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巷説江戸演義 小噺

妻の一撃

作者: 筑前助広

 宝暦十年、皐月の朔。

 それは、父の月命日の墓参の帰りだった。

 城下から離れた、穂波ほなみ郡の野辺。夜須やす藩祭祀奉行与力・野村重太郎のむら じゅうたろうは、妻の喜佐きさを連れて歩いていた。

 喜佐は遠縁の娘で、二十五の自分より二歳年上。しかも、父の角野高円かどの こうえんに遠野流を学んだ手裏剣の名手でもある。

 異変に最初に気付いたのは、その喜佐だった。


「お前さま、あれを」


 と、波瀬川から流れ込む、金剛寺川の河川敷を指差した。


「ん? どうした」


 そこは、背の高い葦が群生している。指差した先がよく見えなかった。


「あれですよ、あれ。尋常な気配ではありませぬ」


 重太郎は姿勢を低くすると、葦の隙間から男達が何やら争っているのが見えた。


「喧嘩か? いや、違うな」


 その気配を、重太郎も察した。次の瞬間、耳を劈く絶叫が聞こえた。男のものだ。重太郎は喜佐を一瞥して頷くと、咄嗟に駆けだしていた。

 何故、そうしたのか。自分でも判らなかった。異変を前に、素通りできるほど厚顔無恥ではない。そしてそれ以上に、自分を尻に敷く姉さん女房の喜佐の前で、いい顔がしたいだけだったからかもしれない。

 青々とした葦を掻き分けると、そこには三人の男がいた。

 浪人だ。すぐに判った。垢や埃にまみれ着古した着物に、伸び乱れた髷。そう認識した時、重太郎の鼓動が高鳴った。

 三人。しかも、血刀を手にしている。恐怖。重太郎の全身に、恐れが駆け走った。

 浪人は、歩く災厄。夜須藩ではその浪人の流入を禁止し、斬り捨てにしても罪に問われないと定められているほどの悪党集団である。


「ほう。何やらお客さんの御到着だぜ」


 三人の浪人が、不敵に笑む。一人が足元に目をやった。百姓風の男が、袈裟斬りにされ斃れていた。そして、側には女。若い。まだ十三かそこらだ。放心状態で、へたり込んでいる。


「何をしている」


 重太郎が糺した。しかし、三人は笑うだけで、相手にもしない。


「夜須の侍は腰抜けが多いというが、こいつは骨がありそうだな」

「そうそう。奴らは見て見ぬ振りをするからよ」


 三人から、酒気を感じた。目も尋常な色をしていない。


「何をしていると訊いているのだ」

「へっ。何って、その小娘を手籠めにしようとしたら、親父がじゃましたので斬ったのよ」

「そうよ。俺はまだ蕾が開く前の花が好きでね。その花を手折って、無理矢理に花弁を開かせるのが趣味でね」


 高笑いする浪人の前に、重太郎の恐れは怒りによって払拭れていた。


「おぬし等は浪人だな?」

「おう、浪人さ。生まれながらのな」

「浪人は、夜須に入る事はまかりならん」

「って、事になっているみたいだな。ただ、城下に入っても何も言われないぜ」

「夜須藩士は腰抜けだからな」


 重太郎は、腰の大刀に手を伸ばした。


「やる気か、お前」


 重太郎は頷いた。伊武派壱刀流を学び、お勤めの傍らで長柄町で道場を開いている。剣客。その自負はある。その自分が、この惨状を前にして、この一刀を抜かぬ事は出来ない。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 重太郎がまずした事は、葦を背にする事だった。

