夕食
夜になって、クラーラとメイドが食事を持ってきた。
「夕食を持ってきたわ。ベッドの上でいいから、ちょっと起き上がって食べてちょうだい。」
天蓋ベッドのカーテンが容赦なく開けられ、華は仕方なく、のろのろと身体を起こした。メイドがすかさず上掛けをめくり、枕の形を整える。さらに、クッションを腰の後ろにあて、身体が冷えないようにガウンのようなものを肩にかけてくれた。
膝の上には布団がきれいに掛け直され、その上に折りたたみ式の木製の台が載せられた。ちょっとした簡易テーブルのようなものだ。そこにスープ皿と水の入ったコップ、ナプキン、銀のカトラリーが並べられる。メイドがもう一枚ナプキンを取り出し、赤ちゃんのよだれかけみたいに、華の首にまいた。完全にお子様扱いされているような気がする。
ほわん、と湯気のたつスープは、中身のないコンソメのようだ。病人に配慮して、流動食にしたのだろう。
「お腹がすいているかもしれないけれど、三日も寝ていて何も口にしていないから、最初はスープだけよ。」
そう言って、クラーラがスープをすすめてきた。
三日!
華は三日も寝ていたのかと、今更ながら気付いた。ということは、この世界に来て、まだ四日しかたっていないのか。それなのに、あちらの世界とは時間も距離もひどく遠のいて、なにもかもがはるか彼方の出来事のようだ。
華はナプキンを広げ、銀のスプーンを手にとった。
「さあ、召し上がれ。」
黄色いスープは、確かにおいしそうに見えた。けれども、華の手はスプーンを握ったまま、動かない。
「どうしたの?」
自分でもよくわからない。華は、固まっている。
「食べたくない?食欲がないのかしら。でも、ちょっとでも口にいれてもらわないと、その後、薬を飲まないといけないから。」
そう、親切そうに言われるが、華の手はいっこうに動かない。ぼんやりとした表情で、スープ皿を見ているだけだ。
「だるくて、手が動かない?なら、飲ませてあげましょうか?」
すると華は、持っていたスプーンを突然投げ出し、両手で口元を押さえた。
吐き気だ。華は何日も食事をとっていない。だから、胃は空っぽのはずだ。でも、持ってこられた夕食を見て、どういうわけか食べようという気になれなかっただけでなく、見ているだけで気持ち悪くなってしまった。
「え、ちょっと、大丈夫なの?」
クラーラは枕元を飛び退いた。先ほど枕やクッションを整えてくれたメイドがあわてた様子で傍に来て、華の背中をさすりはじめた。
むかむかする気持ち悪さに、華は何度となく嘔吐く。こみあげてくるものは、ひどく苦い。何度もつばを吐く。目尻から、知らず涙がこぼれる。鼻水が流れ、ハアハアと繰り返される苦しい呼吸。それを少しでも和らげようとする背中の手。メイドが身につけている木綿の、ガサガサという衣擦れ。
どうやら華の身体は、毒水のせいで食べ物を口に持っていくことができないようだ。周囲にいる誰一人として、信じられるものがおらず、差し出される物にも信頼がおけない。そのため、そうはっきり意識しないまでも、身体のほうが拒否反応を示してしまったようだ。
嘔吐いてもどしたものせいで、すでにスープは口にできるものではなくなっていた。華は、メイドにタオルで顔を拭かれ、用意されていた皿や簡易テーブルは下げられた。すぐにお湯の入った桶が用意され、汚れた手が清められ、顔はもう一度綺麗に拭われた。
まだ気分が悪いのだろう、これでは食事もとれそうにない。そう判断され、クラーラとメイドは部屋を出て行った。
再び華は一人にされた。
クラーラの目には、どう映ったのだろう?とても威風堂々たるべき王の姿には見えなかったに違いない。ここにいるのは、ただの弱った子供。他人の手を借りないと、何一つできない状態の。
華はうつむき、心の中で冷笑する。何が王だ。自分は王なんかじゃない。今はただの子供。何もできない子供、役立たずな子供。
夢に見た、子供の時の自分が重なる。偽物で、男でなくて女で、親に捨てられた子供。否定したくても否定しようのない事実。そんな過去を自らかなぐり捨てて、自分一人の力で自立したつもりだったのに…。
華は起き上がり、再び天蓋ベッドのカーテンを閉めようとして、急に自分の荷物のことを思い出した。あたりを見回したが、それらしいものは見当たらない。
あっちの部屋かな?
ベッドを降り、探そうと思ったが、靴がない。仕方なく、裸足のまま、ベッドルームの扉へと向かう。足元がふらつく。身体に力が入らない。磨きこまれた床の上で、ぺたぺたとした子供の足音が響く。
自分の中から流れ出していったものが何だったかなんて、今さら考えたくもなかった。どうせ消し去ってくれるのなら、あの無様な記憶を全て消してくれればよかったのに!
