1.お姫様、王子様と出会う ★
ロートゥス視点とウェリタス視点が交互になるので、時間軸が多少前後します。
あの日――ロートゥスが運命ではなかった恋を失ってから、もうすぐ一年。
「誰かを傷つけてでも手に入れたいと、あんなにも執着していたというのに……」
大きな嵐が丸洗いしていった、青く澄んだ朝の空。そんな清々しい秋空の下、けれど修道女の服に身を包んだロートゥスの顔は、いまだ曇天模様のままだった。
「わたくしは存外、冷淡な女だったのね」
彼女は小さなため息をひとつこぼすと、丘の上の修道院へと続く、乾きかけの白い道へと再び足を踏み出した。
一年前――
たった一年前まで、ロートゥスには恋い焦がれる存在がいた。
極夜国第五王子オルロフ。
オルロフはいわゆる幼馴染みというもので、ロートゥスは幼い頃から彼こそが自分の半身だと半ば公言していた。
「でも、違ったのよね……」
けれど一年前、オルロフは半身を見つけてしまった。それは、ロートゥスではなかった。
――本当はわかってた。だって、オルロフ様がわたくしにくださるのは、あくまで友人に対する親愛だけだったから。
白い坂の途中で立ち止まると、ロートゥスは右手に広がる大海原へ顔を向ける。
「わたくしの恋は、本物だったのに……」
本能による強制ではなく、自ら感じ、悩み、そして選んだ恋。けれど、その恋は叶わなかった。
――いえ、さすがにそれは傲慢ね。
ロートゥスは道をそれると緩やかな傾斜を下り、砂浜へ降り立った。
――わたくしの恋も本物だった。けれど、オルロフ様やミオソティス様の恋も本物だった。
嵐のあとのまだ荒ぶる波を横目に見ながら、ロートゥスは白い砂浜を歩く。
――あの二人は本能だけではなく、やはり悩んで、傷ついて、些細なことに喜びを感じて……そうやって、気持ちを育てていたもの。
あの頃、オルロフはロートゥスと会うたび、必ずといっていいほどミオソティスのことを話していた。ロートゥスはそのときのことを思い出し、苦い笑いを浮かべる。
「ひどい人……でも、そういうまっすぐなところも、とても好きだった」
いつも茶化してはいたが、ミオソティスのことを語るときの楽しそうなオルロフの顔は、ずっと一緒にいたロートゥスが見たことのないものだった。
けれどその想いは今、思い出になろうとしていた。時と共に薄れていくあの気持ち。ロートゥスは、そんな自分の心の変化が許せなかった。
立ち止まり、またひとつため息をこぼす。
「石人になんて、生まれたくなかった」
ばしゃん――
荒ぶる波の音とは違う、大きな何かが水に落ちたような音がロートゥスの思考を遮った。
「魚?」
大きな岩に遮られた向こうから聞こえてきた不審な音に、ロートゥスの体は自然身構えるようにこわばる。
「それとも……どなたか、いらっしゃるのですか?」
返ってくるのは波の音と海鳥の声だけ。
無視してしまえば終わり。だというのに、なぜか気になって仕方がなく……ロートゥスは意を決して、岩の裏側へと進んでしまった。
――大丈夫。わたくしは今、人間ということになっているもの。もしいたのが石狩りだったとしても、いきなり襲われることはないはず。
ロートゥスは現在、アルブスの修道院で人間として暮らしている。
ひどい怪我を負って顔に傷が残ってしまい、それが原因で婚約が破談になってしまったため世を儚んだお金持ちのお嬢様――極夜国のコランダム公爵家のお姫様ではなく、それが今のロートゥスを表す肩書だった。
その設定を生かし、ロートゥスは守護石のある顔の右側を包帯で隠していた。守護石さえ見えなければ、石人は人間とほぼ差がない見た目。食事のときは食べたふりをするのが大変だが、今のところロートゥスの秘密はまだ守られていた。
おそるおそる岩の向こうを覗き見る。するとそこには――
「もし、どうされたのですか!?」
あおむけに倒れ、膝から下を荒い波に洗われている青年がいた。
髪も服もびしょ濡れで、まるで今さっき海から上がってきたようなその姿。瞬間、ロートゥスの頭を水難事故という言葉がよぎった。
「息は……ある」
ロートゥスは青年の口元に手を当て確認したあと、ゆっくり上下する彼の胸を見てほっと安堵の息をもらした。
「わたくしひとりでは……助けを」
「……ま……って」
走りだそうとしたロートゥスの背に制止の声がかかる。
「も……だいじょぶ、だから」
ロートゥスが振り返ると、青年は咳込みながらも上半身を起こしていた。
「それ、あなた……」
開かれた青年の瞳は、髪と同じ曇天のような鋼色。けれどもう片方は春の空のような、コマドリの卵の殻色の貴石の瞳だった。
「助けてくれてありがとう。俺はカリュプス。見ての通り石人だ。どうやら昨日の嵐で、乗ってた船から放り出されちゃったみたいだね」
「放り出されちゃったみたいなどと、まるで他人事のように。それで、お体の方はなんともないのですか?」
「うん、大丈夫。俺の守護石は空石、加護は『旅の守護』。だから旅をしている間なら、大抵の困難は切り抜けられるんだ」
あははと能天気に笑うカリュプスに、ロートゥスは呆れるやらほっとするやら。そして、少しだけ悲しくなる。
切れ長の瞳に硬そうな鋼色の短い髪。性格、声、仕草、色。何もかも違うというのに、でもその見た目はロートゥスの初恋の君――オルロフ――を思い出させるくらいには似ていたから。
「どうやら助けは必要なさそうですね。では、わたくしはこれで――」
「あっ、待って待って!」
これ以上カリュプスと関わるのは、ロートゥスの精神衛生上あまり歓迎したいことではなかった。なので、早々に立ち去ろうとしたのだが……カリュプスの方は、そうは思っていなかったようで。
「ねえ、名前教えてよ」
「名乗るほどの者ではございませんので。では、道中お気をつけて」
「そこの丘の上の修道院の人? きみ、人間?」
「あなたには関係ありません」
取り付く島もないロートゥスに、なおも食い下がるカリュプス。
「ねえねえ、名ま――ぐぇっ!」
そんなしつこいカリュプスに天罰がくだったのか、突如海の方から巻貝が飛んできた。それは見事カリュプスの後頭部に直撃したようで、彼は声も出せずに前のめりに倒れた。
「では、ごきげんよう」
これ幸いとその場を逃げ出したロートゥス。振り返りもせず、白い道を小走りで登っていく。
この岩陰の喜劇を、波間からじっと見つめていた者がいたとは知らずに。