とマルコを抱き起こした。そして
「さあママに絆創膏を貼ってもらいましょうね」
と体良く門からマルコを追い出した。
楓の息子の圭太が、鵜飼家の窓から不安げな顔でマルコの様子を見ている。圭太はマルコと同じ四歳児だ。圭太はマルコに泣かされる事が多く、初子も楓もマルコと圭太を同席させぬように心を砕いている。
麗華は門の外までマルコを迎えに行き、
「いつもすみません。マルコ、鵜飼さんのお庭に入っちゃ駄目っていつも言っているでしょう」
と我が子を叱りつけた。麗華が門を閉めると同時に、藍子は
「柵でもつけたら?」
と母親に勧める。麗華に聞こえるように。初子は娘の嫌味には応えず、
「また一人で帰って来たの?たまには知芳さんを連れてらっしゃい」
と苦言を呈した。
「嫌だね」
と藍子。麗華に清彦を奪われた事は藍子の心に大きな傷を残した。麗華の触手が知芳までに伸びたら堪らない。
マルコ誕生後麗華とジョルジョとの結婚生活はすぐに破綻し、ジョルジョはイタリアに帰国した。麗華は今やシングルマザーである。しかしそこは国際結婚の難儀なところで、国を跨いでの離婚は簡単には出来なかった。麗華とジョルジョは別れたいのに別れられない夫婦となった。
更にややこしい事にジョルジョは親権を主張して来た。そこで二人は話し合いの上、妥協点を見出した。夫婦は日本とイタリアに分かれて暮らし、子どものマルコは半年毎に日本とイタリアを行き来することになったのだ。これならば両親は平等に養育に関われ、更にマルコは日伊両言語が取得できるだろう。片貝家もジョルジョの実家も夫妻の養育方法を歓迎した。
しかし現実は甘くはない。二言語は自然に身につく物ではないのだ。親の熱心な働きかけと本人の努力によって子どもは初めてバイリンガルになれるのだ。
マルコの場合、半年かけてイタリア語を覚えたら日本に連れ戻されてまた一から日本語のやり直し。当然イタリア語は忘れてしまう。それの繰り返しで、マルコは四歳になるのにどちらの言語も喋れない。
マルコの言葉が遅いのは環境のせいでもあるが、発達上の問題もあると藍子は思っている。垣根を突き破って隣家の庭に入り込む、これが四歳児の姿だろうか。マルコは圭太ともうまく関われない。最後は暴力をふるって圭太を泣かせてしまう。
「マルコ、変だよね」
藍子は初子に言う。初子は微かに頷き、
「私の孫だったら病院なり保健師なりに相談するけどね。でも仕方がないんじゃない。イタリア人の旦那さんが自分の国にあの子を連れて行っちゃうんだもん。それに麗華ちゃんも顔は綺麗だけどちゃらんぽらんな人だしね」
と投げやりに言うのだった。