隣の部屋のドアを開けると、壁際だけ小さな灯りがついていた。そこは、華があの水を飲んだ部屋だ。少し薄暗かったが、あたりにあの時を思い出させるような汚れは何一つ残ってはいないように華には見えた。汚れた絨毯はまるごと持ち去られ、別の柄のものに取り換えられている。水差しは、存在自体を消し去ることにしたようで、サイドテーブルの上にはもう、何も置かれていない。
華のリュックは、机の上に置かれていた。金箔を貼られた成金趣味まるだしの机の上で、安っぽいナイロン製のリュックは、別の意味で異彩を放っている。それは、あの天蓋付きベッドの上で小さくなって眠るしかない華と同じように、落ち着かない様子で置かれている。
今の自分みたいだ。華はそう思った。
リュックを持ちあげようとして、華はその重さによろめいたあげく、あろうことか、ドスンと床に尻餅をついてしまった。身体に力が入らないことも影響しているのだろうが、それだけではない。いつもみたいに、成長した大人の感覚で動いてしまったのがいけなかったのだろう。
華は立ち上がり、リュックの肩紐を片手に一本ずつ握って、そのまま床の上を滑らせていくことにした。ズリズリと、後ろ向きでリュックを引きずっていく。床の上は、これでもかというくらいピカピカに磨きこまれているせいか、思ったよりも簡単にリュックを移動できる。華はそのままリュックをベッドルームに持ち込み、ぜいぜい言いながら、ベッドの上にやっとのせることができた。
それから、再び天蓋ベッドのカーテンを全部締め切ると、リュックの中身を全部取り出してみた。そこに入っているものが、今の華の全財産だ。
着ていた服やスニーカーは使い物にならないくらいに汚れてしまっただろうな、と華は思った。たとえ、洗濯してきれいにしてもらったとしても、サイズが決定的にあわなくなっているから使えない。あの格好は、総主教様とやらからクレームをいれられたようだったから、さっさと処分されてしまったかもしれない。
華はリュックから取り出したものを、一つずつ、真っ白なリネンの上に並べていった。
手あかで汚れた筆箱、アイロンのかかっていないハンカチ、駅前でもらった広告入りのティッシュ、景品のソーイングキット、帰ることができないアパートの部屋の鍵、空っぽの水筒、この先二度と受けられないであろう授業の教科書、一生懸命書きこんだノート、端っこがよれた絆創膏、板チョコが一枚、いつも最低限しかお金の入っていない財布、返却できそうにないパソコン、そしてスマホ…。
華は、スマホのスイッチを入れた。電源が入り、液晶が眩しく光った。その光をみるだけで、華は自分の心の中に明かりが灯ったような気になる。と思ったら、突然光が消えた。
嘘…。
なんで?なんで?
華は、あわててスイッチを入れ直した。でも、全然電源が入らない。
壊れた?充電切れ?
スマホを布団の上に放りだし、ノートパソコンの電源を入れた。こちらもまた、うんともすんともいわない。
どうして?水でもかけられた?壊れちゃったの?
華の手が、ぶるぶる震えはじめた。
充電はできない。ここには、電気製品らしいものが一つも見当たらない。魔法が使える世界なのだ。何かを動かすエネルギーの源となるもの自体が、あちらとは別のものなのだと思われた。
スマホもパソコンも、沈黙してしてしまい、ただのプラスチックと金属の板になってしまった。
真っ黒な画面。それが、まるで今の自分の状況そのものに見えてくる。
自分のルーツ、そういったものを語るものが、一つずつ失われていくような心地がして、華はざわめく心を鎮めることができない。それでなくても華はすでに、生活していた場から無理矢理離されている。こうやって、何もかもが自分から奪われ、失われていくのだろうか?そんなのたまらない。胸が張り裂けそうだ。
華は、財布の中に突っ込んであった学生証を取り出した。そして、そこに写っている学生の華をじっと見つめる。
この間までの自分、この間までの生活、この間までの当り前…。
広げていた自分の荷物を、両手でショベルカーのようにかき集め、華は抱き締めた。ガサガサとリネンがかすれた音をたて、教科書が、ノートが、水筒が、熱を持った身体にヒヤリとした一瞬の冷たさを与えながら抱かれる。声の出ない喉から、しゃくりあげる音だけが繰り出され、頬を伝う温かな涙が、ぽつり、またぽつり、と腕にこぼれる。
帰れない、帰れない、帰れない…。
もう二度と、帰れない。
ただその言葉だけが、呪いのように華の頭の中をぐるぐるとまわっていた。




