6.人魚姫(♂)、背中を押される
あれから毎夜、ウェリタスは丘の上の修道院へ向けて歌を送り続けた。返ってくる、どこか寂しげな甘い声を期待して。
そんな彼女との斉唱は、回を重ねるごとにウェリタスの胸を海底火山のように熱く、嵐の海のように荒ぶらせた。
「無理、もう我慢できない! 会いに行く‼」
目の前のカリュプスに向かって、ウェリタスは涙目で宣言した。
「会いに行くったって、どうやって?」
「カリュプス運んでよ。アンタ毎日あの修道院通ってんじゃん。ずるい!」
ウェリタスのわがままと八つ当たりに、カリュプスの中に少しだけ意地の悪い心が芽生える。
「ずるくないし。あと無理、絶対無理。俺、力仕事苦手だし。だから俺は今まで通りひとりで通うし、恋敵の手伝いなんてしてやらないし」
「ケチー! カリュプスばっかずるいー! 僕も行きたいーーー‼」
だから大人げないとはわかっていたが、カリュプスはほんの少しだけ意地悪を言ってしまった。
「じゃあ僕、人間になる! ちょっと魔法使い探してくる‼」
「あ、バカ! ウェリタス、待て待て――」
まさか、こんな結果になるとは思わずに。
頭に血が昇ったウェリタスはカリュプスの制止を振り切ると、勢いよく海の中へと飛び込んでしまった。
「あー、まずかった……よな。ちょっとからかい過ぎたか?」
ひとり入り江に取り残されたカリュプスは、しまったなぁという顔で頭をかいていた。
※ ※ ※ ※
「あ、ウェリタス! お前、なんの連絡もなしに何日も‼」
勢いで村まで戻ってきたウェリタスを出迎えたのは、村の入り口にいた村長だった。
「ごめん~。海の上が面白くて、つい」
「つい、じゃないわ! みんなどれだけ心配したかと――」
愛ゆえのお説教だとわかってはいても、今のウェリタスにはその時間ももったいない。彼は「ごめん、おばさんにも謝ってくるから」と村長の説教から逃れると、カジキのような勢いで自宅へ向かった。
「おばさん、ただいま!」
「ウェリタス! アンタ、何日もどこほっつき泳いでたの‼」
扉を開けたウェリタスを出迎えたのは、鯨のような立派な体型をした中年女性の人魚。
「ウェリタスだ~。お帰り~、海の上ってどんなだった?」
「楽しかった? ねぇねぇ、お話聞かせて~」
「ウェリタス、遊ぼ~! 今日、お船の探検に行くんだよ~」
そしてその後ろからわらわらと出てきたのは、小さなたくさんのこども人魚たち。
「おばさん、ごめん! あ、おまえらもごめんな。ちょっと大ばあちゃんに用があるから、また今度な」
「あ、こら! ウェリタス、ちょっと待ちな――」
こどもたちに群がられて身動き取れないおばさんを振り切ると、ウェリタスは奥の部屋を目指した。
ここはウェリタスの自宅。けれど、ウェリタスの両親はいない。ふたりともウェリタスが小さな頃、事故で亡くなってしまっていたから。そんなウェリタスを引き取ってくれたのは、父の母の母である大ばあちゃんと、父の妹であるおばさんとその番のおじさんだった。
「ただいま、大ばあちゃん。起きてる?」
大きなシャコガイの中で微睡んでいた老年の人魚は、ウェリタスの呼びかけにゆっくりと身を起こす。すでに三百を越した彼女はずいぶんと小さく皺だらけになってしまっていたが、その面差しはウェリタスとの血の繋がりを如実に表していた。
「おやおや、ウェリタスじゃないか。なんだか久しぶりだねぇ」
「たぶん、五日ぶりくらい? 僕、十五になったから海の上に行ってたんだ」
「ああ、ああ、そうだったねぇ。ウェリタスも、もう立派な大人になったんだねぇ」
にこにこと穏やかな笑みを浮かべながら、老人魚はそばにきたウェリタスの頭を皺だらけの手でなでた。
「それでさ……今日は、大ばあちゃんに教えて欲しいことがあって来たんだ」
「おやおや、何かお困りかい?」
「大ばあちゃんは昔、魔法使いに会ったんでしょ? ねえ、どうやって? 魔法使いって、どこに行けば会えるのかな?」
ウェリタスの頭をなでていた曾祖母の手が止まった。
「大ばあちゃん、僕ね……人間になりたいんだ。人間になって、陸の上に行きたいんだ」
「おやおや。それはまた、ずいぶんと難儀な願いだねぇ。ウェリタスは、どうしてそんなに陸へ上がりたいんだい?」
困ったように笑う曾祖母に、ウェリタスも困ったような笑みを返す。
「陸にね、会いたい人がいるんだ。ちょっと寂しそうに歌う、すごく優しい声の女の人でね――」
海の上に上がったときのこと、カリュプスを助けたこと、そのカリュプスから女の人を助けたこと、そしてその人と毎晩一緒に歌ったこと……ウェリタスは海の上で体験したことを、あますことなく曾祖母へと話した。
