いつも通り
安物カーテンが朝の光を連れてくるころになって、華はやっと少しばかりうとうとしたらしい。ドアチャイムが再び鳴らされることはなかったし、女の声も聞こえてはこなかった。
おんぼろアパートの薄いドア一枚に、鍵とドアチェーン。それだけしかない部屋は、ひどく心もとない。
一人暮らしを寂しいとか不安だとか思ったことはなかった。毎日、大学とバイトと勉強に追われていたので、そんなことを考える余裕すらなかった。
華の目標は、一人で生きて行くこと。誰にも邪魔されないように。
そのために、誰にも後ろ指をさされない、安定した職業につきたかった。高卒で働く、という選択肢もあった。しかし、華の成績は、そのまま就職してしまうには惜しい、と周囲に思わせるものだった。華自身も、将来のことを考えて、大変でも進学すべきだと思った。親も金もない華には、一人暮らしも大学入学も高い壁だったけれども。
だが、予期せぬことはいつだって突発的に起こる。こんな時に相談できる相手はいなかった。逃げ込める場所もない。アルバイトと勉強時間を確保するために必死な華は、サークル活動もしていない。
だからこんなことが起こっても、誰にも相談できない。できる限りの戸締りをして、後はお守りのようにスマホを握り締め、布団の中で目をつむるくらいのことしかできない。
いつものように、スマホのアラームが鳴って朝を知らせてくれた時、華は少しばかりホッとしていた。 夜中の出来事が、朝の光の向こう側に、少しばかり遠のいた気がしたせいだろう。
でも、ちょっとだけ、想像しなかったわけじゃない。
もし、あの魔女みたいな女の言うことが本当だったらって。
私が王になるべく選ばれた人間で、こんな大変な生活が嘘のように消え失せるとしたら?
そうはいっても、王様になりたいわけじゃない。少しだけ、いろんなことが楽になればいいとは思う。おんぼろアパートじゃなく、もう少しましな部屋で、アルバイトの時間を毎日気にしなくてもよくて、少しばかりでもおしゃれができて、みんなのようにサークルに参加したり、買い物や旅行に行ったり…。
ほんの少しだけそう考えて、華は半笑いを浮かべる。
馬鹿みたいだ。無理に決まっている。
昔、今よりももっとずっとずっと苦しくて、きつくて、現実を全否定したかった時、本ばかり読んでいて、どれだけ夢の世界に逃げたいと願い、祈った時だって、何も起こりはしなかったというのに。
そう。何も起こらなかった。
何も変わらなかった。
誰も華を救ってはくれなかった。
町にはこれだけたくさんの人があふれているというのに。当然だ。みんな、自分の目的地に向かって歩いているだけ。まともな人間は、誰も華に関心なんか示さない。声をかけてきたものは、華を助けたいのではなくて、別のことに使いたいだけ。
現実は一つきりで、世界は今見えているところだけ。
充分思い知らされたのだ。そこから、これっぱかしも逃れられないのだと。
それが、華の見なくてはならない現実だと。
ギリ、と華は奥歯を噛み締める。
あの時華は、確かに自分で決めたのだ。
自分を助けるのは、いつだって自分だけ。自分で自分を救うしか方法はないのだと。
だから、真夜中のあれは、ただの夢。華の弱い心が見せた、夢。夢でないというのなら、インチキ詐欺師のまやかし。あの女は、華を騙しにきた悪い女。どれだけおかしなことが色々あったとしても。
釈然としないことだらけでも、華は無理やりそういうことに決め、考えることをやめる。
けれども念のため、そっとドアスコープから外を確認することはやめない。これ以上、妙なことに巻き込まれたくない。華はちゃんとした、まともな生活を送りたいし、まともでなくてはならないのだから。
覗いてみたところ、ドアの向こう側は、いつもと変わっていないように思えた。真夜中の出来事は、あとかたもなく消え去ったように見える。
華は両手を上に上げ、猫のようにうんとのびをした。身体にまとわりつく、寝不足と倦怠感を追い払うように。
それから、両手でパンッと頬を叩き、自分に活を入れる。くだらないことを考えている暇はない。華は忙しい。
だから、いつも通りの朝をはじめる。冷蔵庫から作り置きしておいた冷凍おにぎりを取り出し、電子レンジに放り込む。やかんを火にかけ、小さな流しで顔を洗う。華のいつも通りは、小さなことの積み重ねだ。
そうしていると、前に住んでいた住人から、半ば強制的に押しつけられるように引き取らされた中古のレンジが、ガーガー音を立て、がんばって働いただろ?と知らせるようにチン、と鳴った。
