8.強襲
「ヘルメス、わたし、極夜国……」
「大丈夫、迷いの森なら抜けられるよ。そのための準備にはまだちょっとかかるけど、算段は付いてるんだ」
「違う。わたし……」
「安心して。リコリスだけは何としても送り届けるから」
何度も違うと訴えるが、リコリスの声はヘルメスに届かない。リコリスにトートを投影している、今のヘルメスには。
リコリスは悲しかった。今、ヘルメスの前にいるのはリコリスなのに、その目に映るのは自分ではない。リコリスはリコリスでしかないのに、ヘルメスはリコリスにトートを見る。それは「お前なんていらない」と言われているようで、リコリスは悲しくて悔しくて。
「行かない!」
突然大きな声を出したリコリスに驚き、ヘルメスはぽかんと立ち尽くした。そんなヘルメスにリコリスは何とか自分の気持ちを伝えようと、たどたどしい言葉を懸命に紡ぐ。
「わたし、トートじゃ、ない! わたし、極夜国、行かない。わたしは、行きたく、ない!」
瞳にいっぱいの涙をためて叫ぶリコリスの姿に、ヘルメスはわけがわからずうろたえた。
「どうしちゃったんだよ、リコリス。さっきまでは行きたいって言ってたじゃないか」
「ヘルメス、わたし、見ない。わたし、リコリス。トートじゃ、ない!」
「リコリス? ちょっと落ち着いてよ。今のきみの言ってること、全然分かんないよ」
「ヘルメス、わからずや! ねぼすけ! もう、知らない‼」
リコリスは癇癪をおこすとヘルメスに背を向け、その勢いのまま玄関から飛び出してしまった。
「待って‼ リコリス、だめだ!」
慌てて制止するヘルメスの声を振り切り、リコリスは無我夢中で走った。寝巻のままなのも裸足のままなのも、今のリコリスには関係ない。土地勘など皆無な細い路地をめちゃくちゃに走り、驚く人々の間をすり抜け、ただただ走った。
けれど、そんなリコリスの逃走劇は行き止まりという障害であっけなく幕を閉じる。
「リコリス!」
路地裏でうずくまるリコリスを見つけ、ヘルメスは安堵のため息をもらした。けれどヘルメスを拒絶する小さな背中になんと声をかければよいのかわからず、リコリスの名を呼んだきり今度はその場に立ち尽くす。
「……その、ごめん」
ヘルメスはリコリスに嫌われたくない一心で謝罪の言葉を口にした。
本当はリコリスが何に対して怒ったのかわかっていなかったが、とにかく謝って機嫌を直してもらおうと思って。しかしそんな誠意のない謝罪は逆効果しかもたらさず、リコリスの態度をさらに頑ななものへと変えてしまった。
今まで女の子と付き合ったことはおろか、初恋すら経験したことのなかったヘルメス。そんな彼に妙案など浮かぶはずもなく……。
けれど、いつまでもここでこうしているわけにもいかない。なにせ、リコリスは目立つ。白い髪の少女など、ヘルメスはリコリスに出会うまで見たことがなかった。おそらく、町の人たちもそうだろう。ということは見られてしまった今、リコリスの存在はあっという間に噂になる。人の口に戸は立てられない。アワリティアの耳に入るのは時間の問題だ。
それに先ほどから感じる嫌な気配。ヘルメスが急ぐ理由はそれにもあった。
「リコリス、仲直りは後だ。とりあえず、今すぐここから離れよう。なんだか嫌な予感がするんだ」
硬くなったヘルメスの声に、今の状況があまりよくないものだということをリコリスも察した。わかってもらえない悲しさはあったものの、それと今の状況は別だ。差し出されたヘルメスの手を取ろうと、リコリスが手を伸ばしたその時――
リコリスの目の前から、ヘルメスが消えた。
次の瞬間、壁際に積んであった木箱や樽が派手な音をたてながら崩れ落ちた。目の前の出来事に理解が追い付かず、呆然とするリコリス。すると、誰もいない場所に伸ばされた行き場のなくなってしまったその手を、ごつごつとした男の手が無遠慮な力で掴んだ。
「道具の分際で手間かけさせやがって」
