11.お姫様、見たくない現実を見せられる
真っ青に晴れ渡った秋空を、花緑青色の遠浅の海の上を、ウェリタスの変声前の少年の歌声が駆け抜ける。
――なに、これ? 知らない……こんな気持ち、いらない!
聴いているだけで胸が、頬が熱くなってくる。ロートゥスは炭酸水を飲んだときのような酩酊感の中、あふれんばかりの多幸感が湧き上がってくるのを感じていた。
――違う! 違う違う違う‼ だめ……違うの……
理性では必死に否定するものの、ロートゥスは本能でこの気持ちの正体を理解してしまっていた。
「違う……違う! 半身なんて、いらない‼」
何かを期待するようなウェリタスに、ロートゥスは否定を投げつけてしまった。戸惑うウェリタスの姿にこみ上げてくるのは罪悪感。
けれど、この気持ちをロートゥスは認めるわけにはいかなかった。
「……半身、だったのか」
本当はもう、ロートゥスにもわかっていた。オルロフを想っていたときとは違う、自分の意志では選べない呪いのような強制力。心を縛る、半身への執着。
「ちがっ、違います! それに、ウェリタスは女性ですよ‼」
でも、それでも――ロートゥスは抗った。本能がウェリタスを選ぶというのなら、自分はウェリタスを選ばないと。
それに、ウェリタスは女性だ。本能が半身を選ぶというのならば、ウェリタスが半身であるはずなどないのだ。だから、ロートゥスは抗う。
「じゃあさ、こういうのは知ってる? 半身は種族どころか、性別も問わないってこと」
抗うつもり、だった。
「それどころかさ、中には生き物以外が半身の石人もいるんだよ。繁殖することもできないってのに、俺たち石人の本能ってのはどうなってるんだろうね?」
だったというのに。カリュプスが話す石人の生態は、ロートゥスの常識も想像も遥かに超えていて。彼女が抗うための拠り所としていたものを、ことごとく崩していった。
「ふたりだけ、ずるい! 僕にも、説明‼」
どうにかして抵抗しようと考えを巡らすロートゥス。けれどその思考は、ウェリタスの声によってあっさりと断たれてしまった。どんなに深く思考の海に沈んでいたとしても、ウェリタスの声はロートゥスをいとも簡単に掬い上げてしまう。
「ああ、ごめんごめん。要はロートゥスの半身は――」
「カリュプス様! なぜ、言い切れるのですか? あなたは半身を見つけたことはないとおっしゃっていました。ならば、半身を見つけたときの気持ちなどわからないのではないですか?」
とはいえ、ロートゥスも本能ではもう肯定していた。ウェリタスが半身だと。
けれど、ロートゥスは認めなかった。認めてしまったら、あのオルロフを想った日々が嘘になってしまうような気がしたから。オルロフへの想いは一方的だったとはいえ、たしかに本当の恋だった。だからロートゥスは、それを否定されたくなかった。
「たしかに俺は、自分の身に起こる変化はわからないよ。でもね、半身同士なら嫌ってほど見てきた。……俺の両親は、半身同士だったから。そしてふたりは、どちらも女性だった」
そこから語られたのは、ロートゥスが知らなかった業ともいうべき石人の奇妙な生態。
「わたくしたちは……石人とは、そこまで……」
「そうだよ。俺たちは半身に関しては狂気の沙汰な種族なんだ。とはいえ、石人全員がこの性質を承知してるわけじゃない。俺はたまたま母さんたちがそうだったから知っただけ。あと割合で言ったら圧倒的に生物、それも石人同士、そして男女の組み合わせが多いよ」
「では、わたくしは……でも……」
それでも、ロートゥスはやはり認めることができなかった。本能ではなく自分で選んだオルロフに執着したように、今は本能を否定することに執着していた。
心を映したように揺れる瞳で、ロートゥスはウェリタスを見る。
「認めなよ、ロートゥス。幸か不幸か、きみは見つけてしまったんだ」
いきなり話の中心に放り込まれたウェリタスは、オロオロとふたりを交互に見返すことしかできなくて。
「なりゆきで首をつっこんじゃったけど、俺はここまでかな。じゃあね、ロートゥス。幸せになるもならないも、すべてはきみの心ひとつだよ」
そう言い残すと、カリュプスは背を向けてさっさと行ってしまった。そして砂浜に残されたのは、ロートゥスとウェリタスのふたりきり。
