27.真実の愛による再誕
ぽろり、ぽろりと。パエオーニアの瞳から温かな雨が降り注ぐ。
「私……の、名前。わからない……ない、のに。ないのが、悲しい」
「じゃあさ、僕がきみの名前、つけてもいい?」
「あなた、が?」
ぽかんと見上げるパエオーニアに、マレフィキウムはこくりとうなずくと微笑んだ。初めて出会ったときのようなうさん臭い笑顔ではなく、今にも泣き出しそうな笑顔で。
「パエオーニア。百花の王、牡丹から」
「パエオーニア……私の、名前。百花……パエオーニア…………」
パエオーニアは何度も何度も、呪文を唱えるように自分の名前をつぶやく。噛みしめるように、確かめるように。
「パエオーニア……初めて聞いたはずなのに、すごく懐かしい感じがする。ありがとう、マレフィキウムさん」
耳に馴染んだ大切な人の声が、初めましてとマレフィキウムの心をえぐる。よそよそしい呼び方が、今の二人の距離をマレフィキウムに知らしめる。けれど傷ついたからといって、マレフィキウムはもう立ち止まれない。立ち止まらない。たくさんの人を巻き込んで、望む未来をつかみ取るためここまでやって来たのだから。
「ねえ、パエオーニア。……そこからさ、出たいとかって思わない?」
マレフィキウムの言葉に、パエオーニアの肩がぴくりと揺れた。
「出たいけど、私は無理だから」
「フラスコの中でしか生きられないから?」
パエオーニアは諦めの笑みを浮かべると、こくんと小さくうなずいた。そんな彼女の目の前に、マレフィキウムは青薔薇の入った瓶を差し出す。
「僕は百花の魔法使いマレフィキウム。この青薔薇に見合う代償をくれるなら、僕はきみの願いを必ず叶えてみせる。代わりにきみは、きみの大切なものを差し出すことができる?」
「どんな願いでも? ここから出て、外の世界で生きていくって願いでも?」
マレフィキウムはうなずく。もう魔法がヘタクソだの失敗するかもだの、情けない言いわけなど一切せずに。
「出たい!」
なんの迷いもなく、今度もパエオーニアは即答した。生み出されたばかりでまだ退屈など経験していないはずなのに、それは彼女を動かした。記憶はないけれど、心が、魂が外の世界を欲していたから。
「私にあげられるものなら、全部あげる。だから、私をここから出して! 外へ、連れてって‼」
「わかった。今度こそ僕は、きみをそこから解き放つ。その権利を他の誰でもなく、僕にください。それが、この契約の代償」
マレフィキウムの出した交換条件に、パエオーニアはただただぽかんと呆けてしまった。
「代償が、それ? 私は別にいいけど……それ、あなたになんの利益があるの?」
「大アリさ! 僕はねぇ、一度取り返しのつかない大失敗をしちゃったんだ。それでもいろんな人に助けられて、なんとかここまでやって来た。今のパエオーニアには知ったこっちゃないことかもしれないけど、僕の自己満足のために助けられてくれないかな?」
記憶を失ってしまったパエオーニアには、さっぱりわけのわからないマレフィキウムの理由。けれど、それなのに……パエオーニアは胸の奥、心の奥深い場所から懐かしさと喜びがわきあがってくるのを感じていた。
「そんなことでここから出られるなら、いいよ。私の時間も命も、あげられるものなら全部あなたにあげる」
「いいの? そんなこと言われたら僕は弱いしズルいから、きみを縛り付けちゃうかもしれないよ?」
「いいよ。マレフィキウムになら、いいよ。だって心が、私の意思が、あなたならいいって言ってる。ううん、あなたじゃないとだめだって言ってる」
予想もしていなかった展開に、マレフィキウムは思わず言葉に詰まってしまった。これからゆっくり自分を知っていってもらおうと覚悟を決めていたというのに、まさかパエオーニアの方からこんな言葉を告げられるとは思ってもいなかったから。
「石人はね、本能で半身を見つけるの。見つけてしまえば、自覚してしまえば、石を持つ私たちはもう逃げられない……って、どこかで聞いた気がするんだけど。どこでだったかな? でも、確かに誰かが言ってたの。おかしいよね。私、まだ生まれたばかりなのに」
