酔生夢死 前編 ~アメシスト&ルベライト~
覚醒――
それは、ウィオラーケウスに与えられた加護の力。どれだけ炭酸水を飲もうと、決して酔いはしない覚醒を司る力。
「いいなぁ、みんな気持ちよさそうで」
酔いつぶれ寝ているティグリスら商会の仲間たちを眺め、ウィオラーケウスは一人つまらなさそうにつぶやいた。
「この力、絶対に人生損してるよね。あーあ、私も酔ってみたいなぁ」
テーブルに突っ伏し足をばたつかせ、誰にともなく愚痴る。けれど残念ながら、酔いつぶれた仲間たちからはかすかな反応も返ってこない。ウィオラーケウスは椅子から立ち上がると、眠る仲間たちを残しふらりと外へ出た。
ここは極夜国。夜と月が支配する、石たちを閉じ込めた標本箱。太陽の光が届かないこの地では普通の植物など育つはずもなく、濃い魔素にあてられ硝子になって死んでしまった木や草しか存在しない。
しゃらしゃらとした葉擦れの音はまるで鎮魂歌。けれどウィオラーケウスは、存外この命のない音を好ましく思っていた。やはり生まれたときから馴染んでいるからだろうか、彼にはそれは子守唄のようで。
朝も夜も月が昇る極夜国。月光を受け儚く輝く硝子の木々の下を、ウィオラーケウスは一人歩く。そしてたどり着いたのは、石たちが眠る石碑の森――墓地だった。
「兄さん……半身っていうのは、故郷を捨ててしまえるほど酔ってしまうものだったの?」
その中の一つ、兄の水晶の瞳とその半身の遺髪が納められている墓の前へと腰を下ろす。そして持ってきた炭酸水の瓶を墓前に供えると、ウィオラーケウスはおもむろに月を見上げた。
――ウィラー、半身ってすごいよ! 彼女と出会った瞬間、まるで酔ったときみたいな、バカになりそうなほどの幸福感が押し寄せてきてたんだ。
ウィオラーケウスの思い出の中で笑う兄は、とても幸せそうで。ウィオラーケウスはそんな兄が微笑ましく、そして妬ましかった。
「私は、まだわからないんだ。でも、兄さんの娘は見つけていたみたいだよ。さすがだよね」
今から二ヶ月と少し前、極夜国に外部からやって来た者たちがいた。半石人の少年と少女――ヘルメスとリコリス。
そのうちの少女の方、リコリスはどうやらウィオラーケウスの血縁のようで。そんな彼女は両親を故郷で一緒に眠らせてあげたいと言い、真っ二つに割れた水晶の瞳とうさぎのぬいぐるみが眠る墓をウィオラーケウスに託していった。
「リコリスの半身はね、彼女と同じ半石人の男の子だったよ」
そこでふと、ウィオラーケウスは思ってしまった。なぜ、兄の半身は人間だったのだろうか、と。
もし兄の半身が人間ではなく同じ石人だったのなら、兄は今も隣で笑っていたのではないだろうか――そんな、昏いもしかしたらを。
「なんで、石人の半身は石人だけじゃないんだろうね」
いくら嘆いたとて変わらぬ現在。どれだけ悔いても変わらない過去。ウィオラーケウスは、それらに届かない言葉を投げる。そんなことをしても、何かが変わるはずもないのに。
「そういえば、トートの半身も石人じゃなかったなぁ……」
だからそんな不毛な思考を追い出すため、代わりにもう五年くらい会っていない友人の顔を思い浮かべた。彼の涼やかな守護石と恋人、そして息子なんだと見せてくれた少年の寝顔を思い出す。
「そういえばトートには昔、ミラビリスを無理やり押し付けたんだっけ。でもまさかそのあとに、また子供を拾って育ててるとは思わなかったけど」
どこまでもお人好しで優しい友人。同じく愛情深いその半身。その二人に愛情いっぱいに育てられていた赤毛の人間の少年。全員種族は違えど、彼らはたしかに家族だった。その温かな三人の姿に、ウィオラーケウスの沈んだ心が少しだけ浮上する。
「しかしあの子、なんて名前だったっけ? エルメス? いや、ヘルメスだったっけ? ……あれ、つい最近どこかで聞いたような」
「ヘルメスって、今回の商売のついでにセーピオーティコンに送り届けた半石人の男の子も同じ名前でしたね」
「ああ、それだ! って、ヴァティか」
いつの間にやらウィオラーケウスの隣にいたのは、つい最近虎目石商会に入ってきたばかりのヴァイティスという名の少女だった。ヴァイティスは守護石――紅電気石――と同じ苔桃色の瞳を細め、肩までの緑がかった金の髪を揺らすと、「ヴァティかとは失礼ですね」と口を尖らせた。
「ごめん、ごめん。で、どうしたの? ティグリスさんに戻ってくるように言伝でも頼まれた?」
「違いますよ。ティグリスさんたちは完全に酔いつぶれて寝てます。……なんとなく、ウィオラーケウスさんが辛そうに見えたからついてきちゃいました」
ウィオラーケウスは表面上はなんでもないという顔で笑みを返したが、内心は年下の少女に見抜かれて心配されていたことに少々の気恥ずかしさを感じていた。けれどだからといって、それを後輩、ましてや自分よりだいぶ年下の少女に白状してすがるほどウィオラーケウスは素直ではない。
