転移
キュウ、キュウ、という今まで聞いたことのない動物らしきものの鳴き声で目を覚ました華は、頭の下に、硬いものの感触を感じて、あわてて飛び起きた。
リュックだ。
リュックの中には、大学から貸与されているパソコンが入っている。破損したりしたら、大変だ。一応、大学側が保険をかけてはいる。しかし、華は部屋のベランダから飛び降りていた。その場合、事故ではなく、故意だとみなされるかもしれない。そうなったら弁償ものだ。
半分腕からずり落ちそうになっていたリュックを地面におろすと、ファスナーを開け、何よりもまず、壊れては困るパソコンとスマホを取り出す。先に、包んでいたタオルを払いのけ、ノートパソコンを開く。画面は割れておらず、とりあえず起動した。
華はホッとして、思わずパソコンを胸に抱いた。よかった。弁償は免れそうだ。
それから改めて、あたりを見回した。
さっき飛び降りたはずのベランダの手すりも、アパートも、ブロック塀も、見慣れた風景はどこにも見当たらない。
ただ、周囲には、やたらザワザワと騒がしい木々のざわめきと、足元にまとわりつくように葉先を伸ばしてくる草々。そして、姿の見えない生き物たちの鳴き声。
空気が、心なしか重い。時々そよぐ風さえ、どこか粘つく感じがする。
「ここ、どこ?」
急に不安が押し寄せ、きゅっと心臓をつかんだ。
理解したくはないが、なんとなく予感はしていた。ここは、真夜中の玄関前に広がっていた世界だ。アパートのドアスコープからは見えないのに、どういうわけか、ドアを開くと存在した景色。
ただの草地なら、同じ場所とは断定できない。けれども、朝、玄関で見たときと同じテントが、少し離れたところに存在していた。そのくせ、振り返ってみても、アパートはどこにも見当たらない。
周りの草が、時々、華の形を確かめるように、ツンツン、と身体をつついてくる。イソギンチャクみたいだ。つついてみては、離れる。つついてみては、離れる。その繰り返し。
害はない…のかな?
よくわからない。でも、なんだか気持ち悪い。
華は、パソコンをタオルで包み直し、リュックに入れ直した。スマホの液晶に浮かぶ文字時計が、アパートから出ようとしていた時間から、それほどたっていないことを示している。
思ったよりも短い時間でここに来た?この時間ならまだ、急げば充分間に合うはず。ここがあのアパートの前ならば、だけど…。
マップを開いて、現在地を確認しようとする。しかし、どういうわけかネットにつながらない。
圏外。
あり得ない画面の二文字。今現在華がいる場所が、アパート周辺でないことを示しているのか?
「まあまあまあまあ。」
いきなり女の声がして、華は身体をびくつかせた。
少し離れたところに設置されていたテントから、いつのまにか女が出てきていたのだ。
昨晩の女だ。
女はいかにも営業用、な感じの笑み。昨日と同じ、黒いマキシ丈のワンピース、黒いバッグといった、黒ずくめの魔女のような姿で、ゆっくりこちらに近づいてくる。華と違って、朝っぱらからメイクもばっちりだ。よくこんな草地の上を、あのピンヒールで歩けるものだ。
華はスマホをポケットにしまい、急いでリュックを背中に背負い直すと立ち上がった。
周囲には、彼女以外誰もいないようだ。一人であのテントに泊まっていたのか。とりあえず、ここがどこか話を聞かないと。
声をかけようと思って女に近づこうとした華の機先を制するように、女のほうが先に話しかけてきた。
「まあまあ、ようこそおいでませ、魔境王様。私、クラーラ・オルヴァですわ。直にお会いできて私本当に光栄、で、え、えええっ?!」
クラーラ・オルヴァと名乗った女の満面の笑みが、言葉途中で急に凍りつく。
「嘘!なんで?どういうこと?」
表情だけでなく、口調までもがガラリと変わった。
「ちょっと待って。どういうことなの?」
どういうわけか、急にクラーラはあわて始めた。華の姿を見て、明らかに困惑しているようだ。しかし、華はそんな空気をあえて無視し、自分の聞きたいことだけを聞くことにした。
「すみません、ここはどこですか?」
「女なの?ねえちょっと、あなた、嘘でしょ、嘘だと言って!男なの?女なの?」
どうやら華のことを、男だと思っていたらしい。
