雨
何か、冷たいものが、今…。
「ん?降ってきちゃったなぁ、今日一日くらいもつかと思っていたのに。ちょっとのんびりしすぎたか。」
アランの横で、華は空を仰いだ。
思っていたよりずっと、青騎士寮でゆっくりしていたようだ。朝から雲の気配はあったが、空はすっかり鼠色に覆われていた。
「雨…。」
手のひらを差し出し、その水滴を受ける。雨粒が、ぽつり、ぽつりと顔に落ちてくる。華は目を閉じた。
香る雨の匂い。
傘は持っていない。
小さな手のひら。子供の姿。中身はさほど変わっていないのに、姿形は大きく変わった。
「この世界にも、雨は降るんだね。」
アランは華が何を言っているかわからない、といった表情だ。とまどったように華の顔を覗き込みながら言う。
「雨が降るのは、当り前だと思うけど。」
「そうだね…。」
そう。あまりにも、当り前なこと。
昨晩の月の光も、降り出した雨も…。
夜が来て、朝が来て、また、夜がきてを、繰り返す。
何度も、何度も何度も。
そう。うれしくても、苦しくても、今の自分に終わりがないように。
雨粒は手のひらをすり抜け、駆け足で地面を目指す。雨は競うように、乾いた石畳の上を走る。慌てたように模様を作り、広げ、埃を包み、匂いをたちのぼらせる。
華のはいている靴の穴は、射的の的のように水滴に狙われた。穴からのぞく靴下の先は、すでに濡れている。
雨は落ちても、天には上らない。ただ、重力に引っ張られ、下へ、下へ。
華は羽衣を奪われた天人のように、雨と共に地に留められる。ピンで縫いとめられたように、異郷で余儀なく過ごす日々。生地は最早、決してつかめない虹のように朧で、どこにあるかすら自分で示すこともできない。
とても、遠いところに来た。この世界には、自分を捨てた親も存在しない。華の生まれ育った地は、どこに存在するかもわからず、証明できないくらい隔てられたところにある。地図にものらず、電波も届かない圏外。
小さな身体は、薬を飲んで小さくなったアリスのように違和感しかない。
それなのに、この世界にも当り前のように月が輝き、雨が降る。そのことが悲しく、そのことがうれしく、そのことがひどく心に突き刺さる。心の中で雨が降るかのように、水音を聞くから。
生まれ変わって、何もかも一から、全て新しいままの自分で始められたらいいのに。それなら、こんなやるせない気持ちを覚えることもなく、笑っていられたのに。
でも、ここに存在する自分という個体は、生地から無理に引き剥がされたにもかかわらず、飽きたオモチャを捨てるように廃棄された出来損ないだった。ポンコツで歪で、どうしようもなく間抜けだ。
自分が利口だなんて、思わない。お利口さんなら、捨てられることも、毒を飲むはめになることもなかった。
「リーナ、ほら、濡れるよ。せめてあそこに行こう。」
アランは華の腕をつかみ、屋根のあるところへ連れて行こうとする。
だが、華は動こうとしなかった。
そして目を開け、空を見る。
「リーナじゃない。私の名前は、華だよ。」
無理やりにでも目をこじあけ、世界を見なくちゃいけない。この世界を。
目が開いていても、見えているわけじゃない。ぼんやりとしていたら、何も見えないのだ。
この小さな手で、何がつかめるのだろう?
何ができるのだろう?
何をすればいいのだろう?
手は小さく、指は短い。精一杯広げても、指の隙間からこぼれ落ちるばかりで、残るものは少ない。
雨はより強さを増し、華の上に降り注ぐ。
無音にも似た響き、蝉時雨のような雨の音。遠い潮騒のよう。細かな透明さで我彼を隔て、シャッターみたいに周囲を遮断し、自らの気配すら消してしまいたい。
消え入りそうな自分の中の呟き。
今なら、少しぐらい泣いてもわからないだろうな。
泣かないけど…。
濡れそぼっていく華を見かねたのか、アランは自分の着ていたコートを脱ぎ、華に頭からかぶせようとした。
華は、その手を止め、まっすぐ向き合う。
そう。こんなところで、泣いたりなんかしない。
そんな暇など、ないのだから。
「もう、行かなくちゃ。」