痛みに顔をしかめ小さな悲鳴をあげるリコリスを見下ろし、吐き捨てるように言葉を投げつけた男。がっしりとした筋肉質な体、冷たい氷のような瞳とくすんだ金髪。そしてその冷酷そうな顔立ちは、ヘルメスの毛嫌いするアワリティアの馬鹿兄弟と似ていた。
「殺す気ですか、クルーデーリスさん」
壊れた木箱の破片を払いながら立ち上がると、ヘルメスは筋肉質な男――クルーデーリス――を睨みつけた。
「なんだ、死んでなかったのか。まだまだ改良の余地あり、というところか」
クルーデーリスはリコリスの腕を捻り上げたまま自分の右手の籠手を見てヘルメスを一瞥すると、つまらなそうに言い捨てた。痛みに顔をしかめるリコリスの姿にヘルメスの表情が険しくなる。
「リコリスから手を離せよ」
「盗人の分際で図々しい。これはもともと我がアワリティア家のものだ。お前のようなコソ泥に指図される謂れはない」
クルーデーリスはヘルメスを嘲ると、挑発するかのようにリコリスの腕をさらに捻り上げた。リコリスの小さな額にじわりと脂汗が浮かぶ。
普段は飄々としていて激しい怒りを表に出すことのないヘルメスだが、リコリスを道具扱いした上、必要以上にいたぶるクルーデーリスには我慢ならず、今は殺気さえ感じられそうな怒気をあらわにしていた。
「連れてけ」
クルーデーリスは引き連れてきていた部下に向かってリコリスを突き飛ばし、改めてヘルメスに向き合うと見下すように嗤う。
「何がおかしいんだよ」
「いやなに、丁度いいと思っただけだ。これの実用試験にな」
にやりと笑ったクルーデーリスは透き通る石、水晶が嵌め込まれた右手の籠手をひけらかした。瞬間、ヘルメスの右目に鈍い痛みがはしる。
「クルーデーリスさんさぁ。アンタの店、今度はどんなヤバいものに手を出してるの?」
脈打つように痛む右目を押さえながら、ヘルメスはクルーデーリスを睨みつけた。
「その籠手、それだって何人の血や涙を糧にしたんだか知れたもんじゃないね。で、そのご自慢の新商品の性能は?」
「客以外に説明する気はない。それともお前が客になるか? まあ、下民風情に買える値段ではないがな」
馬鹿にしたように鼻で笑った次の瞬間――クルーデーリスは一気にヘルメスの懐に飛び込むと、みぞおちに拳を叩き込んだ。それを受けたヘルメスは、まるで風に舞いあげられる木の葉のように吹き飛ぶ。
しかしクルーデーリスは忌々しいとばかりに眉間にしわを寄せると、石畳の上で仰向けに倒れるヘルメスを睨めつけた。
「下手な芝居はやめろ」
先ほどより険しさを増した声でクルーデーリスが吐き捨てた。それを受け、ヘルメスはぴょこんと跳ね起きる。
「ばれちゃったか。さすがはアワリティア家次男、狂戦士のクルーデーリスってとこかな」
「くだらん軽口はいい。どうやって俺の拳を無効化した?」
「えー、そんなの言うわけないじゃん。アンタだってその籠手のこと、教えてくれなかったくせに」
「クソ生意気な下民が。その減らず口、二度ときけないようにしてやる」
言うが早いか、クルーデーリスはまたしてもヘルメスに拳を叩き込んできた。
狂戦士などという物騒なあだ名がついているくらいで、クルーデーリスは腕っぷしが強いのはもちろん、その容赦ない性格でも有名だった。半殺しは日常茶飯事、噂では何人か殺しているとまで言われていた。証拠がないので現状放置されているが。
そんな男の一撃だ。まともに受けたらヘルメスなどひとたまりもない。
ヘルメスが得意なのは罠などの道具を使った間接的な手段で、殴り合いなどの直接的な喧嘩は苦手分野。そんなヘルメスがどうやってクルーデーリスの拳を相殺しているのかといえば、それはひとえに精霊たちの献身的な手助けによってだった。
最初の不意打ち。あの直前に嫌な予感を感じていたヘルメスは、あらかじめシルフを呼び出していた。
そしてそこからは、ひたすらシルフがヘルメスを守っていた。クルーデーリスの拳を空気で作った緩衝材で受け止め、吹き飛ばされたヘルメスが地面に叩きつけられないように風で受け止めて、と。
