葛藤
『はじまりの王』のブックを取ってこい、とナーガラージャは言っていた。だがしかし…。
どう見てもあれは、人々の崇拝を受ける、神社仏閣のご神体のようなものだ。人々の様子を見ていたらわかる。
最初に教会を見た時も、たくさんの人が出入りしていた。観光気分で見学に来るにしろ、何か願い事をしたり、お祈りのためにここに来るにしろ、あれは人々の畏敬の念を受けている信仰の対象だ。
人々が大切に思って大事にしているものを、勝手に取っていいわけがない。それはただの盗みだ。しかも華は、ヴィルを捕まえて青騎士に引き渡すようにしてきたばかりだ。他人の窃盗をえらそうに咎めていたのに、自分が同じことをしていたら、本末転倒だ。
それ以前に、あの高さにあるものを、どうやって手に取る?
紐でぶら下げられているわけでもない、ただ空中に浮かんでいるものだ。お子様サイズの華が一生懸命ジャンプしたところで、どうにかなるような距離ではない。仮に梯子を用意したところで、梯子をかける場所がない。相当高い脚立か、電柱作業用の高所作業車でもあるならともかく…。
うーん……。
華は腕組みをして考え込む。
盗みはしたくない。だが、ブックの中身は見たいのだ。
だってあれは、王のためのブックだ。
あれを見れば、何のために華がこちらの世界に召喚されたのか、わかる糸口がつかめるかもしれない。
それに、あれを使えば、華も魔法が使えるようになるはずだ。ナーガラージャは何の説明もなく、当り前のように華をここへ転移させた。そして、『はじまりの王』のブックは、王の為のブックだと言った。だからこそ、華はここへ来た。
華は、ブックを見つめる。
宙に浮かぶ、ブック。その少し古めかしい金色の表紙には、アストロラーべのような模様が刻まれ、太陽系の天体模型図のように色々な宝石がはめ込まれている。中でも、真ん中の石は一際大きく、太陽のように鎮座している。
その姿は、アランのブックとも、モリスのブックとも全く違う。もっとずっと古くて、多くの秘密を抱えており、見るからに特別な感じがする。ただ装丁が豪華なだけの本、というわけではなさそうだ。
魔法を使えるようになりたい。
この世界でただ一人、魔力を欠片も持たず、誰かと契約しないと生きて呼吸することもままならない人間。この世界について何の知識もないまま連れてこられ、捨てられた。
華はもう、元の世界にはもどれない。生きていくための手段が欲しい。身を守るための術が欲しい。毒を飲まされたり、声を奪われたり、捨てられたり、そんな目に会うのは、もうごめんだ。
幸いなことに、ナーガラージャと契約することができ、防御のためのお守りももらえた。とりあえず、簡単には死にそうにない。
しかし、これからのことを考えると、魔法は必要だ。ここは、魔力の多寡やブックを持っているかどうかで、人の扱い方まで変えられてしまうところだ。
ブックが欲しい。
あの、宙に浮かぶブック。王の為のブックが。
でも、その一方で盗むことに抵抗がある。合法的に持っていけるのなら、もちろん迷いなくいただいていく。でも、勝手に持っていくのは窃盗だ。この世界で、どれだけ自分が酷い目に遭わされたにしろ、それを免罪符にして自分が泥棒をやっていいとは思わない。
盗むのはいやだ。
でも、せめて中身を見たい。王のためのブック。『はじまりの王』のブック。華が魔境の王だというのなら、その証が見たい。たとえ何が書いてあるかわからなくても、記号の一つ、絵の一つでもいい。どこか別世界から召喚され続けている、王の印を見たい。
ゴーーン、ゴーーン、ゴーーン……。
鐘が鳴っている。その音と共に、オルガンの音も急にやんだ。前のほうに座っていた人たちが、席を立ち、荷物を持って動き始めた。
どうしよう……。
いまだ握り締めたままの蝋燭。お釣りでもらったコインは、華の体温であったまっている。華は、迷いを抱えたまま、不安げにきょろきょろと周囲を見渡す。
アランは、何かあったら自分のところでもローレルのところでもいいから知らせろ、と言っていた。このまま孤児院にもどろうか?弱気な声が頭に浮かぶ。さっき別れたばかりなのに、餞別代りにコインまで貰っておきながら、どの面下げて孤児院へ?