大学一年生の華は、朝の一限から授業がつまっている。おにぎりを頬張りながら、いつも通り、時間割りにそって教科書やノートを集める。
大学から貸与されているパソコンは、タオルで包んでリュックの背中側にいれる。教科書やノートを放り込み、沸かしたばかりの熱いお茶をつめた小さな水筒と昼食用のおにぎりをいれる。
少しばかりカビ臭い押入れは、華の布団や洋服などを全部収納しても、すかすかしている。スネが抜けて穴のあいたジーンズ、洗いすぎて色あせたシャツとパーカー。化粧はしない。いつも通りのスッピンだ。オシャレに興味がないわけじゃない。そんなことをしている余裕がないのだ。
着替えたら、歯を磨き、胸のあたりまで伸びた髪をゴムで一つにきゅっと結ぶ。そして、パソコンや本ですっかり重くなったリュックを背負う。
あとは外に出て、大学に向かうだけだ。けれども華は、玄関ドアの前で少し立ち止まった。
さっき確認したばかりだ。何もないことはわかっている。でも、ためらうのも無理はない。夢とも現実とも思えない出来事は、この一枚のドアの向こう側にあったし、華はいつも一人きりだから、なんでも一人で対処しないといけないのだ。
玄関ドアに手を伸ばし、用心深く、もう一度ドアスコープをのぞく。
大丈夫、異常無し。あれは、夢。やはり夢。
華は自分に言い聞かせるように小さく呟くと、鍵を開け、ドアをそっと開いた。
だがその途端、異変に気づく。
「嘘…。」
開いたドアの隙間から、光と共に、外の世界が顔を覗かせる。
それは、目を疑うような光景だった。
なぜなら、さっき華がドアスコープで確認した外の景色とは、全く違う様子だったから。
「どうして?なんで?」
思わず口に出して問いかけてしまうくらい、華はとまどっていた。
つまり外は、真夜中に訪問を受けた時の光景そのまま、だったのだ。
鬱蒼とした木々と、ちょっと開けた草地と蠢く草と、テントと…。
え、テント?真夜中にはなかったはずのものまで、いつのまにか増えてる!
華はドキドキする胸を片手で押さえながら、あわただしくドアを閉める。それからもう一度、ドアスコープを覗く。
見えたのは、いつもの通路、いつもの壁。
ドアスコープから覗く世界は、いつも通り?!いったい、どういうこと??
まるで、スライドでも見せられているようだ。ドアの開閉で、見える世界が変わるなんて!チャンネルを変えるように、外の景色を変えることなんて、どうやったらできるの?ドアスコープに何か細工がしてあるとか?でも、それだと玄関前の光景の説明がつかない。
全く理解できない。ありえないことが、目の前で起こっている。
おかしい。
おかしい。
おかしいおかしいおかしい。
何度見直してみても、華のいつも通りを壊す結果は変わらない。髪が逆立ち、頭の中が沸騰しそうだ。自分の目で確かめた世界を疑わなくてはならないなんて!
けれどもそれを、目で見た事実を、絶対認めたくない自分がいる。
部屋の入口が、どこか妙な場所と繋がっている?あの魔女みたいな女が真夜中に訪ねてきたから?魔境王になれって言ったから?
そんな現実、いらない。そんな現実、必要じゃない。
華に必要なのは、それじゃない。全力で断固拒否する。
華にとって大切なのは、平穏無事な、いつも通りの大学生活。
ここでの暮らしは、自分なりに努力してきて、やっと築き上げたものだ。他人から見たら、みすぼらしい生活をしていると笑われるかもしれないが、それでも、華なりの成果だ。これまでも、これからも、それを営むために必要なことを華はするだろう。それにはまず、成績優秀者に贈られる奨学金を確保できるよう、がんばらなくてはならない。
一限からある授業は、三回休むと単位がもらえない。遅刻すら、欠席とみなされる。おまけに、授業の終了間際の十分で、その日受けた授業内容をまとめて書いてその場で提出、次回の授業でそれが添削された上で返却されるという、毎回気の抜けない、スリリングな授業だ。
だから、華にとっての選択肢は一つ。
わけのわからないものにかかずりあっている暇はない。遅刻も欠席もできない。全力でいつも通りを維持する。
華は素早く気持ちを切り替えると、玄関ドアの鍵をしっかりとかけ直す。そして、部屋を突っ切って、掃き出し窓を開け、狭いベランダへと出た。ベランダの向こうは、狭い通路のようなスペースをはさんでブロック塀になっている。少し狭いが、人が通るには充分なスペースがある。幸いなことに、華の部屋は一階にある。
いける。玄関がだめなら、ベランダから出て行けばいいのだ。
