僕はチーズ
テスト兼初投降です。
読者諸君伝えよう。僕はチーズである。それも、ハエが集るほどに腐りきった、ゴミの如く汚いチーズである。誰も食べたくないチーズだ。
しかし、僕は人に食べられる為にのみ存在を許された発酵食品だ。食べられることにはしっかりとしたプライドがある。例え腐臭を世に撒き散らし、浮浪者でさえ顔しかめる程の臭さを放つ僕にも、誰かの歯に潰されながら口の中を泳ぐ権利はあるはずなのだ。
さて、そんな僕は今、すでにゴミ箱に捨てられている。僕の小さな自尊心はすでに、ハイエナに食い散らされた草食動物のようにズタズタだが、僕は幸運な事に、他の有象無象のチーズ共と違い、ちょっとした特殊能力を持っている。
それは宙を浮く能力。スーパーマンのように、飛行機のようには飛べないが、ふわふわと、雲のように空に浮かぶことは出来る。チーズにしては恵まれた能力だと思う。
ここで僕の目的を整理しよう。目的はただ一つ、誰でもいいからこの僕を食べてもらうことだ。腐っても食品だ。食べられなければ存在意義がない。
僕は、閉じられているゴミ箱の蓋が開けられるのを待った。それは元旦の夜明けを待ちわびる子供たちの心のように静かに、しかし荘厳に、ゆっくりと開いた。待ってましたと、僕は直方体の体をフッと持ち上げ、初めて空を舞う小鳥の如く宙に浮く。蓋を開けたであろう女がワッ、と驚くが、僕はそんなことは気にせず彼女の口に突っ込んでいく。ようやく食べてもらえる。いや、正しくは無理矢理食べさせているので、この感動は余りにも独善的であった。
「いや! なにこれ!」
彼女は叫びながら僕を避けた。僕の腐臭に鼻をつまみ、害虫を払うように手をパタパタと動かす。彼女の目は非常識の怪異を見たかのように、驚愕の色に染まっていた。
僕はそれに不快感を抱いた。たかだかチーズが浮いたぐらいでこんなに驚くものか。見当違いながら、彼女が本当に害虫を見た時の態度が気になった。僕のと同じ反応をするだろうか。
彼女の口に突っ込もうと彼女の周りをグルグル回る。手が大きく振り払われ、口は僕の眼前に広がった。その瞬間の隙を捉え、僕は彼女の閉じられた口に直行する。口は開くことがなかったので、僕の体は彼女と接吻する。諦めず、グリグリと口をこじ開けようとする僕に対して、僕の悪臭と格闘する彼女もまた、諦めず口を閉じ、鼻をつまんでいた。その内呼吸困難になったのか、鼻をつまむのを止め、その手で僕を叩き落とした。
地面とディープキスをしている僕に対して、彼女は容赦なく踏みつけようとし、やめた。足を汚すのを嫌ったのだろ。その隙を逃さず、僕はこの場から撤退することにした。
フワッと浮き上がり、キッチンからいそいそと脱出する。女はキーキーと何かを叫んでいたが、関わる義理もないので、僕はそれをスルーした。この家で僕を食べてくれる人はいないかと、一階を散策する。だが困ったことに、どこにも女以外の人間は見当たらない。唯一幸運だったのは、廊下に続く扉が開きっぱなしだっつことだ。多分、女は主婦で、掃除をしている真っ最中だったのだろうと、僕は推論した。
居間から廊下へ渡り、階段があったので、僕はある推理を元に階段の上を浮遊する。おそらく二階にも誰かいるだろうという推理。根拠はない。勘という程でもなく、ただ、なんとなく。今の僕よりもフワフワとした理由で二階に到着した。
二階は、短い廊下といくつかの扉があるだけのつまらない構造をしている。ここも掃除中なのか、扉は全て開け放たれていた。その扉のうちの一つに、何も考えず阿呆のようにズカズカと入っていた。その部屋は子供部屋で、それらしく、小学校高学年であろう少年が一人ベットの上でゴロゴロと回っていた。
僕は、食品しての使命のため、この少年に食べられることにした。彼が拒んでも知ったことではない。あの女は僕を食べなかったが、このワンパクそうに見える少年なら、好奇心から口に含んでくれるかもしれない。そうしたらこちらのものだ。口に侵入したら、即座に食道を突き進み、胃の中にストンと落ちるまで。喉に詰まって彼が死ぬ可能性も否定は出来ない。だが、それも知ったことではない。
