供物運び
神社には少し冷たい風が吹く。新緑だった葉も段々と紅く色づき、山々を賑わしていた。
環奈はその景色を楽しみながら、ふつふつと沸く鍋の火を緩め、味噌を溶いていく。
「うん、上出来。お婆ちゃ~ん、朝御飯出来たよ~。」
庭に叫ぶと、布を叩く音が消えて祖母が顔を出す。後ろには洗濯物が風に踊っていた。
「はいはい、今行くよぉ。」
ゴロゴロと猫が喉を鳴らす中、二人は食事を囲んで座る。畳が軋み、味噌汁から湯気が昇る。ピカピカの白米を口に運びながら、環奈は祖母に話しかける。
「ねぇ、お婆ちゃん。今夜っけ?神様が集まるお祭り。」
「もうそんな時期かね?...うん、今日だねぇ。」
日捲りカレンダーを見て、祖母が頷く。もっとも、まだその日付は昨日の物だが。
朝御飯をさっと掻き込み、袖を捲りながら環奈は玄関に向かった。
「じゃ、遅刻しちゃうし、もう行くけん。洗い物お願い!」
「はいはい、いってらっしゃい。気を付けてねぇ。」
「うん、いってきまーす。」
彼女の家は山の中腹に位置する、それなりに大きい日本家屋である。高校からの距離もそれなりにあり、彼女の朝は早かった。
夕暮れになる頃に、環奈は部活を終えて帰宅した。この時間、祖母は麓の方でお茶の教室をやっている筈だ。静かな廊下には、彼女の足音だけが響く。
「ナ~ォ。」
「ふふっ、ただいま小太郎。」
耳敏い猫が足下にすり寄るのを、環奈は抱き上げて迎えた。ゴロゴロと温もりと振動を与えてくる小太郎に、精一杯毛並みを堪能させて貰い、彼女は夕飯の支度に取りかかった。
といっても早いこの時刻。彼女が作るのは、冷めても美味しく頂ける物。
何故なら今日の祭、年に一度だけ裏の神社に何かの神様が集まると言う、何処ぞの大神宮の様な物。そこで十年に一度、捧げ物を持っていくのも祭の文化の一つであり、彼女がその役目に選ばれたのだ。
「あっ、本殿まで行ったら遅うなるし、小太にもご飯あげんと。」
本殿と言うには小さい、祠の様な物。それは、山の頂上にある社殿や拝殿からは、少し離れた場所にある。山が別なのでは?と思う程だ。
参道や鳥居も別にあるが、どうやら一つの神社らしい。ただの言い伝えだが。環奈程の年で、神様や祭の成り立ちなんかを知っている者は多分いない。それぐらい古くからある祭なのだ。
「あとは...あっ、お婆ちゃんに伝えんと。確かメモ用紙はここに...。」
神社へ供物運びに行ってきます、と簡単に書いた紙を、食卓の上に置いておく。飛ばないように貼りつけて、環奈は家を出た。
山を登って神社まで行けば、お祭りの真っ最中。辺りは既に暗くなっており、それに包まれて人々の喧騒や太鼓の音が響く。
「寒っ!早いとこ運ばんな...。上着くらい、来てくれば良かったぁ。」
冬服とはいえ、制服では寒さが強い。環奈が腕を擦りながら歩いていれば、一体何歳になるのか分からない、高齢の神主が拝殿で待っていた。
拝殿に置いてある箱は、厳重にくるまれ封されている。神主がすっ、と軽く持ち上げれば、それを環奈に差し出した。
「今回の巫女殿かな?これを...。」
「巫女...?えっと、供物運びの役に選ばれたんやけど...。」
箱を押し付けられた環奈が顔を上げるが、神主は既に拝殿の中に引っ込んでしまった様だ。
「えぇ...これ運べばええんかな...。」
ランドセル位の箱を抱えて、途方にくれる環奈に、冷たい夜風が背中を押した。祭囃子を後に聞きながら、葉のざわめく山を下った。
「うぅ、ほんに寒い...都会やとまだ暖かいんかなぁ。」
ふと、月明かりを遮る木々が途切れる。目の前に現れたのは古びた鳥居。よく見る朱色ではなく、木々が絡み付いた少し不気味な鳥居だ。
響く虫の音色に励まされる様に、環奈は一歩を踏み出す。風が髪を揺らし、葉を震わせて通りすぎた。
「あ~ぁ、明かりくらい持ってくれば良かった...。」
静寂が包む暗がりの中を、細く不確かな参道を渡って行く。月明かりだけが頼りの道は、一歩踏み外せば下まで転がり落ちそうな斜面が両脇を囲んでいた。
そんな不気味な雰囲気がそうさせたのか、箱がずしりと感じられる。環奈はそっと顔を下ろして箱を見るが、先程と変わった様子は無い。
「そういえば、私は何運んどるん?...いやいや、開けん方が良いやろ、これ...。」
山道に生える草を踏みながら、環奈は下り坂を無言で降りていく。自分の鼓動と呼吸の音しか無い参道は、神様の道よりも黄泉比良坂の様だ。
別に帰れなくなるわけでも無いだろうに、環奈は後ろも振り向けずに下り続ける。
抱える箱の重みをかんじながらだと、数十分の道なりが何時間にも感じられて、ようやく本堂が見えてきた。その辺りだけは苔むした様子も無く、小さな祠は未だに新品の様だ。
「ふぅ、やっと着いた...。夜の山って思っちょったより怖いかも...。」
箱を降ろした環奈は、少し周りを見渡した。葉の音一つも無い周囲に、人の気配は無い。風の届けるのも土の匂いだけである。
「少しくらい、見てもええかな...?」
そっと、箱を開ける、果たしてそこにあったのは...
底板。
「空っぽ!?嘘ぉ~、もっと怖いもん運んどると思った...怯えて損したぁ~。」
一通り一人で笑うと、箱を元の様に戻した環奈は祠に一礼して山道を登る。風の届ける静寂も、夜空を楽しむ風流に思えた。
「はい、たこ焼き一個、お待ちどぉ!」
「五百円入りまーす!」
「高ぇよバカ。」
俺は隣で浮かれているタクの頭をひっぱたく。何でこんなド田舎で二人、屋台のバイトよ?
「そういやさ、ここの祭、神様を祀ってるんだってさ。」
「へぇ~。」
心底どうでも良い。
「そんなどうでもよさそうな顔すんなよ。んでさ~、何でも酒と女が好きなんだとよ。お前と気が合いそうだよな。」
「んだと!この野郎。」
大正解だけどな。しかし、賑やかな祭だな。隣町でも聞こえそうだぜ。まぁ、せいぜい山ん中くらいだろうけど。
ネタバレ
空っぽの箱を運ぶ少女が行くのは、酒と女が好きな神様の離れた本殿...。本当の供物は、箱の中身では無く、女の子本人だったのです。
神様の範囲、鳥居の中は不自然な程に一切の無音。明らかに現実では無い場所に行ってしまったのです。