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101(ワンオーワン)   作者: 叢雲弐月
101人目の魔境王
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記憶

 ぶくぶくと、泡がたつ。


 静かな水の中。


 暗い水底に沈んでいく。


 水の中にいるはずなのに、ちっとも苦しくはなく、自分から吐き出される息が、ただ、ぶく、ぶくと…。


 空からダイブするような格好で、華は泡を吐きながら落ちて行く。


 水底に、深淵に。


 なんとなく、これは夢だな、という自覚はある。不思議なことに、そのことをうっすらと自覚したまま、何かに潜るように落ちて行くのだ。


 遠い底のほうに、ぼんやりとした光が見える。落ちて行く華の目に、とある風景が見えてくる。


 華は、目を見開き、目に映ったものを見て驚く。


 あれは…。


 知っている。覚えている。あれは、昔住んでいたマンションだ。


 太陽は中天にかかっている。


 ベランダから入る風が、カーテンをゆらりと揺らす。午睡をとりたくなる、気だるい、温かな午後。


 そこに、床にぺたりと足をつけた女の子座りの、小学生の華がいる。


 少し長めのおかっぱ頭。教科書を机の上に広げ、何やらノートに熱心に書きこんでいる。宿題でもしているのか。


 不思議な気持ちだ。小さな自分が、昔住んでいた部屋にいる。


 まだ、不安らしい不安を感じたこともなく、妙な家族構成にも疑問を持っていなかった頃だ。いや、なんとなく変だと思っていても、考えないようにしていただけだったのかもしれない。それでも、表情がなんとなくおだやかで、無邪気な様子がうかがえ、子供らしい。


 そんな自分の姿を、俯瞰するように見ている。


 幼児よりは大きく、今よりはずっと小さな手。その手が鉛筆を握りしめながら、文字を書いている。落ちてくる黒髪を耳にかけ、黒目がちな澄んだ瞳は、まっすぐノートに向かっている。


 部屋の中に見える華の持ち物は、机の横に置かれたランドセルと、その中身くらい。この頃からすでに、華の私物は少ない。お人形とか、ゲームとかキャラクターもの、そういったものもない。


 どこからか、足音がしてきた。


 これは…、これは…。


 覚えていた。いや、覚えている。


 忘れていた。いや、忘れるはずもない。忘れたかっただけで。


 覚えている。忘れたつもりだったのに。


 そう。これは、忘れて無かったことにしたい、華の記憶だ。忘れてしまいたいのに、忘れることのできない、いわば、抜けない棘のようなもの。


 表面上は、何もなかったように見える。けれども、灰の中にわずかに残された熾火の様に、じわじわとした熱を持つ痛み。


 華は、未だに忘れていなかったことに絶望的な気持ちになる。


「百点…。ふうん、百点、ねぇ。」


 滅多に近づいてくることも、話しかけてくることもない男が、たたんで机に置いてあったテストを広げるなり、そう言った。


 あれは、華が小学校の四年生になったばかりの頃だったか。


 あの日、華は学校からまっすぐ帰り、リビングのコタツ兼、勉強机で宿題をやっていた。すると、部屋から出てきた男が、めずらしく華の傍に寄ってきて、そう声をかけてきたのだ。


 否、あれは声をかけてきたわけではない。ただの気まぐれ、もしくは独り言だったのだろう。次に口にした言葉を、華は今でも覚えている。


「『まあ、小学校なんて、百点とれて当り前かぁ。』」


 華の記憶にある言葉と、男の声が重なる。


 それからまもなく、男はいなくなった。ふらり、と散歩でもするような軽装で家を出て行き、二度と帰ってはこなかった。連絡も一切なかった。


 これまでそんなことは、一度もなかった。おかげで華の母親は半狂乱だった。


 母親は、男のいた部屋を隅から隅までひっくり返し、行き先の手がかりを見つけようとした。


 でも、何も見つからなかったようだ。男のほうは計画的だったのか、メモの類も残ってはいない。部屋にあったのは、男の着替え、たくさんの本、飲みかけの酒、そんなものばかり。