僕はソロリソロリと少年に近づく。よく見ると、彼は目をむっつりと閉じており、こちらの接近に気づく様子はない。僕の勝機は究極的に高まった。このチャンスを逃すなど阿呆のすることだ。僕はソロリを止め、突風のように少年へ突進した。なんと幸いなことか、彼の口はだらしなく開けられていた。天は我に味方せり。
「うわ! くさい!」
僕の腐臭で夢心地から覚めてしまった少年は、目をガンと開き、チーズである僕を凝視する。その目には驚愕、恐怖などがあり、少なくとも楽観的な感情は一切含まれてはいなかった。
だからといって諦める道理はない。少年は驚いて口をパクパクしている。丁度口が全開に開かれた瞬間をチャンスに、彼の口の中へ飛び込んだ。
僕にも視界というものがあるのだが、それが突如シャットダウンする。口の中に入れた証拠だ。真っ暗ながら、血流の温かさが体に染み、唾液と舌が僕を舐める。だがいつまで経っても咀嚼はされない。逆に僕を口から追い出そうと、舌が、切られたばかりのイカのように暴れ、暗黒の世界に光が差し込んだ。少年が口を開き、僕を追い出そうとしている。更には彼の手が口の中に入り、僕を摘まんだ。ようやく食品としての使命を実感できるところだったのに。僕は強い悔恨は念に包まれた。
再び外の世界へ追い出された僕は、咳き込む少年を目にする。第三者の視点から見れば、腐ったチーズを口に入れたのだ。臭さのあまり舌やら鼻やらがイカれても、それは当然の一言に尽きてしまう。少年は唾液に濡れた僕を憎々しげに睨み、僕を摘まんだまま部屋から飛び出した。僕僕は摘まむというより掴まれているので、なんの抵抗もできない。
そのまま、僕は不本意に一階に戻された。そこには少年の母親もいて、僕を見た刹那、顔がゴキブリにでも遭遇したかのような嫌悪の色一色に染まる。事実として、僕はゴキブリより汚い。だがそれでも食品だ。食べ物だ。食われない一生なぞ恥の氷山だ。
しかし現実という抽象的な上位者は僕に対しても非情であり、同じく僕らにとっての上位者である人間もまた非情なのである。
「その臭いの、さっさと捨てなさいっ」
女は少年に親の権威を利用して命令した。子供はそれに悩みなく従い、僕をゴミ箱に入れようとした。チーズは里帰りを果たす。
「違う、そっちじゃなくて外に捨てなさいっ」
またも女は命令した。情緒は安定せず、僕に対する不安や怒りでいささか不安定な感情のもと口を動かしている。少年は母親を恐れながらベランダへ駆け、庭にポイと僕を捨てた。
当然ここで終わるワケにはいかない。草や土に一瞬といえど汚れたが、僕は構わず少年の口元へ空駆ける。
だが、今度は接近さえ許されなかった。僕がその行いをするのを予知していたかのように、少年は僕を殴り飛ばした。所詮腐ったチーズである僕にはこの行為に抗う術はなく、ベチャリと音をたてながら地面へ急速に落ちた。僕の体はすでに原型はなく、幼子のおねしょのようにベタッと平面状になった。もはや浮くことさえできなくなってしまった。ああ、絶望が潰れた体内を高速に巡回する。僕は、食品としての使命を果たすことさえできず、ただの賞味期限切れのゴミとして地に還るのだ。いやそもそも腐ってしまった時点で、僕の食品としての生命と寿命は尽きてしまったのだろう。そんな赤子さえ判ることをなぜ理解できなかったのか。己の愚かさを谷底より深く呪った。
それからは、僕の周りにはハエが集り始め、チマチマとチーズを食していた。味も臭いも気にもせずに。僕はもう、使命も意思も投げ捨てた。あの時に殴られた僕のように捨てた。唯一捨てられなかったのは、自己嫌悪だけだった。
こんな終わりなんて。
ああ、こんな終わりなんて。
僕はチーズ。後悔だけのチーズ。
3000文字って意外と長いっすね