黒い森
森の中はうす暗く、草も木も、黒く見えた。前を見ても、後ろを見ても、景色は変わらない。
こんな景色を、どこかで見たことがある。いつか見た、美術の本に載っていた絵。あれは、そう、ヴォッティチェリの『春』。
ここと同じように、黒い草、黒い木々。あの絵から、描かれている人物という人物を排除すれば、このような森に見える。
けれどもあの絵には、うす衣をまとう女神たち、そんな女神たちにそっぽを向き、頭上の雲をカドゥケウスでかき混ぜるヘルメス、フローラからこぼれ落ちる色とりどりの花。暗い森の中にいる登場人物は光の中におり、木々のずっと遠い向こう側には青い空が見える。
そんな光を感じられる絵と違い、この暗い森は、空を忘れてしまったかのように光に乏しく、生き物が見当たらない。一見すると、死んだ森のようにも思える。
しかし、華の感覚が、違う、と主張していた。
死んではいない。かすかに、かそけきものの気配がする。
視線を感じる。こちらからは見えないだけ。
草叢に、枝々の葉末に、得体の知れないものが隠れている。息を凝らし、固唾を飲んでこちらを伺っている。自分の足で生きている生き物達の、その曇りなき眼で、見ているのだ。
華が暗い森に恐怖を感じているように、森もまた、相容れない、そこにふさわしくないものを凝視している。華が搾取するものか、それとも搾取されるものかをはかっている。
黒く暗い森で、ゆらゆらと水の中でゆらめいているような動きをする黒い草。その草よりさらに低い位置で、うね、うね、とぎこちない動きをする下草。
かさかさっ、というかすかな羽音に驚いて、華は座り込んでいた木の根元を見た。
根元には、大きめなアロエに似た黒い植物があり、棘のついた長い葉をゆらゆら揺らしている。一番上の真ん中あたりに、毒々しい赤色の葉が花のようになっていて、そこに何かがいた。
黒い草に擬態するようにして、黒っぽいカマキリに似た虫が、その両腕に小さな蝶のようなものを抱え込み、命のやり取りをしている。
華は咄嗟に手足を引っこめた。
ぱっと見ただけではわからないところに、得体のしれないものがいる。こんな小さな虫が、華を襲うとは思わない。けれども、目の前で起こっている捕食が、生々しい。
これが、ここの日常風景なのだ。その規模が、大きいか小さいかの違いがあるだけ。
でも、見たくない。聞きたくない。触れたくない。気づきなくない。怖い…。
華だって子供の頃は、虫をそれほど怖がるようなことはなかった。
蜻蛉だって、蝶だって、蝉だって、平気でつかんでいた。けれども、大きくなるにつれ、それは気持ち悪いものに変化していった。同じものを、同じ目で見ているはずなのに、こちらの抱く感情のほうが変わってしまった。
どうしてなのだろう?
虫に何か変化があったわけじゃなかった。急に進化して手に負えないほど大きくなったり、毒をはくものになるわけでもなかった。それらは、子供の頃も今も変わらず同じような形で、季節ごとに姿を現しては、またいつのまにかいなくなってしまうもの。
大きく変わってしまったのは、華のほうだった。身体が大きくなった。いろいろな知識も増えた。たくさんのことを知り、覚えた。
知ることで、怖くなったのだ。余計な知恵がついた。自分のことわりの通用しないものがいることに気付いた。得体の知れないものは、気味が悪いと思うようになってしまった。
理解できないからだ。
子供は怖いもの知らずだ。失敗したあとのことを考えない。考えなしで無頓着だ。
今の華は、身体は子供だが中身は違う。
だから、怖がっている。得体の知れないものに対して、恐怖している。
さっきまで、あの人たちの言いなりになるくらいなら、死んでもかまわない。死ぬことだって平気だと思っていたのに。
それなのに…。
わけもわからず、ただ、ここは怖いと感じてしまう。
逃げたい。
けれども、身体は思うように動かない。
動け、身体、動け、私の身体。
華は自分に言い聞かせる。そして、芋虫みたいに、ずる、ずる、と身体を引きずるようにして、地面を這いはじめた。
手を伸ばし、少しでも怖いものから逃げるように。
でも、右を見ても左を見ても、どこもかしこも同じ景色に見える。どこに向かって行けばいいのだろう?