その時、どこからか階段を下りて来る音が聞こえて来た。男が一人、小さな螺旋階段を下りて来る。オルガニストだ。手に楽譜のようなものを持っている。鐘が鳴ったので、彼の仕事は終わったのだろう。
男が降りて来た階段は、隅のほうにあった。華は背後を振り返った。オルガンのパイプが、出入り口側の扉の上のほうに並んでいる。階段は、そのオルガンのところへ行けるようになっているみたいだ。
すでに、孤児院に戻るという選択肢は華にない。かといって、場所がどこだか定かでもないナーガラージャのいるところを目指すのも、今の華には無謀だ。それに、最初にここに転移させられた時に、決めていた。王の為のブックを手にし、魔法でナーガラージャのいるところに転移しようと。
ならば華が今やるべきことは、この場に居残ることだ。決めてしまったら、迷わない。華は行動を開始した。
誰もいなくなった教会内で、華はオルガニストが使っていた螺旋階段へと移動する。用心深く周囲を伺い、身体を小さくしながら、その階段を上へとのぼっていく。
ちょうど華が階段をのぼりきったところで、どこかの扉が開く音がした。ひな壇の側にあった扉が、急に開いたのだ。黒いカソック風の衣装を着た、教会関係者と思われる男が、そこから教会内に入ってきた。
彼は、奥の方から順に、長椅子や窓など、あちこちに視線をやりながら移動してくる。忘れ物がないか、異常はないか、残っている人はいないか、目で確かめているようだ。
華は、階上で四つん這いになり、這うようにしてオルガンの前を通り、一番奥へと進んだ。
一通り、階下を巡回してまわった男は、今度は螺旋階段を上ってくる。コツ、コツ、コツ、コツという靴音が教会内に響き渡る。
オルガンの陰になるところに、ほんの少しだけ、小さなスペースがあった。華は、この時ばかりは子供の姿をありがたく思った。小さな身体がやっと一人分入るくらいの隙間が、そこにはあったのだ。
華はそこに身をひそめ、息を殺した。両手で口元をおさえ、ほんのわずかな音もたてぬように。
彼は階段を上ってくると、手すりに手をかけたまま周囲を見渡し、そしてすぐまた降りていった。明かりのないパイプオルガン横の暗がりは、オルガンの椅子で隠れて見えなかったようだ。
しばらく華はそのまま、身動き一つしないでいた。男は一通り巡回を終えると、出入り口の鍵を閉め、鼻歌をうたいはじめた。
オルガンの前は、人が一人通れるくらいの細い通路になっていて、オルガン奏者が階下から見えるように、両脇以外、縦格子になっていた。男が何をしているのか気になった華は、潜めている暗がりから目だけを動かし、階下を見つめる。華のいるところからは、全体は見渡せない。だが、奥のほうは見えた。
彼はどうやら、掃除をはじめたようだ。
掃除と言ったが、普通の掃除のやり方ではない。なにしろここは広い。一人で掃除をしていたら、時間がかかりすぎる。
彼はブックを取り出し、魔法を放った。杖を持ち、柔かな風を操って埃をさっと集める。そして、雑巾とモップをも巧みに操り始めた。
雑巾は、よーいドン、と号令でもかけられたように長椅子の座面を一列ずつザーッ、とふいていく。モップも同じだ。まるでプールのリレー競争みたいに、建物の端から端までを行ったり来たりする。そして、瞬く間に掃除を終えてしまった。
なるほど。こんなことにも魔法を使うのか。
これでは、魔力のないものが馬鹿にされるわけだ。こんな風に効率よく魔法で出来てしまえるのなら、多少、給金が高くても、たくさんの人を使うより安上がりになるのかもしれない。工場が機械化したり、ロボットを使うのと同じ理屈だ。
魔力が多ければ、たくさんのことができ、給金も多くなる。その実例を、華は目の当たりにしているようだ。多分、彼の仕事は、これだけではないはずだ。ここの掃除は、もしかしたら当番制か何かで、彼にとってついでの仕事かもしれない。華はそんな風に思った。
丁度その時だった。
ふいに目の前に、何かとてつもなく大きなかたまりが、ドン、と現れた。
華はギョッ、として目をむく。
『白虎!!』