「アイツ、結局何が言いたかったんだろ?」
首をかしげるウェリタスに、ロートゥスは沈黙を返すことしかできなかった。
――わたくしは、どうすれば……
真実が口にできないウェリタスの代償のせいで、ロートゥスはいまだ彼のことを少女だと思っていた。そして同性は恋愛対象ではないロートゥスにとって、ウェリタスを半身だとはどうしても認めがたく。
――もしこのまま本能に負けてウェリタスを選んでしまったら……わたくし、男性になってしまうのかしら? そのときは、心も変わってしまうの? 心が変わってしまったら、オルロフ様を想った日々は、あの気持ちは……
にわかには信じられないような石人の生態。しかしロートゥスには、それがカリュプスの嘘だとは思えなかった。おかげで今ロートゥスの頭の中はぐちゃぐちゃで、ウェリタス以上にどうしていいかわからなくなっている。
ロートゥスもウェリタスもどうやって話を切り出せばいいのかわからず、沈黙の砂浜には波の音と海猫の声だけが響いていた。
「あの、ウェリタス」
先に沈黙を破ったのはロートゥスだった。
「突然わけのわからない話に巻き込んでしまい、申し訳ありませんでした。……皆も心配していることでしょうし、戻りましょう」
するとウェリタスは口を押さえながら、嫌だという風に首を横に振った。そして立ち上がろうとしたロートゥスの服のすそを掴むと、泣きそうな顔で見上げてくる。
「ウェリタス?」
「……僕?」
不安そうに見上げてくるウェリタスの姿に、ロートゥスの心は再び嵐の前の海のように波立ち始めた。罪悪感、羞恥心、自制心――そして、本能からの欲求。さまざまな波が、ロートゥスの心を嵐へと誘う。
「半身、僕?」
たどたどしく言葉を紡ぐウェリタスに、ロートゥスは安心させるように微笑んだ。
「安心してください、ウェリタス。わたくしは、本日にでも修道院から出ていきますから」
ロートゥスは決意する。本能が自分をおかしくしてしまう前に、ウェリタスの前から姿を消そうと。遥か年下の少女の人生に、自分のような異物は必要ないと。
――大丈夫。わたくしはまだ、大丈夫。だから、わたくしがわたくしであるうちに……
「なんで‼」
叫ぶと、ウェリタスは膝立ちのロートゥスにしがみついた。華奢な腕がロートゥスの腰に回され、小さな頭が腹に押し付けられる。
「僕は、ロートゥスが嫌いだ!」
ウェリタスの「嫌い」が、ロートゥスの心に突き刺さる。
「嫌いなんだ、大嫌いなんだよ‼」
その「嫌い」は、なぜかロートゥスの心を熱くした。
――ウェリタスの「嫌い」は、なぜかしら。今のわたくしには、「好き」だって言っているように聞こえる。これも、半身の強制力なの?
知らず知らずのうちにロートゥスもまた、ウェリタスの頭を抱え込んでいた。しかし、湧きあがる愛しさに飲み込まれそうになっていた自分に気づくと、ロートゥスは慌ててその手を離した。
「ウェリタス、わかりました、わかりましたから。ですから、わたくしは――」
「僕の言葉を聞かないで! 僕の言葉を、信じないで」
腰に回された腕が、さらに強くロートゥスを締め付ける。ウェリタスの声が、ロートゥスの心を締め付ける。
「聞かないで? 信じないで? それは、どのような」
眉をひそめたロートゥスを、ウェリタスが勢いよく見上げた。
「僕は、歌が嫌いだ。僕は、嘘をつかない。あとは……あっ」
ウェリタスはロートゥスから目を逸らすと、「ロートゥスは人魚の生態って詳しい?」と真っ赤な顔で聞いてきた。
「人魚、ですか? 下半身が魚で、寿命は三百年前後。王都はマルガリートゥム。カエルラの沖にあって、だからかカエルラは人魚のお話がたくさんあるそうですね」
「それだけ?」
「はい。わたくし、ここへ来るまで極夜国を出たことがなかったもので」
するとウェリタスはロートゥスから離れ、立ち上がると突然服を脱ぎ始めた。
「ウェリタス⁉」
「あともうひとつ。男人魚はね……普通、交尾のときにしか生殖器を体外に出さないんだ」
そして一糸まとわぬ、生まれたままの姿になったウェリタス。彼は真っ赤な顔で――
「僕は、女だ!」
叫ぶと、普段は隠されているソレを出した。