17.華麗なる変身
波間から顔を出していたのは、美しい四人の人魚たち。リーリウムと同じ、月の光を紡いだかのような金の髪に深い海色の瞳。いずれ劣らぬ、美しい娘たちだった。
「あなたがマーレ様、ですね?」
四人の中でおそらく一番年長であろう娘がマーレの前まで来る。波間から見上げてくる彼女に合わせひざを折り、マーレは静かにうなずいた。
「海の魔法使い様よりお聞きして、ここであなたをお待ちしておりました。お初にお目にかかります。わたくしはマルガリートゥム王一番目の娘、ロサと申します。この先の潮だまりに囚われている、リーリウムの姉です」
人魚の娘――ロサ――は、リーリウムの姉だと名乗った。慌てて挨拶を返そうとしたマーレだったが、のどからもれたのは空気の抜ける虚しい音だけ。のどに手をやったマーレの姿に、ロサが痛々しげな視線を投げる。
「すべて聞いております。マーレ様はリリィを助けるため、朱の魔法使い様に大切なものを差し出してしまわれたと。……声、だったのですね。さぞ、美しいお声だったのでしょう。それを妹のために……」
うなだれるロサに、マーレは違うのだと首を振った。そして背負っていた楽器を抱えなおすと、物悲しい旋律を奏で始めた。
「これは……月華の故郷? 半身を求める石人の歌、ですよね?」
ロサの隣にやってきたおとなしそうな娘が問うとマーレは演奏を止め、己の胸に手を当てて笑顔でうなずいた。
「もしかしてリリィは……マーレさんの半身、なのですか?」
おとなしそうな娘の問いに、マーレはあふれんばかりの幸せで彩られた笑顔でうなずく。するとその大輪の花のような艶やかな微笑みに、娘たちは頬を一斉にばら色へと染めあげた。
マーレの微笑みでにわかに浮き立つ娘たち。しかしそれは、いち早く我に返ったロサの言葉によりおさまった。
「な、ならば! どうかこれをお使いください」
差し出されたのは一振りの短剣。透き通る深い海色の刀身を持つ、美しい短剣だった。
マーレは短剣を手に取ると、その不思議な刀身をじっと見つめる。透き通った刀身から見る世界は鮮やかな青に彩られ、まるで海の中にいるようだった。
「この短剣は、『惹かれあう二人の間に立ちはだかる困難を切り裂く』というものだそうです。海の魔法使い様にお願いして作っていただきました」
魔法使いに作ってもらった、それはすなわち代償を払ったということ。マーレは、はっとロサたちを見る。
「はい。確かにそれを作っていただくため、私たちは代償を支払いました」
「けれどそんなもの、リリィに比べたら些細なもの」
「あなたが失った声に比べれば」
「私たちの失ったものなど比べ物にもなりません」
「たかが髪。こんなもの、いくらでも差し出しましょう」
そう笑う彼女たちは皆、一様に短い髪をしていた。
「わたくしたちの支払った代償では、わたくしたちの手で妹を救うことはかないませんでした。だから……マーレ様、あなたに託させてください。どうかリリィを助けるために、力を貸してください!」
懇願するロサに、マーレは満面の笑みでうなずいた。
「マーレちゃん、今ならまだ間に合うわよ。その薬を代償として渡せば、あなたの声、戻してあげる」
いつの間に来ていたのか、マーレが振り返るとそこにはパーウォーが立っていた。彼は憂いをたたえた瞳でマーレを見下ろし、最後の確認をする。
「本当にいいの? 声を失って、種族まで変えて……それは、とても大きな困難を伴う道。特に声を失った人魚なんて……。ねえ、結界を破壊したら、あとはこの子たちに任せることもできるのよ」
ロサたちをちらりと見やり、パーウォーはマーレに最後の逃げ道を示す。けれどマーレはそれに首を振り、困ったような喜んでいるような微妙な笑みを浮かべた。
『ありがとう。やっぱりパーウォーさんはいい人だね。でも、僕はもう決めたんだ。リーリウムと共に生きるって。でも、僕はまだ彼女の心を手に入れられてない。だったらさ、誠意ってやつをみせないとね。それにさ、もしかしたら同情や罪悪感から、僕のこと好きになってくれるかもしれない……でしょ?』
