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101(ワンオーワン)   作者: 叢雲弐月
101人目の魔境王
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とける

 ゴクリ。


 喉を鳴らして身体の中へ沁み渡っていく液体。それは、水のはずだった。


 ところが、華がそれを口に入れ、飲み込むやいなや、それは唐突に華に向かって牙を向けてきた。


 ガシャーン!


 大きな音と共に、床に砕け散るゴブレットの欠片。華の目に、ゴブレットが割れ、砕け、散っていく様が、スローモーションのようにのろくさく映る。


 その透明な無味無臭の液体を飲んだ途端、華の身体はたちまちカァー、と発火したかのように熱を持ちはじめた。同時に、全身を針で刺されたかのような痛みが襲う。


 悲鳴をあげようとして、全く声をあげられないことに気づく。出てくるのは声ではない。ヒューとか、ヒャーとかいう、声にならない、吐き出されていく乾いた空気の音だけ。


 そうだった。余計なことを総主教の前で話さないよう、クラーラに魔法をかけられていたままだった。それはいまだに解除されていない。


 華は、沈黙の魔法をかけられたことを、ここにきて後悔するはめになった。全身が痛いと叫んでいるのに、うめき声一つあげられない。声を発することで、少しだけでも逃すことができる痛みやいきみを、ほんの少しも逃すことができないまま、華の身体は苛まれ続ける。


 痛みに声一つをあげられないことが、これほどまでに苦痛を伴うものだったなんて!!


 全身から汗が吹き出す。ジワジワなんてかわいいものじゃない。だらりだらりと、鼻から、目から、耳から、口から、温かいものが流れてくる。


 その上、汗ではない、何か。それが、どろどろと、不気味なほど流れ落ちてくる。


 何かが、華の中から融けだしていくのだ。


 身体の皮膚が、肌色が、ぶよぶよとたるむ柔らかいものになり、それはさらに、じゅくじゅくとしたものになっていく。さながら高熱にあてられて、急速に溶けていくアイスクリームのようだ。とけたものは、何を含んでいるものなのか、どろりとした不気味な液体だ。液化したそれらが、ぼたり、ぼたり、と大きな滴となり、身体をつたって床に落ちて行く。


 華は痛みに耐え切れず、床に転がる。


 のたうち回る身体。バタンバタンと、壊れたオモチャのような不規則な動き。


 丁寧に掃除され、磨きこまれた艶のある床板には、やがて水溜まりが作られていく。豪華過ぎて、靴で踏むことすら躊躇していた絨毯の上には、水たまりから跳ね上がったものが、さらに飛び散っていき、あちこちに汚らしくシミを広げている。


 水溜りは広がるばかり。


 赤く、黒く、淀む色あい。身体はもがき、転げ、水溜まりをさらにいやらしい色にかき混ぜていく。濁り、よどんだ跡は、その領土を拡張し、美しい木目を汚すように覆う。


 力んだ指先が、苦悶のあまり床を引っかき、惨たらしい線を引く。何度も何度もたくさんの線を引いていくので、互いが互いの色を引き摺り、合わさり、さらなる穢れを撒き散らさんとしている。


 声なき悲鳴。


 震える喉。


 バタつく手足。


 板張りの床の上で、スニーカーのゴム底がこすれ、キューキュー鳴っている。


 痛い!痛い、痛い、痛い!


 苦しい!痛い、助けて!助けて…!


 全身をねじ切られるような痛みのうちに身体は悲鳴をあげ、心までもが耐え切れず、華の意識はそこでブツリと途切れた。


 それからどれくらいの時間がたったのだろう?気がつくと華は、うつ伏せでじめっとした床に一人、倒れこんでいた。


 全身のぴりぴりとした痛みとだるさ、そして喉の異常なまでの渇き。それらが、華の体験した異常な事態が嘘でなかったことを示している。


 それでも、先ほどの燃えるような痛みと比べれば、どうということはない。痛みを感じるということは、生きているということでもある。


 様々な感覚に呼ばれるようにして目を開けた華は、身体をゆっくりと起こし、仰向けになった。窓から入る光が、斜めに差し込み、目に突き刺さる。眩しい光に、思わず目を覆うべく手を挙げた華は、急にあることに気づき動きを止めた。


 これは、何?


 これは何?


 これは…???!


 着ていたシャツの袖口が、だらりと途中で垂れ下がり、そこに本来見えるべきものの姿が捉えられない。


 ある。確かに、ある。


 なくなったのではない。


 手は、そこにあるのだ。にぎにぎと、指先が動く感覚もある。


 けれども、自分の視線の先、本来あるべき場所に手が存在しない。


 それは、シャツの袖の途中で、だぶつく布をつかんでいた。


 華は、重たい身体を引きずりおこし、芋虫のように床を這いながら、鏡を探す。


 鏡…、鏡…。


 確かあちらにあった、はず…。


 床に、干上がった川のようにてらてらと描かれる、這いずった跡。


 ベッドの近くに、ドレッサーがあった。


 華は、ドレッサーの前にあるスツールに手をかけ、身体を起こし、立ち上がろうとする。でも、手が、足が、ぶるぶる震えて、思ったように動いてくれない。


 華の手も足も身体も、どこもかしこもが、べったりとした汗とも血とも何ともわからない液体で、じっとりと濡れている。


 あれほど汚すのがこわくて、座ることすら遠慮した絹の座面に、華はかまわず汚れた手を差し出していく。こすれ、なすりつけられていく汚れも、なりふり構っていられない華の目には入ってこない。


 シャツの袖だけでなく、身頃もジーンズも、だぶついている。たっぷりとした布の質感がまとわりつき、それが邪魔で、スツールをうまくつかめない。袖の中で五本の指を広げ、やっとつかみ損ねたスツールの端をつかむが、今度は足がうまく引き寄せられない。初めて長袴をはいた侍のように、ジーンズの中で足をもてあましていたのだ。


 それでも華は、少しずつ踏ん張りのきかない足を動かし、スツールを頼りに身体を起こしていく。


 確かめなければならない。自分の目で。


 目がちゃんと、見えているのだから。


 やっとの思いで立ち上がった華は、鏡をのぞく。


 覗き込んだ先にいたのは、ぶかぶかで、きたならしく汚れたシャツを着た、子供だった。


 泥水の中に、頭から突っ込んでしまった浮浪児のような姿の少女。


 華の意識は、あまりのことに再び黒にのまれていったのだった。


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