 一向二裏いっこうにり。三人に囲まれない為の対応である。

 重太郎は、正眼に構えた。攻撃にも防御にも対応する事が出来る。それに攻防共に隙は少ない。


「背後の憂いを無くして、正眼かい」


 正面の男が言った。顔が長く、痘痕面あばたづら。今までの口振りから、この男が頭領格のように見える。


「生真面目な性格だな、お前さん。だが、それは生兵法ってものだ。素人がどう頑張っても、俺達には勝てんよ」


 笑い声。重太郎は無視して、刃の切っ先に、意識を集中した。恐れは通り過ぎた。あとは、この火中から如何にして娘を救い出すかだ。それに、この葦の向こうには喜佐もいる。

 素人。そう言われれば、否定できない。剣術は修めたが、実戦の経験がない。一度だけ真剣で立ち合ったが、相手の腕を軽く斬っただけで終わった。

 だが、そんな事はどうでもいい。経験に勝るもので挑めばいいのだ。

 重太郎は、深く長く息を吐いた。

 無駄な力みが抜け、意識の深部に沈んでいく。浪人達の声も遠い。

 やる事は一つ。伊武派壱刀流の剣客として、武士の務めを果たすだけだ。弱きを助ける。その為に自分は、剣を学んだのだ。

 心気が整い、意識が刀と一致した。

 右の浪人。切り込んできた。気付いた時には、刃は寸前だった。

 鼻先で躱し、刀を振った。そして、左の浪人。身を低くして、刀を突き出した。

 二人の男が、声にならぬ声を挙げて崩れ落ちる。吹き出した血の臭いで、自分が二人を斃したのだと気付いた。

 全身から汗が噴き出していた。大して動いてもいないのに息が苦しく、肩で息をしている。


「見掛けによらずやるね」


 頭領格の男が言った。仲間を二人斬られても、薄ら笑みを浮かべている。


「だがな、俺はそう簡単にはいかんよ」


 頭領格が抜いた。刃の光が、他の者とは違うように思えた。

 頭領格は下段。重太郎は、正眼のままだ。


(くそっ……)


 息が苦しい。必死で整えようと思うが、思い通りにはならない。

 焦り。吹き出した汗が目に入り、沁みる。

 頭領格が、笑んだまま踏み出す。重太郎は地擦りで下がる。頭領格の圧力がそうさせた。

 だが、背後は葦。重太郎は舌打ちをした。必勝の策が仇となったようだ。

 頭領格の剣氣が、凄まじかった。対峙しているだけでも、身体が重くなる。刀を構えているだけでもやっとなほどだ。

 何人も人を斬った者が持つ、魔性の剣。おそらく、この男の剣氣はそうだ。自分とは違う。棲む世界が、そもそも違うのだ。

 頭領格が、下段から構えを八双に変化させると、気勢を挙げて猛進してきた。

 重太郎も踏み出そうとした。が、足は動かず、何故か転がっていた。斬光が、目の前を過ぎていく。転がる事で避けたのだ。本能だろう。起き上がりに一閃されたが、何とか立ち上がる事が出来た。


「小癪な奴よ。ちょこまかと……」


 そう言いながらも、頭領格は余裕の表情だった。獲物を前にして、舌なめずりする獣。まさしくその顔だ。

 重太郎は及び腰に構えた。斬られたのは肩口。血が着物に滲んでいる。


「そろそろ死ね」


 大上段からの一撃。その時だった。

 頭領格の動きが止まるやいなや、背中を仰け反らせた。そして、その顔はみるみる紅潮し、怒りの表情に変わった。


「何、だと?」


 振り返る。その視線の先。着物の袖を絞った喜佐が、そこに立っていた。

 喜佐は手を振り下ろした。光。それは、空を斬り裂く音を立て飛来した。頭領格が、片目を抑え、声を挙げた。左目には、棒手裏剣が突き刺さっていたのだ。


「貴様」

「今よ」


 喜佐が叫ぶ。と、同時に重太郎は、刀を振り上げて踏み出していた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 その話を聞いた時、喜佐は嫌な予感を覚えた。

 夜須藩首席家老・犬山梅岳いぬやま ばいがくからの、突然の呼び出しである。

 穂波郡の一件から、二十日後。重太郎にとっては、良い風向きになっている最中の事だった。

 浪人三人を斬った武功から、その剣名は高まり、長柄町の道場に入門希望者が殺到。上役の祭祀奉行・久里浜藤平くりはま とうへいからはお褒めの言葉と、


「いずれは加増もありえる」


 と、内示を受けたという。今回の呼び出しも、その話かもと、重太郎は言っていた。


(そうならいいのだけど……)


