5.お姫様、背中を押される
カリュプスと名乗った石人は、あれからも何度か修道院へと来ていた。結局は毎回追い返されるのだが、全くめげた様子もなく、またふらりとやって来る。
「ロートゥス。あの石妖精、あなたがここに来る原因となんか関係あったりするの?」
畑仕事の最中、そばかすの少女はロートゥスの隣にやってくると、ささやくようにこっそりと訊ねた。
「おはようございます、フリージア。いいえ。たまたま朝の散歩のときに一度出会ってしまっただけなのですが……」
そばかす少女――フリージア――の顔がしかめられた。
「それだけであんなにしつっこく付きまとわれてんの? 美人だから? やっぱ美人だから? ほんっと、これだから見た目でころっと騙される男は……」
「さあ、わたくしにはなんとも。でも困りました。このままでは、今までのように外を自由に歩くこともままなりません」
「待て待て、ロートゥス。私たち、基本外出禁止だからね? ほんっとアンタときたら見た目はおとなしそうなのに、やることめちゃくちゃだし。お祈りはしょっちゅうサボるわ、夜抜け出そうとして怒られるわ、木に登るわ、オーブンから黒煙あげるわ、独り言激しいわ……」
指折り数えあげられていく己の所業に、ロートゥスはフリージアから気まずげに目を逸らす。
「ここは人目がないから、つい。それと天火の件は、生まれて初めて触ったものだったので勝手がわからなかっただけです。今はもうお勤めの焼き菓子ならば作れます」
「お勤めのやつだけはね。しっかしお料理したことなかったとか、ほんっとお嬢様! ていうか、お姫様? 私もいちおうお嬢様って言われてる身分だけど、料理とかは母さんに仕込まれたなぁ」
「お母様に……。フリージアさまは、とても恵まれておいでなのですね」
「何よ唐突に。その言い方だとロートゥスは恵まれてないみたいじゃない」
フリージアの指摘に、ロートゥスはただ曖昧な笑みを返した。
「それにしても、どうしたものでしょうか。このままではわたくし、息が詰まってしまいますわ」
「いやだから、私たちは基本外出禁止だってば」
カリュプスと出会ってから、そしてあの歌が聞こえてくるようになってから一週間。この一年、平穏という名の退屈の中で変化にすっかりと臆病になってしまっていたロートゥスにとってそれは、期待というよりも不安をもたらすものだった。
「ロートゥス。ちょっとこちらへいらっしゃい」
そこへ、修道女たちのまとめ役をやっている年嵩の修道女がやって来た。彼女はロートゥスを指名すると、畑仕事を切り上げて院長室へ来るようにと言い残していった。
「なになに? ロートゥス、今度は何やらかしたの?」
「何もしてなどおりません、人聞きの悪い。フリージア、あなたはわたくしをなんだと思っているのですか?」
「なんでも卒なくこなすけど実はやることめちゃくちゃな自由人で……あとは傷ついて、ちょっと臆病になってる、かな?」
フリージアの自分に対する評に、ロートゥスは隠されていない方の青い目を大きく見開いた。普段はうわさや町での流行の話、そして退屈な日常の愚痴などでかしましいフリージア。そんな彼女の意外にも鋭かった洞察力に、ロートゥスは思わず感服してしまった。
「色々あったんだろうけどさ、ロートゥスもいつまでもここにいちゃダメだと思う」
フリージアは少しだけ悲しそうに微笑むと、ロートゥスの顔の包帯にそっと触れた。
「ロートゥスはさ、院長たちみたいに神へ一生を捧げるって気もないでしょ? なら傷が癒えたら、すぐここから出た方がいいよ。じゃなきゃ、きっと後悔する」
「フリージア……もしかして」
「あなたも?」と聞こうとしたロートゥスの声にかぶせるように、フリージアは言葉を続けた。
「わたしもね、そろそろここを出ようと思ってるの。だって、人生なんてあっという間よ? 若い時間の無駄遣いなんてしてる場合じゃないもの」
ロートゥスがここに来てから、何かと世話を焼いてくれていたフリージア。わからないことだらけで戸惑うロートゥスに様々なことを教えてくれ、たわいないお喋りで和ませてくれ、いつも笑っていたフリージア。
「あ、ごめんごめん。つい語っちゃったよ~。ほらほら、あんまり遅くなると怒られちゃうよ!」
背中を押すフリージアの温かな手は、ロートゥスの心も押してくれていて。それが選ばれなかった者同士の傷の舐めあいだったとしても、ロートゥスはフリージアの気持ちが嬉しかった。
※ ※ ※ ※
「今日からあなたの後輩になります」
院長室で待っていたのは、初めて見る少女だった。
「初めまして。わたくしはロートゥスと申します」
「僕は……ウェリタス、です」
柔らかに波打つ肩までの金の髪、同じ色の長いまつげに縁どられた潤んだ大きな空色の瞳、華奢でロートゥスよりも低い身長――どこからどう見ても、どうやっても美少女にしか見えないウェリタス。
けれど、それら外見よりもロートゥスの心をざわめかせたのは、その声だった。ウェリタスの少女にしては低い、ハスキーボイス。
「……ぼく? あの、院長。ウェリタスさんは男性でいらっしゃるのですか?」
だから、いちおう確認してみた。女子修道院に男が入れるわけなどないけれど、それでも気になってしまったから。
「まさか。ここは男子禁制、ウェリタスさんは女性ですよ。確認もさせていただきましたし」
「僕は、女だ‼」
とはいえ、やはりというか返ってきた答えは当然のもので。顔を真っ赤にして主張するウェリタスに、ロートゥスは失礼なことを言ってしまったと即座に謝った。
「申し訳ございませんでした、ウェリタスさん。その、ご自分のことを『僕』とおっしゃられておいででしたので、誤解してしまいました」
するとウェリタスはぶんぶんと頭を左右に振って「うん」と言ったあと、頭を抱えてしゃがみこんでしまった。
「ロートゥスさん。あなたにはこちらのウェリタスさんの指導をお任せします」
「わたくしが、ですか?」
「ええ、あなたが。ここでの規則等、きちんと教えてあげてください。あなたが変なことを教えてしまうと、怒られてしまうのはウェリタスさんですから。気をつけてくださいね」
にっこりと微笑む院長に、ロートゥスは表向きは淑女の笑みを、心の中では苦笑いを浮かべていた。
――これは、手綱をつけられてしまったのかしら。ウェリタスさんに迷惑をかけるわけにはいかないですし、しばらくは自重しなくてはね。
「では、ウェリタスさん。わからないことがありましたら、遠慮なく声をかけてくださいね。これから、どうぞよろしくお願いいたします」
「よろしく……しない!」
泣きそうな顔で反発したかと思えばしょんぼりとうなだれてしまったウェリタスの様子に、何か事情があるのだろうとロートゥスはそれ以上追求しなかった。
ここは男子禁制の女子修道院。来るのは神に身も心も捧げた敬虔な信徒か、花嫁修業の令嬢か、事情があって世俗から逃げてきた者たちか……
――逃げてきた……そう、わたくしも。
手に入らなかった運命を恨み、手に入れた者たちを羨み。だからその妬みや羨望の泥で染まりきってしまう前に、きれいごとの雪でおおい隠して逃げてきた。反省のためにと大義名分をかかげ、ロートゥスはここへ逃げてきた。
だからか、とぼとぼと後ろを歩く年若い少女の姿に、ロートゥスは一方的な親近感を抱いていた。同じ逃亡者として。