サイコロの目をした妻
※ この小説には[残酷な描写]はふくまれませんが、[惚気要素]がふくまれます。苦手なかたはご注意ください。
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びっくりした。結婚生活十年目で、こんなことになろうとは。
十年前、私は妻となったかけだしの料理人の前で誓った。人生をあなたに捧げると。
妻の腕はたしかで、仕事場の妻はきっと高尚で立派なのだろう。いつか自分の店を出したいと夢見てお師匠さんのもとで修行を積んでいる姿は、誰の目にもそう映るのではないかとも思う。
家で見る妻はまるで猫のようだ。一人の世界に入りこむと、なにを考えているかわからない。茶色い瞳はキラキラしたりギラギラしたりするけれど、それがなにを意味するのか、私にはまったく見当がつかないのだ。夫である私のふだん接する妻は、よそから見てもそう映るのではないかとも思う。
さて二人の世界に入りこむと、妻はそれこそ猫のように甘えてくる。いたずらっ子のような混じり気のなさをたたえた瞳で私をとらえ、蜂蜜でもまとっているかのような甘ったるい猫パンチをくりだしてくる。こういう妻は私しか知らない。それが私のささやかな自慢だ。
この猫のような妻に、私はいつも翻弄される。妻以外に知らないのでなんとも言えないけれど、料理人というのはこういうものだろうか。
「暑いねえ、麦茶飲もうか」
青いスポーツタオルで汗を拭きながら飄々として言ってのける妻が憎い。そんな妻のために私は、ちょうど五年前にこの居間に運びこんだソファを一人で運び出している。
それにしても、蝉がうるさい。
「時効じゃないかしらと思って」
そう言って妻が打ち明けたのは、半年前のことだ。
まさかそんなことを言われるとは思わないから、私はのんきに「時候?」と聞きかえしていた。
「あなたと結婚したのは、六の目が出たおかげなのよ」
妻は飄々としてそんなことを言う。
「一、二、三ならヒデさんと、四、五、六ならあなたとって決めてたから」
妻がなにを言っているのか私は即座に理解することができず、ぼうっとしてしまった。
しばらくして、
「買い物に行ってくるね」
と言って玄関で靴を履こうとしている妻の背に向かい、あわてて一言投げかけた。
「誰だよ、ヒデさんって」
大事なことは、サイコロで決めるのよ。
妻の口からはじめにそう聞いたとき、まさか塩胡椒の加減もサイコロの目によって変わるのかとも思ったけれど、それはさすがに例外だ。妻の腕はたしかで、私の舌もたしかだ。妻の作るボンゴレ・ビアンコが、私にとってのいちばんのごちそうだ。
さて今度も、妻はサイコロで決めたらしい。夫である私にはなんの相談もなかった。
「奇数なら仙台、偶数ならマルセイユ。一が出たから、仙台ね」
いったいどこからその隔たった二都市が出てきたのか、私にはまったく見当がつかない。
「住む場所を変えてみたら、味も変わるんじゃないかと思って」
私は妻以外に知らないからなんとも言えないけれど、料理人というのはこういうものだろうか。
とにかく私は、十年前に誓ったのだ。妻に人生を捧げると。
この猫のような妻に、私はいつも翻弄される。これは私のささやかな自慢でもあり、惚気でもあるのだけど、そんな妻が憎くてたまらない。
「はい、麦茶」
「蝉、うるさいな」
※ なななんさま主催「夏の涼」企画 参加作品です。