 台所に立つ喜佐は、鍋の中身をかき回しながら思った。

 漠然とした不安がある。梅岳は海千山千の権力者。ただ褒める為に、わざわざ呼び出すとは思えない。

 父の高円は犬山派に属し、その関係で何度か話した事がある。人懐っこい笑みを見せるが、その目の奥は笑っていない。信用してはならない男だと、その時は思ったものだ。


(やはり、一人で浪人を斃した事にしない方が良かったのかもしれない)


 穂波では、喜佐は重太郎を助けた。そうしなければ、斬られていたからだ。しかし、それは夫婦とその側にいた百姓の娘ふき、三人だけの秘密である。女に助けられたとあれば、剣客としての名声は地に落ちてしまう。だから、重太郎一人で三人を斬った事にした。しかし、それが仇となったのかもしれない。

 重太郎は弱い。いや、剣術は上手い。そこらの武士には負けない。だが、それ以上の相手に勝つ腕は無いのだ。所謂、道場剣法の域を脱していない。

 重太郎は知らないが、遠野流手裏剣術を学び、父と共に〔犬山派の刺客〕として働いてきたからこそ判る事である。


(あの人、お断り出来るかしら……)


 生真面目で実直な人柄の男だ。責任感も強い。命令とあれば、実力以上のものでも引き受けそうだ。

 竈の火が、弱くなっていた。


「あらいけない。ふき、ふき」


 喜佐が表に向かって叫ぶと、勝手口から陽に焼けた少女が飛び込んできた。

 あの日助けた、百姓の娘である。父親以外に身寄りがないという事で、重太郎と相談して引き取ったが、喜佐にはそれ以上に、秘密を共有した者を手元に置くという意味もあった。


「奥様、何か御用ですか?」

「ええ。薪をもう少し持って来てちょうだい」

「あい」


 ふきが元気に飛び出していく。父が死んだというのに気丈なものだ。

 少女の頃から、多くの死を見てきた。そして、心に幾つも傷を負ったが、それを重ねていく内に麻痺してしまった。今では人の死に動じる事は無い。しかし引き取って以来、気丈に振る舞うふきを見ていると、かつての傷の瘡蓋かさぶたが剥がれて疼く。


「おーい」


 表で声がした。重太郎の声だ。生真面目で面白味は無いが、憎めない年下の夫。唯一、この人との時間だけが、刺客ではなく人間でいられる、何とも愛くるしい男だ。


「はーい、今行きますよ」


 そう喜佐は返事をして、台所を出た。


<了>





この作品は、「天暗の星」の序章的作品です。続きは「天暗の星」で明かされます。

別視点でのラストをあとがきに追加しました。読んでいただくと、また変わると思います。

<アナザーエンド>


 野村重太郎が、犬山梅岳の召還命令を受けたのは、梅雨が明け切ろうとした頃だった。

 梅岳は、藩主・栄生利永から信任を得て、藩内に絶大な権力を築いている首席家老である。悪評もあるが、軽輩の身から才覚一つで成り上がった苦労人である。敵には容赦ないが、降伏してきた者には寛容で、かつて梅岳の前に立ちはだかった門閥武士達を、今では派閥の中核に取り込んでいた。

 その派閥に、重太郎は加わっている。それは父の代からの事であるが、さりとて梅岳の為に働いた事は一度とて無い。


(加増の沙汰かな……)


 裃姿の重太郎は、そう思いながら梅岳の屋敷を目指して歩いていた。

 喜佐は、突然の呼び出しに浮かない顔をしていた。


「案ずるな。風向きは良いのだ」


 そう言ってみせたが、重太郎にも不安がないわけではない。何せ、あの梅岳の呼び出しなのだ。

 ただ、風向きが良いというのは嘘ではない。浪人三人を斬ってからというものの、重太郎の名声は格段と高まった。道場には入門希望者は殺到し、祭祀奉行・久里浜藤平くりはま とうへいからはお褒めの言葉と、