「そうかい……ウェリタスは、本当に大人になったんだねぇ」
「僕もう大人だよ! 十五になって、海の上にだって行けるようになったんだから」
心外だと頬を膨らませたウェリタスの頭を、曾祖母は微笑みながら優しくなでた。
「そうだねぇ。それに、恋もしたものねぇ」
「こい?」
「そう、恋。ウェリタスのお父さんがお母さんを好きになったように、ウェリタスもその子が好きになったんだろう?」
曾祖母のあたたかな声は、ウェリタスの心にすとんと落ちてきた。
「好き……そっか。僕は、あの人に恋をしたんだ」
頬を赤らめ初恋を自覚したウェリタスのその姿に、大ばあちゃん――ガルデニア――の脳裏になつかしい面影がよぎる。
――まるで、あの頃のリリィたちのよう。
六年前に逝ってしまった、末の妹とその番。ふたりのことを思い出し目を細めると、ガルデニアはウェリタスをまぶしそうに見つめた。
「大ばあちゃん。僕、足がほしい。陸を歩くための、あの人に会いに行くための、二本の足が」
「もう、決めてしまったのかい?」
「うん。あの人が僕を選んでくれるかはわからないけど、でも、会いにも行けないんじゃ始まりもしないから」
「ウェリタスが行ってしまったら、みんな悲しむねぇ。それに違う世界で生きるっていうのは、とても大変なことだよ」
ガルデニアの言葉に、ウェリタスは悲しい顔でうつむいた。けれどすぐに顔を上げると、彼はガルデニアをまっすぐ見返した。
「それでも。それでも、僕は行くよ」
「あなたも……みんな、本当に。ならば、行きなさい。ここから東、王都マルガリートゥム。その手前の海藻の森の中に、海の魔法使いの棲み処があるから」
なんのためらいもなく、妹のために自分の生きてきた世界を捨てた石人の青年――その姿がひ孫に重なり、ガルデニアは懐かしさと悲しさ、そして諦めの入り混じったため息をもらした。
「ありがとう、大ばあちゃん」
ウェリタスはガルデニアに飛びつくと、その小さな体をそっと抱きしめた。
「人魚も情が深い生き物だからねぇ。今のおまえじゃ、何を言ったところで聞きやしないだろうし。なら、後悔しないように、思うままにやっておいで」
「海に戻れなくなっても、僕、歌うから。大ばあちゃんへ、みんなへ届くように、海に歌うから」
こうして曾祖母のガルデニアから魔法使いの居場所を教えてもらい、ウェリタスは東へと旅立った。かつてガルデニアたちが助けを求めた、海の魔法使いを目指して。
そう、海の魔法使いを探していたはずだったのに――
「いいでしょう。貴方の望み、この額装の魔法使いエテルニタスがお受けいたしましょう」
マルガリートゥムへ向かう途中、岩礁で休んでいたウェリタスの前にその魔法使いは現れた。
髪も服も真っ赤な、燃えるような出で立ち。いちいち大仰な仕草、物言い。そんな怪しさしか覚えないうさんくさい魔法使い。けれど素直で単純なウェリタスは、あっという間にまるめこまれてしまい……
「僕、足が欲しいんだ! 陸の上で暮らすための、人間みたいな二本の足が‼」
「よろしい。その願い、エテルニタスが承りました。ただし……」
魔法使いに願いを叶えてもらうためには、相応の代償を支払う必要がある。かつてガルデニアたちが髪を差し出したように、マーレやリーリウムが声や音を差し出したように。
「この願いの代償は、私を楽しませてくれること。あなたは二本の足と引き換えに、真実を口にすることができなくなります」
「そんな! それじゃ僕は、どうやってあの人に想いを伝えればいいの⁉」
代償の大きさにうろたえるウェリタスに、赤い悪魔は嘯く。
「あなたには美しい姿と二本の足、それよりなにより、その『ものをいう目』があるではないですか」
優しく優しく。赤い悪魔は少年の目を閉ざし、耳をふさぐ。
「それに、あなたが想い人の真心を手に入れられたのならばそのときは……真実は、あなたの舌に戻ってくるでしょう。ただし、想い人の真心を手に入れられなかったそのときは……あなたは、海の泡となって消えます。さあ、どうしますか?」
生き物を狂わせる満月の光の中で、赤い悪魔は嗤う。親切の仮面を貼りつけ、迷い子を誘う。
「……わかった。あんたを楽しませるっていうのはよくわかんないけど、いいよ」
ウェリタスの答えに、エテルニタスは三日月のような笑みを浮かべた。
「真実を口にできなくなることを代償に。額装の魔法使いエテルニタスの名にかけ、ウェリタスに二本の足を与えることを今ここに誓おう……時よ止まれ、汝は美しい!」
そしてエテルニタスの銀髑髏の杖が、ウェリタスの矢車菊の花のような青の尾びれに振り下ろされた。