なにものか
霊魂なるものがある、と仮定する。思うに、それが実在したとて、それはきっと影のようなものでしかないのだろう。
「人間には脳髄がある。まさかどこぞの古代人のように、それが鼻水を作るための器官でしかない、などとは思うまい?」
自分で言うのもおかしな話ではあるが、私には偏屈の気がある。病室の窓から覗く樹を眺めながら、語り掛ける相手を見もせずに滔々と持論を紡ぐ三十過ぎの男……そんなものが偏屈でないとは少々言い難い。
しかし、性分というのは矯正しようとして早々に成るものでもない。努力はしている。それでも直らない。だから、私は悪くないのだ。奇怪な問いを投げ掛けて来た、目の前のこの少女が悪い。
近所の高校らしき制服を着た名も知らぬ少女は、何が面白いのか微笑みを絶やさない。というのも窓に反射してそれがわかるため、私のベッド脇に傍若無人に腰掛けるこの少女めもまた窓を向いているのだ。要するに、互いに窓を介して見つめ合う形となる。
「ふーん。それでおじさん、じゃあ結局幽霊って何だと思ってるの?」
「古い文脈における死後の象徴。物理的には存在しない。生と死を脳髄の電気的信号で判別する現代的価値観とは致命的に食い違う、が、この点については議論に関係無いな。要は魂を信じるが故に創出された単語、概念であり、自意識というものへの信仰あってこそ成立するまやかしだ」
「めんどくさい理屈だし何言ってるかわかんないや。要するに信じてないってことじゃない?」
「そもそも信じる信じないの話ではないのだ。幽霊、というのが具体的に何を指すのかによって私の答えは変わる。そも定義が曖昧な概念についての問いならば、まずその点を明らかにしたまえ」
まさかこの歳になって、幽霊を信じているか、という質問をされるとは考えてもみなかった。深く考えたことこそ無かったものの、自己の意識という命題についてはそれなりに思索を巡らした経験があったので、それを基礎に考える。
この少女と出会ったのはつい先ほどのことである。先に述べたように、退屈を紛らすため窓から中庭を、そこに聳える青々と茂った桜を眺めていると、ふとそこにやって来た彼女と目が合った。その後しばらくして私の病室までやって来たのだが、互いに挨拶も無しに聞いてきたのがかの問いである。
正直言うと、なんだこの子供は、と思わなかった訳ではない。だがそれはそれとして退屈しのぎにはなる。子供というのはどうにもよくわからないものだと理解しているので、深く考えるだけ無駄だろう。
「例えば、死後の在り方としての幽霊を信じるか、と問われるならば私の答えは否だ。一度死に、肉体無きものとして蘇る――そういう話はよく好まれるが、私に言わせればそれは同一ではない。同じ記憶、同じ相貌、同じ思想を持っていたとしても、蘇生者は別の存在だ。それらが同一のものだと考えられるのは、あくまで魂というものの実在を前提とした世界観においてのみ、私のそれとは食い違う。そして幽霊とは、生前の人物とあくまで同一視されるのだろう?」
少女は小首を傾げ、私の言葉を反芻している様子だった。私ももっと分かり易く自分の言葉を伝えられたならば、と思うことがある。目下のところ、矯正中だ。効果のほどはわからないが。
「……ええっと?」
「スワンプマンという思考実験を知っているか。沼に入った男に雷が直撃して死ぬ、しかしその雷が何らかの作用を起こしたことで、男の特徴とまるで同じものを持つ何かが沼の中に発生し、死んだ男の記憶・自意識に則って帰途に就くという話だが。果たして沼から発生した男は、未だ沼に沈む死体の男と同一のものと呼べるかどうか、という題を思考する」
「あ、それなら知ってる。テレビで見た。その例えってことは、えーっと、おじさんは幽霊が、沼から出てきた方の人、みたいなものだと思ってるってこと?そしてそれは同じ人だと言えないから、んー、死ぬ前とあくまで同じ人物だとされる幽霊は、信じていない?と」
「大枠ではそうなる」
幽霊について、誰それが化けて出た、などと言う言い回しをする者は多い。だが、私たち人間は脳で思考しており、自意識もまたそこで形作られる。過不足なくそれで成立するのだから、本来魂などというものの介在する余地は無い。