「いずれは加増もありえる」


 と、内示を受けたのだ。今回の呼び出しも、その話かもしれない。

 梅岳の家老屋敷は、夜須城二の丸にある。門前で訪ないを入れようとすると、屋敷が俄かに騒がしくなった。

 誰かが出てくる。重太郎は慌てて脇に寄った。

 逞しい男だった。猪首で、顎は張っている。それでも武骨な印象はなく、見送りに対して鷹揚に笑む顔には、気品すら感じる。


(奥寺様だ)


 夜須藩中老・奥寺大和。藩内で、今一番勢いがある男である。


(しかし、何故梅岳様の屋敷へ……)


 大和と梅岳の関係は、微妙なものであった。元々は梅岳に従っていたが、中老になるとその施策に異を唱えはじめ、その周りには梅岳を良く思わない人間が集まっているという。犬山派に対して、奥寺派とも呼ばれつつある。

 そうした関係にある二人が、何故とも思うが、藩の執政府には、考えも及ばない事情があるのだろう。

 暫くして、執事と名乗る老人に中へ導かれた。

 鏡のように、拭き上げられた長い廊下を歩く。中庭では、幼さが残る青年が木剣を振っていた。


「格之助様でございます」


 と、眺める重太郎に言った。


「あの方が……」


 犬山格之助。利永の庶子で、四男。犬山家に養子に出され、その嫡男となっている。梅岳には実子がいたが、わざわざ廃嫡してまで、格之助を迎えている。そこには、様々な憶測と噂がある。中でも一番は、格之助は梅岳の実子ではないか? というものだ。格之助の母は、側室にもなれない低い身分だった。故に藩主家に入る事が認められず、梅岳が養子として引き取ったのだが、この女を引き合わせたのが梅岳であり、元は犬山家の下女、そしてそばめであった。その真偽は判らないが、まことしやかに語られている。


「お連れしました」


 執事がそう言い、重太郎は部屋に入った。

 梅岳は柱に背を預け、縁側で庭を眺めていた。


「祭祀奉行与力、野村重太郎でございます」

「おう」


 梅岳は振り向きもせずに言った。


「野村角兵衛の倅か」

「はっ、長子でございます」

「穂波で浪人を三人も始末したと聞いた」

「……」

「中々の腕前だ」

「いえ、紙一重でございました」


 喜佐が加勢した事については言わなかった。それは喜佐が言い出した事で、自分もそれに従う事にした。女に助けられたと知れたら、高まりつつある剣名が地に落ちてしまう。


「ふむ。所でだ。そこで奥寺大和に会ったろう?」

「えっ?……ええ」

「この儂に、小竹宿こたけじゅくをどうにかしろと言って来おった」


 と、梅岳は顔だけをこちらに向けた。胡麻塩頭に、皺が深い。もう中々の歳だ。


「小竹宿でございますか。確か、今浪人が巣食っているという」

「そうじゃ。このまま看過するなら、御手先役の出馬を殿にお願いするとな」


 御手先役という名に、重太郎の全身に緊張が走った。藩主家直属の刺客。その存在は一般には知られていないが、凄腕の剣を使うという。また、その名は藩士の間で周知されているものの、誰が御手先役なのかは不明であり、それがまた不気味だった。


「御手先役がな、あの奥寺と近しい関係にある。儂と奥寺の関係は存じておろう?」

「はい」

「ふむ。なら話は早いの。御手先役が出馬し、小竹宿の騒擾を治められると、儂としては困るのじゃ」

「……」

「相手は六名。一人でとは言わん。お前が中心となり、その浪人を斬れ」


 断れるはずもない。藩を実質支配している男の命令なのだ。今回は加勢もある。三対一に比べれば、だいぶマシというもの。大丈夫だ。そう自分に言い聞かせて、重太郎は平伏した。


「もし見事討伐を成し遂げれば、恩賞は思いのままじゃ。それと、儂の右腕にもなってもらおうかのう」



<了>

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