10.生まれ変わり
ベッドの上、上半身を起こした体勢でパーウォーは小さな宝石箱の中の真っ二つに割れた翡翠を見つめていた。
「昨日のお墓参りの影響かしら……久々に見たわね、あの子の夢」
「またね」と一方的な約束を残されてから百四十八年。生まれ変わることのできない疑似魂だったコッペリアとの再会はないと頭では理解していたが、パーウォーはいまだ心のどこかで諦めきれずにいた。
――人の手によって創られた疑似魂は輪廻の環に戻れない……それって本当なのかしら?
魂の終着駅と言われ輪廻の環に戻れない人魚でも、人魚以外の種族から真実の愛を捧げられればそこから脱することができる。とはいえ、パーウォーはそれが本当のことなのか確かめたことはないが。
――そもそも確かめようがないもの。生まれ変わったら前世のことは全部忘れちゃうんでしょ、記憶転移の一族みたいな一部の例外を除いて。なら別に、輪廻の環に戻れなくたって問題ないじゃない。
パーウォーは割れた翡翠を指先でそっとなでる。
――今のワタシが全部なくなっちゃうのに、生まれ変わりってどんな意味があるのかしら。
生まれ変わりなど意味がない、そう思っているはずなのに。思っていたはずなのに。疑似魂は転生できない、その事実がパーウォーの心を曇らせる。
「たとえ生まれ変わったあの子と会えたからって、それにどんな意味があるのよ。何も憶えてない、姿かたちも何もかも違うあの子と会ったって意味なんてない。……ない、のに」
「また、ね」
コッペリアが最後に残した言葉をなぞる。
自分が輪廻の環に戻れないことは彼女自身もわかっていたはずだというのに、なぜ最後にあの言葉を残したのか。同じく輪廻の環に戻れないパーウォーにはわからなかった。
――果たせない約束なんて、なんで残してったの?
あの日、あのとき。コッペリアの最後の歯車が止まり、すべてが終わったとき。
「素晴らしい結末でした!」
冷たい人魚の鎮魂歌と耳障りな悪魔の哄笑が流れる中、パーウォーは二体の人形を抱えたまま呆然と座り込んでいた。翡翠の瞳に刃を突き立てられたまま動かなくなったコッペリアと、そんな彼女に抱きしめられたまま動かなくなったオリンピア。
「ネウロパストゥムさん、これにて契約は完了です。代償をお願いします」
「りょーかい。しっかしまあ、きみもよくやるねぇ、額装さん。僕は物を作るのは得意だけど、こういうのはからっきしだから。うん、おもしろかったよ」
ネウロパストゥムは座り込むパーウォーの前に来ると無造作にオリンピアを持ち上げた。その際、突き立てられた刃が雑に抜かれ、コッペリアから割れた翡翠の瞳がこぼれ落ちた。
「オリンピアは回収させてもらうね。こっちは他に譲渡先決まってるんで。あ、コッペリアの方はもうヒヨッコちゃんにあげたものだから好きにしていいよ」
反応のないパーウォーに怪訝な顔を向けたネウロパストゥムだったが、すぐに興味を失ったのかエテルニタスの方へと踵を返した。
パーウォーは座り込んだままコッペリアの冷たい体を強くかき抱き、こぼれ落ちた翡翠を握りしめ嗚咽をもらす。
「ごめんなさい……頼って、くれたのに」
悲しみ、悔恨、自己嫌悪。様々な感情がパーウォーをぐちゃぐちゃに塗りつぶしていく。
「……んで……どう、して」
次いで湧き上がってきたのは怒り、憎しみ。ふつふつとパーウォーの魔力が上がっていく。
「あ、これちょっとマズイ感じ?」
「そのようですね。では、私はこれで」
不穏な魔力の高まりを察知した疫病神と悪魔は、驚くほどの速さで扉を出すと瞬く間に消えてしまった。
直後、ごちゃまぜの感情が爆発したパーウォーの鬼哭啾々が放たれる。それは残っていた建物、生い茂っていた草や樹木、異形の人魚姫の自動人形――様々なものを一瞬にして消し去った。
残ったのは草一本生えていないむき出しの地面と、パーウォーが握りしめていた砕けた翡翠だけ。里全体に結界が張られたままだったため被害はその範囲で済んだが、もし結界がなかったとしたらかなりの範囲が荒野と化していただろう。
星明りさえない夜の荒野でひとりきり、パーウォーは砕けた翡翠を握りしめたまま呆けていた。秋の夜風が肌から熱をさらっていくのもかまわず、ただぼうっと座り込んでいた。
「また、なんて……なかったのに」
宝石箱を閉じるとパーウォーは寝台から立ち上がり、あの日と同じ雲に覆われた新月の空を見上げた。
「ワタシたち、守れない約束ばかりね」
願いを叶えられなかった魔法使い。来世などないのに次を約束した自動人形。
「でも、待ってる」
パーウォーは人魚。だから生まれ変わりなど意味がない、そう思っていた。エスコルチアを失ったときでさえ、彼女の生まれ変わりに会いたいとは思わなかった。エスコルチアでなくなった彼女では意味がなかったから。
――前のコッペリアじゃなくても、全部忘れちゃっても……それでもワタシは、アナタには生まれ変わってほしい。
陽の光の暖かさ、夜空を照らす月や星、塩辛い海、吹き抜ける風の感触や雨の匂い。そんな、あの部屋の外にはあった当たり前の世界。コッペリアが憧れていた世界。
まったくの別人になってしまっても、すべて忘れてしまっても。それでもコッペリアには次があって、そんな当たり前を目いっぱい享受してほしい。パーウォーはそう願わずにはいられなかった。
――生まれ変わりなんて意味ないって思ってた。だって、ワタシは今のワタシ以外になりたいわけじゃないもの。
パーウォーは鏡台の前に来ると椅子に座り、宝石箱を鍵のついた引き出しにしまう。
――でも、わかった。なんでコッペリアの生まれ変わりは望んでしまうのか。
子守歌のような波音の合間に、鍵の音がカチリと溶けて消える。
――ワタシは、失敗を取り返したいんだ。生まれ変わってコッペリアが幸せになることで、あの終わりを帳消しにしたい。そんな自分勝手で独りよがりな贖罪モドキを望んでるんだわ。あの子の最期の言葉にすがって。
パーウォーがたどり着いた答えは、自身にとって認めたくないものだった。
――コッペリアのためとか贖罪とか。そんなきれいごとでごまかしてるけど、ワタシはコッペリアを救いたいんじゃない。自分の心を軽くしたいだけ。……最低ね。
エスコルチアの墓参りで色々と思い出してしまった影響なのか、ウェリタスの件であの赤い悪魔と三度目の遭遇を果たしてしまった影響なのか。パーウォーの心は少しだけ不安定になっていた。
――人の手によって創られた疑似魂は輪廻の環に戻れない。でも……
パーウォーは閉ざされた引き出しを見つめ、中で眠る翡翠に想いをはせた。