魂とは人の本質的な部分であり、それが無くなってしまえば肉体は動かなくなる……そうした描写をされる創作物は多い。だがそのようなことは起こらない。なぜなら私たちの意識とは存外夢の無いもので、ファンタジックな理屈に由来を持つようなものでないからだ。
微弱な電流による計算が、意識という幻想を生む。人間は機械と違う、などと言うこともあるが、やがて技術が発達し、人と同等の意識を再現することができてしまえば、そうした幻想は死に絶えるだろう。
何が言いたいのかというと、人間はよくできた人形であるということ。その人形はスーパーコンピューターを内蔵しており優れた計算機能を持っている。しかしその人形が壊れ、新たな同一の個体を作ったとしても、そのラベルは新品である筈だということ。
私は人というものに別段の価値を見出さない。生命というものにもまた然り、故に幻想を見ることも出来ない。生命が特別尊いものであると考えられたなら、魂というまやかしを掲げ、それを基盤に置いた死後という概念に思いを馳せることもできただろうが。
「……結局、信じてないってことじゃない?やっぱり」
少女が苦笑と共に、微かな落胆の色を乗せて言う。いや、本当にその感情が落胆であったのかは私にはわからない。或いは安心という線も考えられる、そのような声音であった。
私は小さく溜息を吐いた。ガラス越しに、下がる眦が見える。だが振り向こうとは思わなかった。結局のところこの問答は暇潰しでしかなく、私の言葉は彼女に向けられてこそいるが、その実向き合うための言葉ではない。彼女の悩みなど知らぬし、興味も無い。故に、独り言と大して変わらぬ。それが態度にも出る。それだけのことだ。
「例えばそのように幽霊を定義するとして、と前置きしたろう。死者の姿を模した、物理的に存在しない間主観的にのみ認識される存在についてならば、必ずしも否定の立場には立っていない」
少し間を置く。
「私は寡聞にして知らぬ。が、そういうものを見聞きする人間がいたとしても、別におかしな話では無いだろう。集団幻覚かもしれぬし薬物の作用かもしれぬ、はたまた本当にいるのかもしれぬ、だが私にそれを知る術はない。故にわからぬ、としか答えようがないと、そういう話だ」
私は私が体感したものしか信じない。究極的にはそれに尽きる。知らぬものは知らぬとしか答えられないし、気を遣うのも向いていない。だから妻にも逃げられたのだろう、と、何とも無しに思考する。
窓に反射して映る、その焼け爛れた顔を見る。左頬から額にかけて広がるその痕は、焼身自殺を試みた拭い去れぬ過去そのものだ。左足は腿から下が無い。左腕は根元から。深くまで焙られたことで、左半身はほぼ使い物にならない。それが私だ。
「まぁ、仮に実在したとしても。思うにそれは死んだ者の写しでしかない以上、私の知ったことではない」
死ねば私はそこまでだ。その後私によく似た何かが発生したとして、それが私と同じように思考し、私であると僭称しても、私の与り知る類の問題ではない。
要するに、私は幽霊のようなものについてはその不在を確信しきれていない。だが、死ねば人間はそこまでで終わるということについては確信している。煮え切らない返答に留まるのは、その辺りの価値観に由来する。
「ふーん、なるほど。面白いね。最後にもひとつ、質問いい?」
少女は一頻り頷いた後、そのようなことを私に訊いた。今更許可を取るのか、と思わず苦笑いしつつ、顎をしゃくって続きを促す。
少女は妙なことを訊いた。
「おじさんは、生きたい?」
生きたいか、と来たか。幽霊を信じるか、という問いからはどうにも繋がらぬように思えたが、生死に纏わる議題としては理解しかねるものでもない。
はて、と私はここに来て言葉が閊えた。
私にはもはや、満足な肉体は無い。その理由も馬鹿馬鹿しいもので、言ってしまえば自業自得だ。下らない思考実験に割く言葉はあれだけあったにも関わらず、こと自らの進退については何も論ずることができないというのは随分とお笑い草な在り様に感ぜられる。
「自殺未遂の下らん男に対する問いではないな」
「今の感想でいいよ。死んだあと幸せに生まれ変わりたい、って思って自殺する人もそれなりにいるけど、おじさんはどうも違うみたいだし。どうなんだろーって」