確かに、シャツにジーンズ、リュック姿は、遠目に男性に見えないこともない。夜中もパジャマ代わりのジャージ姿だった。それが誤解を招いたのだろうか?でも、そんな格好、誰だってする。そういえば、どういうわけか昨夜も、美女が選び放題とか妙なことを言っていた気がする。
しかし、華の髪は長いし、ささやかだが胸だってある。身体つきだって、ほっそりしている。顔だって女顔といっていい。いくら化粧をしてないすっぴんだからといって、こんなに盛大に間違えるだろうか。
「まさか!ない、ないわ、ありえない!魔境王は男のはずなんじゃ。だって、今までの魔境王は全部、男だったのよ。私の手順だって、間違ってなかったはず。そうよ。でも、なんで?なんでなんで?!」
クラーラはいきなり手を伸ばし、ぺたぺたと無遠慮に華の身体を触り始めた。
「なにするの!勝手に触らないで。」
華は、身体をよじり、相手の手をはねのけた。その反応は当然だ。知らない女に胸やお尻を触られて喜ぶような趣味は持っていない。知っている人だって、こんな風に触られたら不快に思うだろう。
クラーラは自分の両手を見つめ、華を上から下までジロジロと品定めするように見る。その顔が、信じられない、信じたくないと語っている。
いったいどういうことなんだろう?そもそもの彼女側の前提が間違っていたのか。おかしな真夜中の訪問自体が、訪ねる先を誤っていたのだとしたら…。
「やっぱりあなた、部屋を間違えていたのね。おかしいと思っていたのよ。お隣か、前に住んでいた人を訪ねてきたんじゃないの?」
「そんな、そんなわけない…。間違える要素なんてどこにも…。」
「それより、ここはどこなんですか?アパートはどっち?急いで行かないと、私、学校に遅刻しそうで。」
「いったい何がどうして?機械の不具合?」
その時急に、パタパタという音と共に黒いかたまりが、視界をよぎっていった。どういうわけか、二人を遠巻きに観察するように、何かが飛んでいる。
黒い鳥、蝙蝠?
でもあれ、歯車やレンズがついていて…。生き物じゃ、ない?
女のほうも、それに気付いたらしい。あからさまに舌打ちしながら、華に向かってこう言い捨てた。
「ち、見つかったかしら。まずいわね。あんまり騒ぐから。」
「はあ!?」
これには思わず華もカチンときた。騒いでいたのは自分ではない。彼女のほうだ。それも自分の勝手な思い込みで、華を一方的に咎めるような態度で。
なんて自分勝手な!
しかし、そんな感情を前面に出すことよりも先に、今はやらなくてはならないことがある。
「ここはいったいどこなの?私、とっても急いでいるの。あなたの勝手な思い込みに付き合っている暇はないの。」
そんな華の言葉には一切とりあわず、ムスッとした表情でクラーラはテントの方へと向かう。華は、重ねて言う。
「急いで行かなきゃ授業に間に合わないの。お願いだから、道を教えてちょうだい。」
クラーラは華の訴えに全く耳を貸す気はないようだ。早足でテントにたどりつくと、入口にかかっていた布をバッと勢いよく払いよけた。中が丸見えだ。テント内は、外からみるよりずっと広く、普通にそこでしばらく暮らしていけそうなくらいの家財道具が広げられていた。野宿というには、贅沢すぎる仕様だ。
これだけの物、いったいどこから持ってきたのだろう?周囲には、荷物を運ぶためのカートや車のたぐいも見当たらない。
華のお願いに知らんふりしたままクラーラは、黒いハンドバッグの口金をパチリと開けるやいなや、テント内にあった荷物を、大きさの大小にかかわらず、ぽんぽんと勢いよく放り込みはじめた。
ポット、カップ、皿、クッション、ベッド、椅子、机、本…。
中には、明らかに重そうで片手で持ち上げられそうにないものもあったが、クラーラが触れたまま、グイっと引っ張るようにすると、物のほうが勝手にハンドバッグに吸い込まれていく。
どうなってるの?
明らかに壊れやすいと思われる陶磁器のカップや皿をあんな風に放り込んで。バッグの中で音一つしないってことは、ぶつかったり、壊れる心配などしていないってこと?いやいやいやいや。それ以前に、入れ物と放り込むものの大きさがおかしすぎるでしょう。いったいどういう構造になっているの、そのかばん?