マーレの心の声に、パーウォーは苦笑いをこぼす。そしてため息をつくと、諦めたように笑った。
「アンタ、本当はかなりの腹黒だったのね。ふわふわした天然ちゃんだと思ってたけど……たいしたタマじゃない。それだけしたたかなら、もう心配はいらないわね。それどころか、むしろ心配なのはあの人魚ちゃんの方だったわ」
呆れ顔のパーウォーに満面の笑みで応えると、マーレは服を全て脱ぎ捨て、小瓶の中身をためらいなく一息にあおった。
変化はすぐに訪れた。マーレの全身が淡く光り始め、まず二本の脚が一つになった。次にくるぶしから下の部分が美しく透き通った尾びれとなり、きらめく銀色の鱗が瞬く間に下半身を覆う。そして耳たぶの部分も銀色のヒレとなり、その裏にはぱっくりとしたエラが口を開けた。
完全に人魚へと変態したマーレ。もう陸で暮らすことはできないし、二本の足で立つこともできない。けれど彼の顔は、とても晴れやかなものだった。
強靭な尾びれで岩場から海へと飛び込むと、マーレは洞窟の入り口を封じている結界に向けて短剣を振り下ろした。紺碧の刀が見えない壁に当たったその瞬間、全ては海の泡となり――
「行きましょう、マーレ様」
「私たちについてきてください」
消え去った結界の向こう、細く暗い洞窟に五人の人魚姫たちが次々飛び込む。水の中なのにはっきりと聞こえる声に戸惑いつつ、マーレはロサたちに導かれるまま洞窟を進んだ。
細く長い水の洞窟は、生身の石人のままでは到底抜けられなかっただろう。けれど人魚となった今、マーレは空を飛ぶ鳥のように軽やかに水の中を飛んでいた。
やがて洞窟は終わりを告げ、マーレたちは件の潮だまりの牢獄へと出た。この潮だまり自体はそう広いものではなく、リーリウムがいればすぐにわかるはずだった。けれど、水の中にリーリウムの姿はなく……
「やめて! 離して‼」
水面を叩く音と悲鳴、はっと顔を上げたマーレの目に入ったのは、美しい瑠璃の尾びれとそれに絡まる網。瞬間、マーレは今まで感じたことのないような、まさに血が沸き立つような怒りに支配されていた。
「マーレ様、だめです‼」
ロサの制止も耳に入らず、マーレは怒りに任せて水から飛び出した。イルカのように跳ね上がったマーレの目に入ったのは、上げられた巻き上げ式の鉄格子の下で網にからめとられたリーリウム、その網を手繰り寄せる人間の男が二人、そして車いすに乗ったヘムロックだった。
驚く三人を一瞥した直後、マーレは銀の尾びれを力いっぱい振るい、網を持っていた男たちをなぎ倒した。
「おまえ……」
着水の寸前、聞こえた小さなつぶやきにマーレが振り返る。そこにあったのは、憎々し気なヘムロックの昏い瞳。
派手に水しぶきをたて再び水の中に落ちたマーレ。もう一度飛びかかろうと構えたところで、ロサから制止の声がかかった。
「お待ちください! なんの考えもなしに飛びかかったところで、リリィを助けることなどできません。ましてや今のマーレ様の行動で、人間たちの警戒心が強くなってしまいました」
ロサの正論に悔し気に顔を歪めるマーレ。そんな彼を、ロサの妹姫たちが順番に諭す。
「わたくしたちは人魚です」
「人魚には人魚の武器があります」
「歌の形をした災厄」
「存分に味わわせて差し上げましょう」
口々に言うと彼女たちはにっこりと笑って、それぞればらばらの方向に散っていった。
「わたくしたちが人間をひきつけます。ですから、マーレ様はリーリウムをお願いします」
それだけ言うと、ロサもまた別の方向に泳いで行ってしまった。一人残されたマーレ。彼はその場で彼女たちが動くのを待つしかなかった。
ほんの少しの間、それさえももどかしかった。マーレはなすすべなく、もがく瑠璃色の尾びれを見ているしかなく……
ふいに、歌が聞こえてきた。
それは穏やかな波音のように眠気を誘うような、それでいて心を逆なでするような不安を掻き立てるような、なんとも言い難い不和の旋律。
急速に満ちていく濃い魔力の気配にマーレは今だと確信し、勢いよく水の上に飛び出した。