「そんな風に見えた? なんか、ごめんね。でも、大丈夫だから」
「馬車の中でリコリスちゃんと話してた、お兄さんのことですか?」
ヴァイティスの問いに、ウィオラーケウスは一瞬だけ笑顔を固くしてしまった。
「ごめんなさい。踏み込み過ぎましたか?」
「あー……いや、別にいいよ」
「じゃあ、聞かせてください」
「聞かせてくださいって、兄さんのこと?」
ヴァイティスの予想外の言葉に、ウィオラーケウスは正直戸惑っていた。なぜ彼女が兄のことを知りたいのか、その理由がわからなかったから。
「ヴァティってさ、今いくつだったっけ?」
「成人したばかりですから、百ですね」
「てことは兄さんがまだここにいたとき、ヴァティは八歳……完全に赤ん坊だよね。記憶にもないだろうに、ヴァティはまた、なんで私の兄さんのことが知りたいなんて思ったの?」
首をかしげたウィオラーケウスに、ヴァイティスは深いため息を返した。
「そんなの決まってるじゃないですか。ウィオラーケウスさん、お兄さんのことで気持ちが沈んでいたんでしょう? だからですよ」
「私が兄のことで落ち込んだからって、なんでヴァティが兄さんのことを聞くの?」
ウィオラーケウスはヴァイティスの意図が読み取れず、ただただ戸惑う。そんな彼の様子に、ヴァイティスは先ほどよりさらに深いため息を吐き出した。
「じゃあ、一から説明しますね。まず、私はウィオラーケウスさんを半身だと思っています」
「待って。その一からの説明の一の部分がすでにわからないんだけど」
「わかりませんか? 私はわかりますよ。私の半身はウィオラーケウスさんです。絶対そう」
「いや、そうじゃなくて……まあ、いいや。で、何をもってそこまで言い切れるの? 現時点で私はヴァティに何も感じてないし、異性として意識したこともなかったよ」
ウィオラーケウスの答えにヴァイティスはおかしそうに、「気づいてなかったんですか?」と笑った。
「ウィオラーケウスさん、私が他の男の人と話してたりすると必ず見てきますよね。あと、付き合い長いティグリスさんたちはいまだに名前呼びなのに、私なんて出会って翌日から愛称で呼ばれてます」
「…………気づいてなかった。けど、それは私の方の行動だよね。ヴァティは、なんで私を半身だと思ったの? 私のその行動のせいで、意識してしまっただけとかじゃないの?」
ヴァイティスはちっちっと舌を鳴らすと立てた人差し指を振って、ウィオラーケウスの言葉を否定した。
「たしかに最初は普通に意識しただけだったかもしれません。でも気持ちがたしかになるにつれ、心の中に湧きあがってきた不思議な感覚があったんです。酔っぱらったときみたいな、ちょっと普通じゃない幸福感。多幸感っていうんですかね?」
酔っぱらったときみたいな、ちょっと普通じゃない幸福感――それはかつて、兄からも聞いた言葉。酔えないウィオラーケウスには、想像もつかない感覚。
「でもその割にきみ、今も私に普通に接してきてない? とてもそんな風には見えないんだけど」
「顔に出にくいだけです。今だってすごくドキドキしてるし、頭の中だってふわふわしてます。心臓の音、聞いてみます?」
ウィオラーケウスはヴァイティスの頭を軽く叩くと、「女の子がそんなこと言うんじゃありません」と顔をしかめた。
「誰にだって言うわけじゃないです。ウィオラーケウスさんだったから言ったんです」
「私にもそんなこと軽々しく言うんじゃありません。まったく、最近の若者の倫理観はいったいどうなってるんだか」
「ウィオラーケウスさんの倫理観が固すぎるんですよ! 私たちは半身を見つけるためにたくさん恋をしなきゃなんですから、それくらいグイグイいかないと機会を逃しちゃうじゃないですか」
見た目は少年のような少女の生々しい部分を見せつけられ、ウィオラーケウスは少々たじろいでいた。同じ石人でも半身を求める気持ちには個人差がある。もちろん見つけてしまえばみな夢中になってしまうが、見つける前ならば淡泊な者も珍しくはない。ウィオラーケウスは、その淡泊な方の部類だった。
「いいねぇ、みんな。酔っぱらえたり、恋に夢中になれたり……私は、どうもその辺が鈍いみたいでね」
「鈍いだけで、ないわけじゃないんですよね? だったら気づいてください。ほら、ここに半身がいますよ」
隣で大きく両手を広げた少女に、ウィオラーケウスは苦笑した。
「ありがとう。ヴァティ見てたら、なんか気持ちが軽くなってきたよ」
ウィオラーケウスは立ち上がると墓に背を向け、来た道を元へと戻り始めた。
「ほら。帰ろうよ、ヴァティ」
墓の前に座り込んだままのヴァイティスに声をかける。けれど、彼女は座り込んだまま動かない。
「ヴァティ?」
「ウィオラーケウスさんのヘタレ!」
立ち上がり叫ぶと、ヴァイティスはウィオラーケウスを追い抜いて走り去ってしまった。あっという間に見えなくなってしまった少女の姿に、ウィオラーケウスの胸は妙なざわめきを覚えていた。