 警察に行き、男が事件に巻き込まれて帰ってこれないのかもしれない、と母親は騒ぎたてたが、きちんと受理してさえもらえなかった。


 男は、名前も出身も何もかもが不確かで、母親と籍をいれたわけでもなかった。写真もなかった。おまけに、滅多に外出もしない男だった。


 ちゃんとした家族でもなく、もともとの身元すらあやふやだった男は、存在すら疑われたあげく、結局のところ、自ら望んで蒸発したのだ、ということにされてしまった。


 男と母親の出会いは、最初から変だった。なにしろ母親は、彼が道端に落ちていたのを拾ったのだそうだから。


 道端に、人が、それもあんなに大きな人間が落ちていることからしておかしい。けれども、母親はそれを変だとは思わなかったのだろう。自分の住むところへ連れ帰り、以来、ずっと仕事をしながら男の生活全部の面倒を見てやり、華を産んだ。


 そんな母親が、実の娘である華に対して認めていた、たった一つの価値は、顔だった。華の顔が、その男にそっくりだったのである。


 相手の男が偽名を使い、籍もいれてくれず、自分を愛していない。それでも、自分にとって何よりも愛しい男と自分との間に生まれた子供がいる。それも、男そっくりの顔をしている。


 男が口で認めてくれなくても、愛の結晶はここにある。その証拠に、子供は男にそっくりじゃないか。それこそが、母親にとっての華の価値だった。


 母親が、男のおかしな点を全て無視して愛したのは、それら欠点を全て忘れさせてくれるほど、男が美しい顔をしていたからだ。母親にとって男の美しさは、全ての不満を帳消しにするものだったらしい。


 だから、母親は男が不実でも、華が私生児でも、傍にいてくれることでとりあえず満足していた。そして、自分が払う犠牲、男のためにつくす姿に酔ってさえいた。自分はこんなに彼につくしている、それにこんな美しい子供が生まれたのだから、そのうちきっと自分と籍を入れてくれる、そんな風に思っていたようだ。


「お前の名前は、お父様がつけてくださったのよ。」


 その話を聞くたび、華は鼻白む思いで聞いていた。


「お父様はね、お前の名前を何にしたらいいって聞いたら、私の姓が山田なんだから、花子でいいだろうって言ったの。」


 お父様!


 だが、あの男をお父様と思ったことはない。華にとってあの男は、いつだって家の中で一番大切にされ、最重要視されている働かない同居人だった。お父様などという、大仰な呼び方で呼んだこともなければ、呼ぶ機会すらなかった。


 確かに、生物学的には、華の父親だった。だが、法的には父親ではなかった。母親は結婚していなかったし、相手は華のことを認知すらしなかった。


 華にとっては、それが全てだ。


 断言できる。あの男は、華に関心などこれっぱかしも持っていなかった。もし、華が男だったら、きっと太郎がいいと言ったに違いない。その程度の認識なのだ。その名前付けに、愛情など欠片もなかった。むしろ母親のことを馬鹿にしていたから、そんな風に言ったのだと華は今でも思う。


 実際のところ、華の名前は散々子供たちのからかいのネタにされた。ついたあだ名はハナコだ。最初のうちは、からかわれるたびに、自分の名前はハナコじゃない、華だ、と反論していたが、そのうち面倒になって反応すらしなくなった。


 そんな名前を華によこした男は、それだけ母親につくされ、大事にされていたにもかかわらず、出て行った。家に残っていた、幾ばくかの金を持ち出し、何処とも知れぬところへ行ってしまった。


 母親は、仕事そっちのけで探しまわった。相手と会って話をすれば、まだ何とかなると思っていたのだろう。あれだけ目立つ顔だ。すぐに探し出せるはず、そう考え、一日中、行きそうな場所を歩きまわっていた。その間、華のことはずっと放りっぱなしだった。


 だが、仕事もせず、そんな毎日がずっと続けられるわけがない。無断欠勤が響いて勤め先は解雇になったし、貯金も底をついた。


 男の行方は全くわからないまま。自分達の生活もままならない。行き場のない激しい怨念にも似た感情。積もり積もった不満は、ある日突然爆発した。


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