睡蓮からの手紙 ~ラピスラズリ~ ★
親愛なるトートへ
あなたが旅立ってから三年――
ヘルメスは十八になりました。あなたの工房を継いで、今では一人前の精霊錬金術師として立派にやっています。
そうそう、半身も見つけたのよ! とてもかわいらしい半石人の女の子でね、リコリスっていうの。二人は本当に仲がよくて、見ているだけでこっちまで幸せな気持ちになっちゃう。リコリスはずっと閉じ込められていたらしくて、外のことを全然知らないんですって。だからヘルメスと私たちは、リコリスに色んな場所をみせてあげたくてあちこち旅をしていたの。その旅の間にも、本当に色々なことがあったわ。
そんなこんなでここ一年ほど家を空けてしまったのだけど、ようやく帰ってこられました。そして実感したのは、私はやっぱりここが一番好き。どんなきれいな湖よりも、仲間がたくさんいる場所よりも、ここが好き。
あなたと一緒に仕事をした工房、あなたと一緒に本を読んだソファ、あなたと一緒に食事をしたテーブル、あなたと一緒に眠ったベッド……あなたとの思い出が、あなたの気配が、この家にはたくさん詰まっているから。
ただいま、トート。
※ ※ ※ ※
「笑って、ヘルメス。そしていつか見つけて、あなただけの半身を。私以外の、真に心を許せる相手、共に未来を歩める相手を。私があなたにしてほしいのは、後悔や贖罪なんかじゃありません。真に願うのは、この先もあなたが笑って、そして幸せに生きていってくれることです」
守護石を失い、日々やつれていくトート。ベッドに横たわる彼は、愛しい息子に向けて精一杯の笑みを向けていた。
「うん。うん、僕、いつか見つけるよ。トートが望むなら、僕だけの半身を」
「ヘルメス……そうじゃない、そうじゃないんです。私のためとか、そういうこと……じゃ……」
力なく首を振ったトートの言葉は、けれど最後まで紡がれることはなかった。眠ってしまったのだ。
事故からもうすぐ一年――ここ一月、トートは一日の大半を眠って過ごしていた。もう、起きていられるほどの体力が彼には残っていなかったから。
――石人は死期が迫ってくると、眠る時間がとても長くなるとは聞いていたけど……
ウンディーネはヘルメスの隣で、ベッドに横たわるトートを静かに見つめていた。
「ウンディーネ。僕、作業してくるね。少しでも稼がないと……もうこれ以上、トートに不自由なんてさせたくないから」
「ええ、わかったわ。大丈夫、トートのことは私がちゃんと看ているから」
「うん、お願い」
罪の意識で押しつぶされそうな少年の後ろ姿は、ウンディーネの心をきつく締め付けた。彼女は部屋を出ていくヘルメスの後ろ姿を見送ったあと、ベッドへと視線を移す。そして床に膝をつくと、眠るトートの顔をじっと見つめた。
「自己犠牲は美しく尊い。とても素晴らしくて、でも……」
ぽろり、と。ウンディーネの空色の瞳から、雨雫がこぼれ落ちた。
「とても、残酷。……ねえ、トート。あなたがヘルメスを助けたいって思った気持ち、私もすごくわかるわ。私だって、できたらきっとそうしてた」
ウンディーネはベッドに突っ伏すと、眠るトートの胸に顔をうずめる。
「でも、でもね。苦しいの。助けられたヘルメスも、残される私も、すごく苦しいの」
ウンディーネの降らせる雨が、トートの胸に温かな水たまりを広げていく。
「ごめんな、さい」
弱弱しいかすれ声に、ウンディーネは慌てて顔を上げた。けれど寝ているのか、トートのまぶたは閉じられたままで。
「トート?」
「ごめ……さ……」
繰り返されるのは、途切れ途切れの謝罪の言葉。何度も何度も繰り返される「ごめんなさい」。
「トート、違うの。責めてるわけじゃ……私、違って……ごめんな、さい」
「わかって、います」
予想外の返事に、ウンディーネはついまじまじとトートの顔を凝視してしまった。けれど、やはりそのまぶたは閉じられたままで。
「すみません。もう目を開けるのも、少し辛くて」
「ううん、大丈夫! トート、お水飲む?」
「ありがとう。でも今は、ちょっと飲めそうにないので」
「じゃあ他に何かしてほしいことある?」
トートはかすかにうなずくと、首にかけられていたチェーンをはずした。そこには小さな鍵がついており、彼は震える手でそれをウンディーネへ差し出した。
「そこの戸棚の、鍵のついた引き出し。そこに入っているものを……持ってきて、ください」
「わかった! すぐ持ってくる」
引き出しに入っていたのは、飾り気のない小さな箱。たったそれだけ。ウンディーネはすぐにそれをトートのもとへ持って行った。
「ありがとう。……開けてみ、て」
言われるがまま、ウンディーネは素直に箱を開けた。
「……瑠璃の耳飾り? でもこれ、片方しかないけど」
「いいんです。片方は……ここに、あるので」
うっすらと目を開けたトートは前髪を払うと、瑠璃の耳飾りがつけられている左耳を出した。
「ニンファエア。それを、あなたの右耳につけて欲しいんです」
ニンファエア――それは、トートだけが呼ぶことを許された名。水の乙女が永遠を誓った半身に捧げた、真なる名。精霊の魂を縛る、真名。
「これを? うん、わかった」
ニンファエアは言われるがまま、素直に瑠璃の耳飾りを右耳につけた。
「ごめんなさい。私は今から、あなたにとてもひどいことをします」
「いいよ。トートなら、いいよ」
ニンファエアはトートの胸に顔を乗せると、くすくすと笑って答えた。
「ニンファエア……私が死んだあとも、どうか私だけを想っていて。他の誰かを、好きにならないで」
「そんなこと。水の乙女はね、人魚と同じで一生に一人しか選ばない。だからね、そんなの当たり前よ」
ほっと安堵の息をもらしたトートに、ニンファエアはまたくすくすと笑った。だんだんと弱まっていく半身の鼓動を聞きながら、水の乙女は永遠を誓う。
「それと、ヘルメスのことを……頼みます。あの子は、私とあなたの……」
「わかってるよ。血が繋がってなくても、種族が違っても、あの子は大切な私たちの息子だもの」
※ ※ ※ ※
そういえばこの前ヘルメスにね、「トートには半身っていたのかな?」って聞かれたの。
隠していたとはいえ、あの子、全然かけらも気づいてなかったの。でも、よかった。もしあの頃に私たちの関係を知ってしまっていたら、あの子、きっと罪悪感に潰されてしまっていただろうから。
あなたへの罪悪感に加え私への罪悪感もだなんて……そんなもの、私は愛する息子に背負わせたくなんてない。それに私はヘルメスのこと、恨んでなんてないもの。むしろあの子がいたから、あなたから託されたから、私は今も生きていられるのに。
あなたへの罪悪感でいっぱいだったあの頃のあの子にはとても言えなかったけど、もう大丈夫だよね。過去を乗り越えて、半身を得て、色々知った今のあの子なら。
それに私、あの子にはたくさん愛を注いできたもの。私だって、トートに負けないくらいヘルメスのこと愛してるって示してきたつもりよ。それなのにあの子が私に負い目を感じるようなら、そのときはどれだけ私があの子を愛しているかを語ってあげるわ。
だからね、今度あなたと私のこと、話してみようって思ってる。
あなたの半身 ニンファエアより
※ ※ ※ ※
ウンディーネは封筒に入れた手紙を海へ流すと、愛する家族が待っている家へと帰っていった。