ここが、私の墓場になる?動物達に生きたまま、はらわたを食いちぎられてしまう?見るも無残に食い散らかされた後、白骨をさらし、雨に洗われ、全く知らぬ土に同化していく?
華の頭の中を、そんな無残な結末だけがよぎる。その考えが華をあせらせ、あわてさせる。力の入らない身体、熱でぼんやりとする頭、動きの鈍さは一目瞭然。自分を守るための武器一つ持っていない。丸腰だ。今の華は、ここの生き物にとって格好の獲物でしかない。
そんな華の様子をどこからか見ていたのか、黒い木々の間から身体を伸ばしてきたものがいる。
それらは急に現れた。影のように音もなく。
黒い枝の隙間から、女の顔が、ぬっと現れる。
木が、歪に曲がりくねった枝を風のように消し、代わりに人の形を現したのだ。緑色の長い髪、目は黒々としていて、人のような白目の部分がない。
姿かたちは確かに人に似ている。しかし、目の前で黒い木の幹が人型に変身していくのを見たいたのだから、あれは人ではない。
華は、本で読んだ話を思い出す。
夜になると、木が女の姿になる話だ。見た目も、触れた感触も、本当に人間にしか思えない。なんなら交わることだってできる。けれども、その女をそこから連れて行こうとすると、たちまち根が生え、元の木の姿に戻ってしまうという、不思議な話。
荒い呼吸と、身体がずりずりと枯葉を引きずる音を聞きながら、華は本で見たり、読んだ話ばかり思い出している自分に苦笑いする。
なんというか、もう、笑うしかないのだ。
黒い森、変身する木、隠れている獣の気配、死の予感。
それなのに、思い出すのは、生きるために役立つことではなく、必要のない知識ばかり。華の役立たずな頭は、こんなことばかり覚えている。これは自分が昔、母親の言いなりで、そこから逃げるように本ばかり読んで、現実とちっとも向き合わなかったことの報いなのか。
でも、生きることに必要な知識って、何?
どうやったら、生きて呼吸していくのに必要なことが身につくの?今すぐ知りたい。この動かない身体をどうにかして、まとわりつく全てのものを蹴散らしてしまいたい。
けれども、溶けた身体は元に戻らなかった。元の場所に戻ることもできなかった。声は出ず、叫び声一つあげられない。熱っぽい身体は石みたいに重く、前に進むことすらままならない。
そんな華の葛藤などおかまいなしに、そこいらじゅうにある木という木が、次々と変身していく。人型になったものたちが、その底の知れない黒々とした目を華に向けるや、ヒョイ、とろくろっ首のように身体を伸ばしてきては華の前に回り込み、代わる代わる顔を覗き込んでくる。
その目は瞬きを知らず、スイカの種みたいに艶々している。彼女たちは、何か華に声をかけているようだ。さざめきのような話し声が、右から左から、入れ代わり立ち代わり、ステレオ放送のように聞こえてくる。
けれども華には、彼女たちの言葉もまた、さっぱりわからない。
いや、たとえ理解できたとしても、声を奪われたままの華には、何も答えることはできない。
行く先を邪魔され、前に進めない。子供の姿の短い腕では、払いのけることすらできないのだ。
華は顔を上げ、空を仰ぐ。
空は遠く、黒い木々の隙間からは、どんよりとした灰色の雲の欠片がわずかに覗くだけ。
願い事をしたくても、星の一つも見えやしない。
悔しくて泣きたくて情けなくて、華は唇を噛みしめる。
そんな華をあざ笑うように、木々から顔をのぞかせては、こちらをからかうように行く手を邪魔する、人の姿に変身するものたち。
華の情けない顔を見ては、クスクス笑い、さざめく。
死にかけている華の姿は、彼女たちにはさぞ、滑稽に見えるのだろう。
立ち上がって歩く力もなく、もがき苦しみながら地べたを這いずり廻る姿は、まるで芋虫のようだ。
真っ白だった寝巻きは、泥にまみれ、蓑虫みたいに枯葉やゴミをまとわりつかせている。
華は、地面をズリズリと、小さな手に土くれを握りながら足掻く。他にどうしようもないのだ。鬱陶しいほどにまとわりつく彼女たちの顔。小さな身体で睨みつけることしかできない華。
その時ふと、何かに気がついたように急に、笑い声をあげていた彼女たちの動きが一斉に停止した。
彼女たちは、華の進行方向を向き、見たものに対して、何か恐れを抱き、かしこまるようにうなだれた。そして、次々に華の後ろへと後ずさっていき、また元の固い身体、木の姿へと戻っていく。
華は何事かと思い、かすみそうになる目をこらし、精一杯顔を起こして前を見た。
ずっと先の方に、翡翠色した生き物がいた。
あれは、鹿?馬?それとも?
