4.人魚姫(♂)、初恋に歌う
「いててて……」
後頭部に巻貝の直撃を受け倒れ込んでいたカリュプスが、頭をさすりながらゆるゆると起き上がった。
「あーあ、逃げられちゃった」
「アンタ、何やってんだよ!」
波間から顔を出したウェリタスの怒声に、入江の砂浜に座り込んでいたカリュプスが振り返った。
「おお! きみ、さっきの美女に負けないくらいの美少女だね。俺はカリュプス。きみは?」
「誰が美少女だ色ボケ野郎! よく見ろ、僕は男だ‼」
怒りに顔を真っ赤にしたウェリタスをまじまじと見つめると、カリュプスは一言、「もったいない……」とつぶやいた。
「うっさいわ! くっそ、こんなやつ助けなきゃよかった」
ふくれっ面もかわいらしい、どこからどう見ても美少女にしか見えないウェリタス。そんな男の娘がぽろりとこぼした愚痴に、カリュプスがまさかという顔で反応した。
「助けたって……もしかして昨日の嵐の中、船のそばで歌ってた人魚ってきみ⁉」
「そうだけど。それが何?」
ウェリタスの肯定にカリュプスは顔を輝かせると、濡れるのもお構いなしでウェリタスのいる浅瀬までやって来た。
「人魚なんでしょ? せっかくだからさ、ちょっと下半身見せてよ」
「はぁ? なんでオマエなんかに見せなきゃなんないんだよ。やだよ」
「じゃあさ、もう一回歌ってよ」
「そっちもお断りだっての! なんなんだよ、オマエ」
「俺さ、かれこれ百と三十年くらいかな? 成人してからずっと旅してるんだけど……人魚、まだ会ったことなかったんだよ」
しょんぼりとうなだれてしまったカリュプスのそのあまりの落胆ぶりに、ウェリタスはなんだか悪いことをしているような気分になってきて落ち着かなくなってきた。
「そんなに見たいのかよ」
「見たい! 聞きたい!」
期待で輝く鋼色と空色の双眸に見つめられ、ウェリタスはなんだか自分がすごい存在になったような気がしてきた。
「じゃあさ、さっきの女の人の名前……それ教えてくれたら、特別に見せてやってもいいぞ」
「わかった! じゃあちょっと聞いてくる」
言うが早いか、カリュプスは勢いよく丘の上の修道院へと走り出してしまった。止める間もなく、追いかける足もなく。ウェリタスはただ呆然とカリュプスの後ろ姿を見送るしかなかった。
「ごめん。男子禁制で入れなかったや」
しばらくして戻ってきたカリュプスは、なぜか誇らしげに「やりきったぞ」という顔でウェリタスに任務失敗を告げた。
「アンタあんなにしつこく迫ってたのに、名前すら聞き出せてなかったのかよ」
「あのときはあと一押しってとこで邪魔が入っちゃったんだよ。せっかくあんな美人と知りあえる機会だったのに」
「ひ、日頃の行いが悪いから天罰が下ったんだろ!」
「あの巻貝、どこから――」
「まあ、努力は認めてやる。だからその代わり、陸の上の面白い話聞かせてくれたら見せてやってもいいぞ」
カリュプスのつぶやきを打ち消すように、こちらはなぜか上からの物言いでウェリタスが言い切った。そんなウェリタスに一瞬だけほくそ笑んだカリュプス。けれど彼はすぐさまそれを満面の笑みにすりかえると、ウェリタスに「ありがとう! きみみたいなきれいで優しい人魚に出会えて、俺、本当に嬉しいよ」と、まるで口説き文句のようなお礼を流れるように浴びせた。
こうして十五歳の純粋な少年人魚は、あっという間に口説き癖のある石人に丸め込まれてしまった。
※ ※ ※ ※
「やっぱり陸の上のやつらも国によって喋る言葉が違うのか! 僕たち海の住人も、住んでる場所によって違う言葉喋るよ。遠くから来た人は、僕の知らない言葉使ってた」
「今カリュプスが喋ってるのは、ファーブラで使われてる言葉と同じものだね。俺たち石人の国もファーブラの中にあるから、やっぱり同じ言葉を使ってるよ。でも大河の向こうのティエラとかはまた少し違ってた。ただ基本は同じだったから、このままでも通じたけどね」