きょろきょろと左右を見回す。あたりには誰もいないようだ。なるべく人には見られたくない。誰かに見られれば、いくら自分の部屋だとはいっても、通報されかねない。幸い、こちら側に異変は見られない。ブロック塀の向こう側は墓地なので、正面から見つかることはない。部屋の左右に人影が無ければ大丈夫そうだ。
ベランダでスニーカーに履き替えると、窓のカーテンをできる限り中が見えないように引っ張り、きっちりガラス窓を閉める。もちろん、そこから出入りするのだから、窓の鍵はかけられない。そこから泥棒に入られたら、部屋の中は荒らし放題だろう。もっとも、ミニマリスト並に物を持っていない華の持ち物を、欲しがる泥棒がいたとしたら、だが。
誰もいないことを再確認すると、華はベランダの手すりに手をかけた。ベランダは、コンクリートの床と金属の格子でできている。古くてあちこち錆が浮いているが、人間一人くらいの体重で壊れたりしないと思いたい。華は、鉄棒をする時の要領で、片足をかけるようにしてよじ登り、上から着地点を見定める。地面は草が生えないように、コンクリートで固められている。
思ったより、高い位置にある。飛べない距離ではないが、降りた時に衝撃がありそうだ。華は勉強はともかく、運動は得意ではない。今は、重いリュックも背負っている。下はコンクリートだ。着地に失敗してバランスを崩し、リュックの中にいれた借り物のパソコンが壊れたりするのは困る。それだけじゃない。足をくじいたりしたら、大学やバイトにも影響がでる。
華は一旦動きを停止させた。そのあたりは、用心深い。上から直接飛び降りるのはやめよう。ここからでは高すぎる。一度、この格子の反対側に移ってしまおう。そこから格子の下部に足をかけ、飛べばいい。
手順を確認すると、華は身体をひねり、足をおろしながら、そろりそろりと手すりを乗り越えて行く。ざりざりとした錆の感触が、手のひらいっぱいにぎゅっとなり、薄い皮膚を刺激する。手すり下の、縦格子。その下側に片足をしっかりかけ、反対の足もおろしていく。身体が移動し終わったら、あとは飛び降りるだけだ。
「えいっ。」
意を決して飛び降りた瞬間、地面の色が急に変わったことに気づいた。
コンクリートで固めてあったはずの地面が、一瞬にして、一面の草色に染まったのだ。
え?と思った時には、すでに遅かった。総毛立つ身体。異変はあまりにも突然だった。咄嗟のことに、華は反応できない。
足先から着地する予定が、いつのまにか身体の体勢が変わっている。驚いたせいなのか、重いリュックに引きずられたせいなのか、身体はいつのまにか仰向けになり、空を仰いでいる。
朝の光がやけにまぶしい。その光の中に、錆ついたベランダが見える。
あわてて手を伸ばし、格子につかまろうとするが、届かない。
すぐ、目の前に見えているというのに…。
ゆっくりと落ちて行く感覚。そのくせ、どういうわけか一向に地面に衝突する気配がない。
振り返って、地面のほうに目を向けると、そこは、玄関の向こう側にあった光景。あの草地。真夜中の向こう側にあった、蠢く草々。
上を向いても、下を向いても景色は一向に変わらない。
その体勢も…。
まるで、時が止まってしまったみたいだった。
重力に引きずられ、落ちて行くという当り前の感覚はある。慣れ親しんだはずの景色もまた、視線の先に変わらずある。そこへ向かって、懸命に手を伸ばしているのに、届きそうで届かないもどかしさ。
華は、必死に身体を泳がせようとする。重力に逆らい、不可能なことを可能にしようと。
不可能?可能?
それをいうなら、このあり得ない状況は、何?コンクリートの地面はどこに行ったの?
手を伸ばす。
上へ、上へ。
あそこにはまだ、華の日常がある。気持ちはせいている。
下へ、下へ。
それなのに、落ちて行くばかりの重い身体。
足をバタつかせ、見えないものを蹴るように、華は足掻いた。
けれども、そんな華の精一杯の努力を嘲笑うように、その距離は徐々に、ゆっくりと確実に、遠のいていくばかり。
そのくせ、まるで嫌がらせのように、一向に地面で背中を打つ気配がない。見せつけるように日常を配置しながら、届かないことをいやらしくあざ笑っているようだ。
耳元で、轟々と流れていく、得体の知れない時間と空間に恐怖を感じ、華は、両手で身体を抱きかかえるようにして縮こまる。小さく丸く、勾玉みたいな形になって、目をつむる。
そんな弱気を待っていたのか、華の意識はやがて、何かに飲みこまれていくように、黒く塗りつぶされていった。