チョコレート
こちらの世界には、チョコレートはないのだろうか?でも、相手は百年眠っていたようなことをさらっと言うような人だ。もしかしたら、知らないだけかもしれない。
華は、ポケットに突っこんだまま忘れてしまっていた銀紙の包みを取り出した。
「これがチョコレートなんだけど、知らない?甘くておいしいの。」
「む、ちょこれーとなるものは、匂いだけでなく、甘くておいしいものなのか?」
彼は華の差し出した銀紙に鼻を近づけ、匂いを嗅いだ。
「うむ、なんとも面妖な匂いだ。嗅いだ事のない香りがする。」
「そう。こちらの世界には、ないのかしらね。これは、私がいた世界から持ってきたものだから。」
「なんと、そうなのか。」
興味深げに男は、さらにスンスンと匂いを嗅ぐ。
「どんな味がするのだ?」
その表情は、どう見ても目の前のものに興味津々といった感じだ。華は、これを食べたいのだなと思ったが、わざとそれにふれないことにした。うまくいくかはわからないが、ちょっと思いついたことがあったのだ。
「色は茶色いのよ。茶色くて、艶々としていて、きれいなの。味は甘くって、ほんの少しほろ苦くて、食べるととっても幸せな気分になるの。
一欠片、口の中にいれると、身体の熱でそれはもう、とろとろになって、甘さが口いっぱいに溶け出していくわ。世界中で一番おいしいお菓子かもしれないわね。
あなたが知らないってことは、こちらの世界にはチョコレートはないのかしら?まあ、あったとしても、これは私と一緒にこちらの世界に来たのだから、同じものはないわね。
今、ここにある、これだけで全部だわ。だったら、これはとっても貴重な食べ物ね。大事に大事にしないと。」
そう言って、華はチョコレートを再び寝巻のポケットの中に突っ込もうとした。
「む、待つがいい。もう少し、我にその匂いをかがせるのだ。それは、本当においしそうな匂いがするのだ。」
「え、でも、契約のことを考えないといけないし。」
「む、契約?ああ、そうであったな、契約。」
そう言いながらも、相手の視線は華の持つ銀紙に釘付けだ。なんだかちょっと、子供みたいな人だな、と華は思う。だが、なかなか自分からチョコレートを食べたいとは言いださない。華が言ってくれるのを待っているのかもしれない。
「もう、しまってもいい?とても貴重なものだから、なくさないように、大事に取っておかないと。」
華にとって、チョコレートが大切なものであるのは本当だ。すでに華の持ち物はこれ以外、何もない。リュックは、あの部屋に置きっぱなしでさらわれたのだ。
「むむ、しかし、まだ我は中を見ていないぞ。その、茶色い艶々とやらを見ていない。艶々とは、どんな具合なのだ。」
華は、片手を男にずっと預けたままだったので、一旦、チョコレートを膝の上にのせた。そして、あいているもう片方の手だけで、ゆっくり、そっと銀紙を押し開いてみせた。
ここに来るまでの間、ずっと華のポケットに入ったままだったチョコレートは、華と一緒に森で散々転がったり滑ったりしたため、板の状態を保ってはおらず、ばっきばきに折れていた。
それでも、チョコレートはチョコレートだ。折れてはいたが、ちゃんと四角く整形された形までは崩れていない。見てくれは多少悪くなってしまっていたが、まだ原形を保っていた。一粒一粒に刻印されたロゴも鮮明だ。特別な感じがする。
華は、はじのほうの小さな欠片をぽいっ、と自分の口の中に入れてみせた。
途端に口の中一杯に広がるチョコレートの香り。
「うん、おいしい。甘くて、少し苦くて、やっぱり甘くて。」
「むう、甘いのか。おいしいのか。」
「ええ、おいしい。口の中で、ほろほろと溶けるの。」
そう言いながら、広げた銀紙を片手で包み直そうとした。
「待て。待て。それ、我も、我にも。」
「え?何?」
「むう、我もだ。我も口にそれを。」
彼は口をあけたまま、チョコレートを指さす。
「食べたいの?」
「む、うむ。そうだ。我も食べたい。」
「うーん、仕方ないなぁ。じゃあ、ほんの欠片だけだよ。特別だからね。いい?」
「うむ、それでよい。」
華は、割れていたほんの小さな一つの欠片を選ぶと、彼の開いた口の中に入れてやった。
「むぅぅ。な、なんと、これは…。」
男は、唸った。
「なんと、甘い、苦い、甘い、甘い、おいしい。」
どうやら、初めて口にしたチョコレートをとても気に入ってくれたようだ。
「ぬぅぅぅ。なあ、もう一つ。もう一つくれ。あれではすぐになくなってしまう。小さすぎる。のう、のう、もう一つじゃ。」
彼はせがんできた。
「うーん、もう一つ?でも、この世界にこれっきりしかないのよ。」
華は、少しもったいぶってみせた。
「むぅぅ。だが、もう、ほんの一つでよいのだ。もう一つ、ぽいっと。」
「そうねぇ。」
片手を頬にあて、華は少しばかり考えるポーズをした。
華のたった一つきりしかない財産。いざというときのために、いつもリュックの中に一つ忍ばせておいたチョコレート。
思っていた。今こそ、その、いざという時だ。
「一つ、お願いを聞いてくれるなら、あなたにこれをあげてもいいわ。」
「む、なんだ、お願いとは。」
お願いという華の言葉に、ちょっとばかり男は警戒したようだった。
「このチョコレートは、さっきも言った通り、私と一緒にこの世界に来たの。だから、この世にこれっきりしかない。さっき、契約の話が出たでしょ?あなたが私と契約してくれるなら、私、このチョコレートをあなたにあげてもいいわ。」
「む、我と、契約?」
「そう。」
「あやつとは契約せぬのか?」
