淀殿と狐
煙管をそっと唇から外す。そして、ゆっくりと息を吐く。
くゆる白い煙。
その向こうにいる侍女のお紺を確認する。
「ああ、やはり。お前は狐だったのか」
この大坂城には狐が憑いている。
亡き太閤殿下がありとあらゆる手を使って狐を追い出そうとしたが、その努力もむなしくいつの間にか入り込んだ。
淀殿はもう一度煙管を咥え、目の前にいるお紺を睨みつける。彼女はもうすでに人の姿に戻っていた。
化けた狐を見抜く方法。煙を通して見るとよい。狐の姿を現すであろう。
淀殿が吐き出した煙で試した結果、侍女のお紺は狐であったのだ。
狐は淀殿の人生にまとわりついて離れなかった。
初めて見たのはいつだったか。
あれは落城の日。幼い淀殿は乳母の袖にしがみついて逃げた。そのとき、ほんの少しの間、匿ってもらった寺の庭に仔狐がいたのである。今となってはボンヤリとした記憶。淀殿はその仔狐を愛らしいと思い、そっと撫で、自分の髪を結っていた赤い紐を仔狐の首にかけた。
それからというもの、狐は時折現れた。
二度目の落城の日も、狐はいた。母と別れたあの日のことだ。
亡くなった兄が具足姿で本丸の中へと駆けて行くのが見えた。とうの昔に串刺しにされた兄が、なぜ?亡霊か幻か。
早く城内を出なければならないのに、淀殿の目は本丸の方へと向けられ立ちすくんでしまった。
「姫様、名残惜しいのはわかりますが、急ぎましょう」
乳母が淀殿を厳しく諭す。
「兄上が……」
「何をおっしゃいます。さあ、早く!」
幼い妹たちが泣いている。戯言は止めなければ。
淀殿は見間違いであろうと自分に言い聞かせ、乳母の言う通りに先を急いだ。
そのときである。激しい爆発音と共に炎が本丸を一気に包みこんだ。思わず振り返ると、燃え盛るそこから一匹の狐が逃げ出していくところであった。あまりにも素早い動き。乳母や妹たちはおそらく気づいていなかっただろう。
「母上!」
すぐ下の妹が泣き叫んだ。
母はあの炎の中にいる。母も見たのだろうか、あの狐を。いや、最期に見たのは兄の亡霊であってほしい。
狐はどこにでもいる。何も気にすることはない。狐を見たことがない者はいない。山にも野にも里にも狐はいるのだから。
だが、淀殿はしだいに狐を恐れるようになっていった。
なぜなら、狐は落城の苦しい記憶を呼び起こすものであったからだ。
やがて淀殿は美しく成長し、太閤殿下と枕を交わすことになった。その初めての夜のこと。
閨に狐が現れた。
喉が渇いたという太閤殿下のために、水を持ってきた侍女のその影が狐の形をしていたのである。燭台の灯りが映し出した正体。尖った耳に大きな尾。淀殿はたちまち叫んだのであった――。
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淀殿の後ろをつけるように、狐は豊臣家にも入り込んだ。
太閤殿下の養女に「小姫」がいて、織田の血を引く彼女のことを淀殿はたいそう可愛がっていた。
悲しいことにその子は流行病で亡くなってしまった。
その後すぐ、淀殿の大切な息子も幼くして亡くなってしまった。
(狐のしわざだ)
淀殿は決して口にはしなかったが、いつしかそう思い込むようになった。
二人目の子を産んだとき、淀殿は誓った。
「この子だけは、何があっても狐から守らなければ」
――そして、今。
その子は立派に成長し、戦の大将となりこの大坂城を守っている。
目の前にいるお紺――狐は息子の命を盗りにこの城に忍び込んでいるに違いないのだ。成敗しなければならない。息子を守るために。
「お紺、何が目的なのです?私に長年つきまとって、そんなに私を苦しめたいのですか?」
詰問されたお紺はひれ伏し、涙声で答えた。
「いいえ、そんなつもりはございません。私はただただ、おそばにいて、あなた様の幸福を願っておりました」
「なにを莫迦を言う!お前は私から幸福を奪ってきたではないか!」
激昂した淀殿は懐から短刀を取り出した。
怯えるお紺。その眼は悲しみで溢れてはいるものの、抗う意思はなかった。
「……さっさと出て行きなさい!今度城中に入ったならば命はありませんよ!」
躊躇して殺めることができなかった淀殿は脅すようにしてお紺を追い出したのであった――。
しかし――。
お紺のいなくなった居室で、淀殿は少しばかり後悔していた。
「いっそ殺してしまうべきだった。あの狐が生きているかぎり、安心はない。きっと、この戦で豊臣は敗けてしまう。そして――、私の息子は……」
淀殿は嫌な予感を誤魔化すように天井を仰いだ。
亡き太閤殿下がこの世の贅をつくしてつくりあげた天井。名の有る絵師が描いた鳳凰。
その一瞬、鳳凰が大きく歪み破裂音が響く。
直後に淀殿の身体は何者かによって突き飛ばされ、宙を舞った気がした。粉塵が視界を覆う。
大坂城に大砲の弾が撃ち込まれのだ。
徳川方の冷酷な一撃。
この攻撃による死者は城内にいた侍女一人だけだったと伝わっている。
その侍女の名はお紺。
だが、そこにはお紺の姿はなく、一匹の狐の死骸があったという。その首には赤い紐。
「お紺、お前はあのときの仔狐だったのね」
母狐に死なれた可哀想な仔狐。戦から逃げ延びた幼い淀殿とどこか似ていた。
「最期に、母に兄の姿を見せてくれたのも……」
そっと狐を撫でる。
狐の死顔を見ながら淀殿は豊臣家の運命を悟り、和睦を決意した。