おかげで今、ヘルメスは傷一つ負うことなくクルーデーリスの前に立っている。
「どんな小細工を使っているのか知らんが……」
クルーデーリスは軽くひざを曲げると、上半身を守るように両肘を曲げた状態で構えた。そして拳を握ると、にやりと好戦的な笑みを浮かべる。
「こいつの威力にも耐えられるといいな。――踊り狂え、ザラマンデル!!」
クルーデーリスの叫びに呼応するように、籠手に埋め込まれた石が光りだした。ゆらゆらごうごう、まるで燃え盛る炎が渦巻くように、透明な石が赤黒く明滅する。
石の光が強まると、それに連動するかのようにヘルメスの右目も鈍い痛みを訴え始めた。しかも籠手の石が燃え盛るほどに、うねるような怨嗟の声が路地裏を埋め尽くしていく。
右目の疼くような痛み、辺り一帯を埋め尽くす怨嗟の声――ヘルメスは石の正体を確信した。
「その石……それ、石人の瞳だろ。しかもどんな手を使ったんだか知らないけど、それに無理やり精霊を閉じ込めた」
「さあな。これがどんなもので出来ているとか、そんな些末なことなどどうでもいい。俺にとって肝心なのは、使えるか、使えないか――だ!」
クルーデーリスは地面を蹴ると、ヘルメスに向かって右の拳を突き出した。
ヘルメスとシルフはそれをさっきまでと同じように空気のクッションで受け止める――――はずだった。
ボンっという、大きな風船が割れたような音が路地裏に響き渡った。そして次の瞬間、ヘルメスは白い漆喰の壁に叩きつけられていた。したたかに背中を打ち付けたヘルメスから、くぐもったうめき声がもれる。
「威力は問題なし。難点はこの耳障りな声か」
「その声、が……いつかアンタを、滅ぼす、よ」
こみ上げてくる胃液を無理やり飲み込み、ふらつく足を奮い立たせ、ヘルメスはふらふらと立ち上がった。そしてクルーデーリスをまっすぐ見つめると、脈打つように痛む右目を押さえながら警告する。
「恨みを抱いて死んだ石人の瞳は、強力な魔道具になる。けど、同時に強烈な呪いもついてくる。石人とも商売してるアンタたちなら、それくらい知ってんだろ? このままだとアンタ、確実に破滅するよ」
「知ったことか。それになぁ、天下のアワリティア商会がなんの対策もせず、こんなもん商品にすると思ってるのか? 下民風情が、小賢しく利いた風な口を叩いてんじゃねぇよ」
「お前らこそ、石人や精霊をなめてんじゃねーよ。彼らの呪いを人間が制御しようなんて、いつか必ず、絶対にどこかで綻びがでるぞ」
「はっ、石人だろうが精霊だろうが、負けた時点でそいつはエサだ。勝者に搾取され、利用される。狩人が獲物を利用し尽くす、それだけのこと。そもそもこんな敗者どものクソの役にも立たない恨み言で、勝者である俺たちが影響を受けることなんざないんだよ」
石人や精霊の呪いをよせつけない傲慢な精神力、それはある意味感心すると言えなくもない。けれど、自分より弱いものを徹底的に見下し認めない狭量さ……その歪んで肥大化した心は、ヘルメスには認められるものではなかった。
「アンタはさ、ずいぶんとつまらない世界で生きてるんだね。勝つか負けるか、零か一かしかないなんて……かわいそうに」
ヘルメスの憐れみの言葉に、クルーデーリスの口もとが引きつり額に青筋が浮かぶ。
「かわいそう? 俺が? ちっぽけで薄汚い生まれながらの敗者である下民が、この俺を憐れむ?」
「ああ、憐れむね。かわいそうなクルーデーリス」
「クソみてぇなドブネズミごときが……知った風な妄言吐いてんじゃねぇ!!」
怒りの雄たけびをあげながら拳を振り下ろすクルーデーリス。その拳を寸でのところでかわしたヘルメスは、そのままシルフの力で両脇の家の壁を交互に蹴って上へと登り、屋根へと躍り出た。
そして路地の石畳を人間とは思えない力で粉砕したクルーデーリスを屋根から見下ろし、ヘルメスは笑った。
「アンタはその路地みたいに狭い世界で、ずっと一人ぼっちで生きていけばいいさ。じゃあね、クルーデーリスさん。僕はこの広い世界で、リコリスと一緒に生きていくから」