「あなたと契約することはできないの?」
「いや、できるぞ。できるが、我と契約?」
男は、華の持つチョコレートと華の顔を交互に見た。やはりチョコレートの効果は大きかったのか、彼はそれが気になって仕方がないようだ。だが、契約にはためらいがあるのか、彼は即答してくれない。
「私ね、この世界に連れてこられて、散々な目にあった。声を奪われ、子供の姿になっちゃって、おまけに死にかけで、さらわれた上に捨てられた。
でも、あなた達が助けてくれた。本当は私、他の人と契約しなくちゃいけないらしいんだけれど、その人達のことを全然信用できなかった。いやなことも色々あったものだから、契約しろと言われても断っちゃった。
もっとも、その時には声が出なくなっていたから、どうせ契約できなかったのだけれどね。契約がどんな効果をもたらすのか、私にはまだよくわからないのだけれど、しなくちゃいけないものなら、私は信頼できる人と契約したいと思う。自分の命がかかっているとはいえ、信頼できない人と契約するのはいやだから。
命を助けてもらっただけでもありがたいのに、恩人に対してこんなこと頼むのは本当にあつかましいと思う。私にできるお礼といっても、私が持っているのは、このチョコレート一つだけしかない。だから、私は契約する相手に、お礼の意味をこめてプレゼントしようと思うの。」
「ふむ…。」
男はしばらく考えているようだった。とはいっても、その間も華の顔とチョコレートを交互にちらちらと見ていたのだが。
「む、我は今まで、誰とも契約をしたことがない。まあ、もっとも、ここに来れたのはあやつだけだったから、人の顔を見るのも久しぶりなのだが。」
「嫌なら、断ってくれていいわ。それは、仕方がないことだと思うから。」
「むう、そうは言っておらぬ。ただ、我は今まで誰とも契約したことがなかったので、少しとまどっておるのだ。考えたこともなかった。そんな風に言われたことがなかったのでな。」
なんだか表情にはあまり出ていないのだが、華の申し出が意外すぎて驚いていたようだ。チョコレートも気になっていたのだろうが。
「ふむ。我はかまわないぞ。」
「本当?」
「ただし、我と契約したことで、そなたは我の影響をもろに受けることになることを覚えておけ。」
「影響って、どんな?」
「む、わからぬ。我は、この世界において、ただ一つきりの存在である。どのような影響があるか、我にもわからぬのだ。我は偉大なもの。よってはかりしれぬ。我はカーデュエルの森と山の主。そなたは心せねばならぬ。」
それは、警告に聞こえた。彼は、親切に教えてくれているのだ。華が契約しようとしている相手は、人間ではない。一方は明らかに獣だし、彼も人型をとってはいるけれど何だか得体が知れないのも確かだ。
でも…、と華は思う。
人間が何をしたか、華は忘れていない。彼らは華を傷つけ、殺そうとした。助けてくれたのは、目の前にいる二人だ。確かに相手は人間ではない。おまけに二人とも初対面だ。だが、今の華にとっては人間よりもよほど信頼できた。
だいたい彼らは、華を助ける義理なんてなかった。すでに死にかけていた華など、あのまま放っておいてもよかったのである。見ないふりをして放っておいたら、華は間違いなく、すぐに獣たちの餌になっていたことだろう。弱った生き物など、淘汰されて当り前なのだから。
でも、そこをわざわざ拾ってくれて、助けてくれた。翡翠色の獣は、そのために百年も眠っていたという森と山の主を起こしてくれた。それだけではない、華を生かすために契約までしてくれるというのだ。
彼らが華を助けたところで、何の利益も得られるわけではない。チョコレート一つですむなら安いものだ。むしろ、この世界で魔力を持たない最弱の生き物は、彼らのお荷物でしかない。華は、彼らとの契約なしでは生きていけない弱い生き物なのだ。そのような面倒な相手に、わざわざ彼らは手を差し伸べてくれている。
「さあ、選ぶがいい。我はすでにそやつにそなたを助けると約束をしておる。我にその約束は破れない。
そして、その約束が果たせるか否かは、そなた次第だ。我は約束を果たさねばならない義務があるが、そなたが断りをいれれば、我にその義務はなくなる。」
生きるべきか、死ぬべきか。
どこかで聞いたようなセリフだ。
もしかしたら、契約することによって、自分は別の生き物になってしまうかもしれない。彼の親切な警告を無視してはならない。華はここで、覚悟を決めなくてはいけないのだ。
華が契約と聞いて、目の前の相手をまきこもうとしたことには、理由があった。それは男が華に「治癒の力を持っていても、自分の魔力以上のものは治せない。」というようなことを話したからだ。
つまり、最初に契約しないかと勧められた獣より、彼のほうが明らかに魔力量が多いということに気付いていたのだ。すでにクラーラの話で、貴族であっても魔力が少ないと馬鹿にされるというのを聞いていた。契約するなら、相手の魔力は多いほうがいいに決まっている。
華は現在、この世界で最弱の生き物だ。そして、この世界には人以外にも魔力を持つものがいる。ここに、華がいた世界の理屈は通用しない。ここにはここの、理というものがある。
ならば自分は、それを求めよう。
もう、元の世界にはもどれないのだ。この世界で生き抜くために必要なものを身につけなくてはならない。もう二度と、あんな目にはあいたくない。
だったら、答えは一つしかない。華は頭を下げた。
「お願いします。私と契約してください。」