馬ほど大きくはない。顔は、鹿のように思えた。けれども、鹿とは角の形が全く違う。一本の鋭いドリルのような角が、誇らしげに天を向いている。おまけに、狐のようにふさふさとした尻尾が、何本かついている。
麒麟?
知っている生き物に当てはめるなら、想像上の生き物ではあるが、麒麟と呼ぶのがぴったりな気がした。馬でもなく、鹿でもなく、そういった生き物に似た何か、としか言いようがないものなので、麒麟ぐらしか当てはめられるものがない。
その生き物は、少し離れたあたりから華の姿を確認すると、その背中から何か細い棒みたいなものを突き出し始めた。
それは、するすると背丈を伸ばしていく。まるでアンテナを伸ばしているみたいだ。その棒は、ところどころで枝分かれしはじめた。
棒じゃない、あれは、木だ。
生き物の背に、木が生えてきた?!
自分の背丈と同じくらいの高さに木を伸ばすと、背中に生えた木の成長は止まり、今度はその枝先に葉をつけはじめた。一通り、若木らしい成長をとげると、木は華に向かってお辞儀をするように幹を曲げ、まるで懐から何かを取り出すようなしぐさで、大きな丸いものを出現させた。
日輪?いいえ、あれは、鏡…、丸い、鏡…。
似てる。春日大社の神様の使い、鹿の神使の像に似ている。
その神々しさ、美しさ。知らず、涙が一筋、こぼれ落ちる。
黒い、森、怖い、森、黒い森、怖い森…。
ううん、違う。
黒い、確かに黒い。けれど、違う。
ここは、黒い森。だけど、こんなにお花が咲いている。
その形は、華の知っているものとは似ても似つかない。けれど、色は…。
サフラン色、サーモンピンク、コーンフラワーの青、水仙の黄、マグノリアの白、ブルーベル、ラヴェンダー、菖蒲の紫、鈴蘭の白、彼岸花の赤、そして、薔薇色…色とりどり。
この森は、この世界は、こんなに美しい色であふれているのだ。
向かい風が、ザザッと吹きすさび、華の枯葉まみれの髪をなびかせる。
思えば、いつも向かい風だ。順風満帆だったことなど、一度もない。
でも、波打つ心臓。
私はまだ、生きている。
あの鹿は、神の使い。そんなものがいる森が、怖い森であるはずがない。
あれは、自分を迎えに来てくれたのだろうか?この、終わりかけのちっぽけな命を哀れんで。
ならば私は、かわいそうではないのだろう。あんなにも美しいものに出会えたのだから。
華は、思わず泥だらけの手を伸ばす。
声の出ない華は、頭の中で唱えた。出てきた言葉は、祝詞に似ていた。
「祓いたまえ、清めたまえ。
魔を祓い、神を宿す鏡よ。願わくば、我を導きたまわんことを。」
するといきなり鏡は光を帯び、輝きだした。
それは、華の目をくらませ、奥まで焼きつくさんばかりの輝き。発光は、とどまるところを知らず、眩しさで周囲を包みはじめる。そして、ついには闇という闇を全て併呑し、影を消し去り、光はあたり一面を強く覆い隠した。
華はそれ以上、何かを感じる余裕もないまま、まばゆいばかりの光の中にのまれていった。