自殺を態々選ぶような人間は、往々にして現実から解放されたいというそればかりのことを考えている。斯く言う私も似たようなものだった。だから、何も生まれ変わることまで考えずとも、死ぬだけなら事足りる。
次の人生に思いを馳せる、というのは、死を望まぬ者の発想だ。死を望む者の思考を想像できぬ者や、諦めきれず生に拘る者は、次を願う。解放を望む者は、恐らく次などとは考えず、二度と生を望むことは無い。
幸せであれ不幸せであれ、存在することに倦んだ者。恐らく私は、そういった者、だった。
「生きたいよ」
過去形だ。今は違う。随分と短い解答になったが、しかしその程度の単純な言葉しか、私の口からは出なかった。
少女は随分と意外そうな顔をしていた。私自身、こういった結論に達することが意外に思えているので、その反応は当然と言える。生を特別なものであるとは考えていないし、尊いものだとか、美しいものだとか、そのように思っている訳ではない。
だが、焼けて、苦痛に溺れ、早急な死を望んでおきながら……目が覚めた時にはほっとしたのだ、虫のいい話だが。私にとって、生きるとはそれだけのことでしかない。
少女は一度、首筋を指で掻いた。その後僅かな間視線を宙に彷徨わせると、微かに首を傾いで笑みを浮かべる。
「そっか」
そう言ってベッドから飛び降りると、少女は大きく伸びをし、組んだ手を腰に落ち着かせた。
「満足か?」
「うん。元々大した用事じゃないし。それじゃあね」
「ああ」
結局互いに名乗らぬままだった。少女は掌を立て、短く宙を包むように数度握る、独特な手の振り方をし、パーテーションをさっと抜けると病室の引き戸を引いて、去っていった。故に、私の目に映った彼女の最後の姿は、パーテーションを肩で切って潜る様子である。
引きっぱなしだったせいか、戸が閉まる際に音が響く。それが多少煩くて、私は顔を顰めた。人の息遣いは消えたので、出ていったように思う。
少女は嵐のようにやって来て、嵐のように去っていった。私の人生であれだけ珍妙な出逢いはもはやあるまい。溜息と苦笑ばかりが出てくるが、これはこれで貴重な経験ではあっただろう。
ふと、再び引き戸の引かれる音がした。忘れ物だろうか、と思ったが、戸が慣性に任され閉まる音が再度響き、それきり静寂が戻る。
静かだった。人の息遣いは無い。
「……誰か、いるのか?」
微かな違和感。私の視界には窓の他、仄かに青い仕切りしか映らない。この病室には私一人しかおらず、他のベッドは誰も使用していない筈だ。故に、本来ならば人が出ていくことで戸が開かれることは無い。
悪戯か。しかし誰が?
遠く靴底が床を打つ音を聞く。次第に離れていくそれは明らかにあの少女のもので、つまり私の病室から廊下の往来は音でよく把握できる。戸の開かれた時点で既に離れていたそれは、物理的に悪戯のできる距離間ではなかったように思う。
一方で、近づく音がひとつ。ナースだろうか。
だとしても、ひとつ足りない。少女が出た後に開閉した引き戸に、手を加えた者がいないのだ。
「……」
左半身の自由が利かないため、多少手間取りながらもパーテーションを引く。開けた病室には、当然ながら誰一人として人影など見当たらない。背と、二の腕、そして頬か――そうした辺りが泡立った。
「篠崎さーん、お食事の時間ですよー……ってあら、珍しいですね。仕切りを開けてるなんて……もしかして、さっき廊下歩いていた子ってお客さんでした?」
想像通り、程なくしてナースが入室した。開こうとした口はしかし、何の言葉も紡がなかった。呼吸が止まっていたことに遅まきながら気付き、意識的に長く、息を吐く。
「……失礼した。貴女の言う人物は、制服姿の少女に相違無いか」
「え?ええ。そうですけど」
「そう、か。なら、正しい。来客だった。しかし――……」
今一度在り得もしない妄想を脳裏で吟味し、苦笑する。いや、苦笑というにはその笑いは少々引き攣っていた。拭い去れない困惑と、そして、認め難いが……もうひとつの感情を無視することなどできそうもない。
「一人では、無かったようだ」
思えば、少女の手の振り方は手招きに似ていた。或いは最初から――私の病室には、もう一人居たのかもしれない。