石人たちが住まう常夜の極夜国、死霊魔術が盛んなティエラ国、神仙と神獣たちが治める大華国、様々な神族や妖が住まう八百万の秋津洲――
石人狩りに遭ったこと、言葉が通じなくて苦労したこと、言葉は通じなくても意外とどうにかなったこと、行った先々の国で起きた恋愛関係の悶着など、カリュプスの話してくれる色々な国の話はウェリタスの心を大いに弾ませた。
「いいなぁ、いいなぁ! 僕も人間になって陸を旅してみたい‼」
「でも人間になんてなったら海の中に戻れなくなっちゃうよ。それに、寿命だってすごく短くなる」
「じゃあ半魚人になる! 昔会ったことあるけど、あの人は水陸両用だって言ってた。まあ、あまり長く地上にいるのは無理だって言ってたけど」
かつての半魚人の話で種となって埋められたウェリタスの陸への憧れは今、カリュプスの話で完全に芽吹いてしまった。しかも現在進行形で、ぐんぐんと成長している。
「半魚人になるったって、ウェリタスは人魚でしょ。半魚人とは別物なんだから、そんな簡単に――」
「魔法使い! 大切なものを差し出せば願いを叶えてくれるって、ルークスが言ってた」
すっかり暮れて暗くなってしまった入江の中で、ウェリタスの瞳だけが期待で星のように輝いている。
「若いねぇ。俺はもう、そんな思い切りなんてつかないや」
「なんだよ、ジジくさいな~」
「俺はもうジジィなの。それよりほら、約束! 尾びれはもう見せてもらったから、次は歌ね」
カリュプスは苦笑いを浮かべたあと、背負っていた竪琴を持ち直して構えた。
「月華の故郷って歌、知ってる?」
「知ってる知ってる! 僕が生まれるずっと前に、マルガリートゥムのお姫様が歌劇をやって流行らせた歌でしょ」
「それは知らないけど、知ってるなら話は早いや」
カリュプスは竪琴に指を滑らせると、美しくも物悲しい旋律を奏で始めた。途端、ウェリタスの雰囲気も変わる。彼は目を閉じ、一度深く息を吸い込み――
目を閉じればよみがえる
懐かしき我が故郷
月明かりに包まれた
美しき我が故郷
生まれたのは、繊細な変声前の少年の歌声。それは寄せては返す波のさざめきを供に、潮風に乗って夜のしじまを軽やかに踊る。
魂の欠片を求め彷徨う
当てのないこの旅路
夜空に浮かぶ月だけが
故郷と私を儚く繋ぐ
故郷を離れたことのないウェリタスにとって、この歌詞に込められた心情は正直よくわからない。けれど、哀愁漂う旋律はお気に入りで、海の中でもよく歌っていた。
風に導かれ波に乗り
まだ見ぬ世界へ私は進む
求めるは我が魂の欠片
まだ見ぬ運命の半身
途中からウェリタスの歌に合わせるように、柔らかな女性の歌声が加わってきた。それは上の方から――丘の上の修道院――から聞こえてきていた。
遥か遠い故郷を胸に抱き
私は独り荒野を進む
分かたれた魂の欠片を求め
無限の荒野を彷徨い歩く
歌うために生まれてきた人魚であるウェリタスだけが気づいた、甘い甘い、心臓を締め付けるような、まるで鋭い棘をもつ薔薇のような甘い声。それは、今朝出会った女性のものだった。
その甘いけれど苦しくなる声をもっともっと聴きたくて、ウェリタスは歌に魔力を乗せた。
――優しくて寂しい声の人。
魂の欠片を求め彷徨う
当てのないこの旅路
夜空に浮かぶ月だけが
故郷と私を儚く繋ぐ
――名前を教えて。きみの声は、僕の心臓を甘く締め付ける。
歌いながら、声の主に訴えかけた。思ったことをそのままに、すべて歌へと乗せて。
普段のウェリタスならば恥ずかしくて絶対に口にできないような言葉、それらを故郷を懐かしむ歌に乗せて解き放つ。
――こんな気持ち、初めてなんだ。甘くて、痛くて、くすぐったくて、苦しくて、嬉しくて……
けれど、そこで曲が終わってしまった。
「…………きみは、誰?」
物悲しい余韻の中、ウェリタスは丘の上を仰ぎ見る。
夜の闇の中浮かび上がる、月下の修道院を。