白虎
何もない空間から、突如現れた獣の姿に、華は思わず声をあげそうになった。
が、さっきからずっと両手で口元を押さえていたのが幸いした。喉から飛び出そうになるものをなんとかこらえ、踏みとどまった。パイプオルガン横の異変に、男は気付いていない。
だが、別の意味で華はピンチだ。
白虎は、オルガン前の通路にどっかりと座りこみ、華に顔を向ける。そして、華の匂いをスンスンとかぎながら、しきりに首をひねっている。
多分、下からオルガンのほうを見たら、白虎の胴体と尻尾のあたりは見えるはずだ。
華は身動き一つままならず、両手で口元を押さえたまま、置物のようになっている。目は驚愕に見開かれ、心臓が早鐘を打っている。
匂いを嗅ぎまわる白虎に触れたら、お守りが発動してしまうかもしれない。そうなったら、華は見つかってしまう。
どうしよう…。この虎って、もしかして総主教のところで会った虎?
わからない。他の人が契約した白虎なのかもしれないし。でも、なんでこんなところに現れたのだろう?ここに隠れていることを知らされてしまう?
「あれ?クリシュナ様?」
男が白虎に気付いた。
クリシュナ?
聞いた名だ。やはり、総主教のところにいた白虎だ。
まずい、男がこちらに来たら、どうしよう。
するとクリシュナは、その大きな身体を起こし、軽くジャンプして格子の手すりに乗った。大きくて重さもあるだろう身体は、細い手すりの上を優雅に移動していく。手すりはクリシュナの手足よりも幅が狭い。それなのに、なんの危なげもなく、ひょい、と軽く階下に飛び降りていった。
「お散歩ですか?クリシュナ様。」
どうやらクリシュナは、教会の職員に親しまれているようだ。いつもこんな風に、うろうろしているのかもしれない。あの時急に総主教の部屋に現れたのに、誰も驚かなかったのは、大人しくてうろうろしているだけの大きな猫みたいに思われているからかもしれない。
「ええと、掃除、もう終わったんで、扉を閉めちゃいますけど、いいですか?」
男はクリシュナに対して、あくまで丁寧だ。総主教の契約獣だからか。
クリシュナは、もちろん返事も何もせず、ぷいと顔をそむけ、ひな壇の上にだらりと寝そべった。全く愛想もない。猫と一緒で、なんだか気まぐれみたいだ。
「じゃ、これで灯りも消します。俺、帰りますからね。」
男はクリシュナに一声かけると、灯りを消し、出て行った。
華は、ホッと一息つく。口元をずっと押さえていた両手をおろし、大きく息を吸い込んだ。とりあえず、男に見つかって捕まることはなかった。クリシュナは、どういうわけか華がオルガンの側にいることを男に教えなかった。
灯りは消されてしまい、中はずいぶん暗くなった。だが、ひな壇の前に灯された蝋燭は消されておらず、火がついたままだ。さすがに祈りをこめて奉納されているものを、こちらで勝手に消すわけにはいかないのだろう。燃え尽きるまで、そのまま放っておかれるようだ。
男はいなくなった。だが、まだ白虎がいる。しかも、ひな壇の上に。
あの白虎は、何を考えているのだろう?
華は、考えていた。最初に白虎を見た時は、襲われるかと思い、腰を抜かさんばかりに驚愕していた華だが、あの時と違い、今では魔物が知性を持っていることを知っている。ただの獣ではないのだ。
孤児院で飛びかかってきたトビトカゲのように、小さくて子供のペット扱いの魔物ですら、簡単な意思疎通ができた。ましてやあの白虎は、幻獣といわれる魔物だ。人の言葉を解しているからこそ、あんな風に通りすがりの職員ですら、声をかけていくのだ。
だとしたらクリシュナは、華が隠れていることを知りながら、どうして男に教えなかったのだろう?もしかして、わざと知らんふりをしていてくれた?何度も匂いをかいだりして首を傾げていたのは、ナーガラージャの気配を感じていたせいだろうか?
そう考えた華は、下に降りてクリシュナと話をしてみようと思った。トビトカゲと同じように、話ができるかもしれない。
華は、すっぽりとはまり込んでいた隙間から身を起こし、移動することにした。
華とクリシュナ以外、誰もいない教会に、かぽ、かぽ、と少し間抜けな靴音が響く。いつのまにか日は沈み、夜になっている。建物内は、かなり薄暗い。
クリシュナは、華が近づいてきても気にしない様子で、だらりとしたまま寝そべっていた。華のような子供など、警戒する必要もないのだろう。
ひな壇の下まで近づくと、そこにはられた赤いロープ越しに、華は声をかけた。
「話がしたいの。そっちへ行ってもいい?」
クリシュナは少し身を起こし、宝石みたいな青い目で華を見た。
小さな身体では、ロープをまたげそうになかったため、華は身をかがめ、ロープの下をくぐることにした。クリシュナは動かず、そんな華の姿を、ただ見守っている。
ロープをくぐりぬけ、這うようにひな壇をのぼり、クリシュナのすぐそばまで近づくと、華はそこに座り込んだ。
「頭、撫でてもいい?」
華が声をかけると、クリシュナは華に頭を寄せてきた。やはり言葉がわかっているようだ。華はクリシュナの頭に手を伸ばし、そっと撫でてやる。
触れてみると、その身体は温かだった。染み一つない真っ白な毛皮は、思っていたよりもずっと肌触りがよく、触っていてとても気持ちいい。滑らかな身体の線が、蝋燭の柔らかな明かりに照らされ、その光と陰の中で呼吸と共に、しなやかにうねっている。
しばらく華はクリシュナを撫で、その毛並みを堪能していた。撫でられるのが気持ち良いのか、クリシュナも華の好きにさせている。
「きれいね。本当に、雪みたいに真っ白。私のこと、覚えてる?」