考え始めると、頭がおかしくなりそうだ。
非常識すぎる。だめ。そういったことにとらわれては余計なことは考えちゃダメ。自分のことを考えないと。他人の事情なんて知らないし、おかしなことにも目をつぶる。どうでもいいことに時間を割いちゃだめ。最優先で考えなくてはならないこと、それだけに専念しないと。
「ちょっと、私の話、聞こえてるでしょ?私は、急いで大学へ向かわないといけないの。さっきの場所、元の場所でいいわ。もどりたいのよ。どっちへ向かえばもどれるの?」
「私には無理。」
「え?」
酷く短く、冷たい答えだった。
瞬く間に、テントと荷物はハンドバッグの中に吸い込まれていった。そこにテントが設置されていたことが、嘘みたいだ。
「なんで無理なの?あなたいったい、何をしたの?無理ってどういうこと?夜中にあなたが来てから、全部おかしくなったのよ。これ、全部あなたのせいなの?ちゃんとわかるように説明して!」
全部の荷物が消えると、クラーラはハンドバッグの口金を一旦パチリと閉じた。それから、再びその口金を開け直す。その開いた口金の中に、手をグイっと突っ込むと、今度は中から、何やら真っ黒い大きな布の塊を出してきた。
取りだした布を両手でバサッと軽く振ると、クラーラは、何の断りもなく華の身体にその黒い布をかけた。布の塊は、華の身体がすっぽりと覆われるほど丈の長い、フード付きマントだった。クラーラの持ち物らしく、彼女と同じ香水の匂いがする。
「何するの!」
「ほら、フードもかぶってちょうだい。顔が見えないようにしないと。」
「やめてよ。勝手なこと、しないで。」
華は、かけられたマントを脱ごうともがいた。
「わがまま言わないで。このままここにいるとまずいの。下手するとあなた、命を落とすわよ。」
「なんでそうなるのよ!私はもどりたいだけだって、言ってるでしょ?それのどこがわがまま?!」
「いいから、言うとおりにしてちょうだい。急いでるんだから。」
クラーラは腰帯に、細い銀の鎖でストラップのようにぶら下げていた小さな棒に手を伸ばした。彼女の指先が触れると、どういう仕組みになっているのか、するりと銀の鎖から棒が外れ、手におさまる。木製らしい棒は、指揮棒を太くしたような形をしていて、杖のように見えた。その杖のようなもので、同じように鎖で帯にぶら下げていた、文庫本くらいの大きさの本を軽く叩く。
「ブック。」
叩かれた本は、杖と同じように鎖からするっと離れると、やがてふわりと空中に浮かんだ。その状態でぽんっとはじかれたように形を変え、ちょっとした厚めの単行本くらいな大きさになった。
茶色い革表装の本は、表紙の真ん中あたりにベルトがかけられている。ベルトには、小さな銀色の鍵がついていた。秘密の日記帳みたいに。
その本を再び、女が杖で軽く叩く。
「開け。」
小さな銀色の鍵が、カチリと硬質な音をたてた。本は宙に浮かんだまま、扉を開くように表紙を開く。
その様子に目を奪われた華は、ただただ無言で目の前の本を見つめていた。
「さあ、おとなしくついてきてちょうだい。」
クラーラはそう言うと、華の腕を片手でむんずとつかんだ。
「痛い、離して!」
華の言葉に、相手が力をゆるめることはなかった。彼女の長い爪先が、皮膚に食い込む。クラーラはかまわず、再び杖で本を叩く。
「検索、転移。」
本のページが風もないのにぱたぱたとめくられ、インクで複雑に描かれた記号図のページでピタリと動きを止める。
「目的地、第89番転移門。」
途端、本のページに描かれた記号の羅列が、青い焔のようなぼんやりとした輝きと共に、一本の絹のリボンのようになだらかな列をなしてページ上から浮き上がり、ぐるぐると二人の周囲を取り巻き、回り始めた。
すると、その青色の道筋の消えぬうちから、二人の身体の足元の線がぼんやりと地面との境界を曖昧にし、金色の粒子が煙のようにもわもわとたちのぼり始める。
最初はゆっくり、じきに加速度がついたように急速に。
そして、華は唐突に事態を察知した。
自分の身体。自分を構成するものたち。
皮膚が、肉が、髪が、爪が。様々に線を描き、面をなし、身体を形作るものたち。そういったものの全てが、少しずつ、少しずつ、形を変え、空気に混じるように、欠片の最小単位を目指すように、金色の粒々に変容していくのを。
その一粒一粒の欠片。
それらは全て華そのもの。華の体温そのままだった。一見、強い風のひと吹きで消し去られそうでいながら、しっかりと存在する欠片たち。けぶるように儚く、もろいようで頑丈、ほんのりとした湿り気を持ち、華という命をくるむものたち。
華の胸は騒がしいドラムのようにはずみ、崩れゆき、おぼろげになっていく自分の姿に、不安と同時に高揚を覚える。欠片たちは、どこかよくわからない空間を目指しているようだ。金のもやのような存在となって、形あるものでは到達できない、ありえない素早さで、風に溶けるように移動するのだ。金色の光の速さ、生き物の目にとまらないあり様で、時も場も無視して、指定された場所へと。
そこに、華の意志は全く無い。分解され、空気に溶け込むように消えていく身体。抵抗することもできぬまま、身動き一つとれず、華はただ、呆然と見ていることしかできなかった。そうして、ただただ、波に押し出され、意図せぬ場所へ打ち上げられるだけのように不安定なまま、やがてその場から消えた。