失ったはずの記憶、それは体とは別に、魂にはしっかりと刻まれていて。ここにいるパエオーニアも、確かにパエオーニアだった。
「それはさ、僕がパエオーニアの半身ってこと? だとしたら、すっごく嬉しいんだけど!」
「そう、だと思う。マレフィキウムを見てると、すごくドキドキする。嬉しくなって、触れたいって思うの。……だから私は、ここから出たい! ここから出て、マレフィキウムの隣に立ちたい。レフィの隣は、私じゃないと嫌‼」
パエオーニアの独占欲に、マレフィキウムは晴れ渡った空のような笑顔で応えた。そして持っていた瓶から青薔薇を取り出すと、パエオーニアの前にひざまずく。
「きみのこれからの時間、全部僕にください。そしてどうか、僕の家族になってください! 百花の魔法使いマレフィキウムの名にかけて、僕はパエオーニアに生涯真実の愛を捧げると誓う。そしてパエオーニアに、夢かなえる奇跡の青薔薇『プラウスス』を捧げる。百花繚乱の未来を来らしめよ」
誓約の言葉と結婚の申し込みが混ざり合った滅茶苦茶な契約。けれど契約は契約で――
「あの馬鹿! お前、ちゃんと制御――」
カストールの叫びも虚しく、有頂天のマレフィキウムは青薔薇の魔法を発動させてしまった。青薔薇プラウススから放たれるのは、花びらと同じ夜明けの紅掛空色の光。青みを帯びた紫の光は、部屋の中のものすべてを包み込む。
「レフィ、踏ん張んなさいよ!」
目も開けられない光の中、パーウォーのマレフィキウムへの叱咤が飛ぶ。それに返ってきたのは、「まかせて~」という気の抜けた能天気な声。一瞬だけ皆の心に不安がよぎる。
「賢者の石、今度は力を貸して! 僕とパエオーニアの夢を叶えるために……ファートゥムの命の欠片、僕たちに力を貸して‼」
夜明け色の光の中に、小さな赤い光が生まれた。それは昇る太陽のように瞬く間に輝きを増すと、マレフィキウムの手の中から流星のように飛び出した。
「プラウスス! 僕とパエオーニアの、夢をかなえて‼」
青い光と赤い光がぶつかり、弾ける。何も見えない真っ白な光の中、ガラスが割れる音が響き渡った。
※ ※ ※ ※
ゆらゆらと、パエオーニアは温かな水のゆりかごで微睡んでいた。
魔法を暴走させて目覚めぬ眠りに落ちてしまったマレフィキウムをなんとか助けたくて、パエオーニアは悪魔と取引した。それがマレフィキウムを悲しませる結果になるとわかっていても、止められなかった。
初めてフラスコから解き放たれ、外の世界に触れ――そしてパエオーニアは、死んだ。
本来ならばパエオーニアの魂は、そのまま消えるだけの運命だった。人造人間に入れられるのは、人の手によって作られた疑似魂。それは人間たちの魂のように輪廻の円環に戻ることはない。人魚の魂のように分解再構築され、新たな魂として生まれ変わることもできない。ただ消える、そういう運命だった。
――逝ってはだめ。
体から解き放たれた瞬間、ほどけそうになっていたパエオーニアの魂を包み込んだのは虹色の泡。温かく儚い、シャボン玉のような優しい泡。寄せては返す波のように穏やかで耳心地の良い声が、ばらばらになりそうなパエオーニアを繋ぎ止める。
――お願い、どうか。
温かい水色の世界で、パエオーニアは揺蕩う。
――あなたはあの子を、置いていかないで。
ゆらゆら、ゆらゆら。温かな石の海の中でパエオーニアは微睡む。新たな目覚めのときを待ち、ゆらゆら、ゆらゆら。
そうして、どれくらいうとうとと過ごしたのだろうか。パエオーニアを繋ぎ止めていた、あの波のような声はもう聞こえない。代わりにパエオーニアを呼ぶのは、懐かしく、泣きたくなるほど愛おしい声。
――今までの僕のことは全部忘れちゃってもいいから、だから目を覚まして。
忘れたくない――そう思うのに、パエオーニアにはこの声の主が思い出せない。
――真実の愛による、再誕。
瞬間、パエオーニアは深い深い海の底から一息に引き上げられた。大切なものをすべて、海の底に残したままで。
目覚めてからは驚きと恐怖と喜びと、絶え間ない感情の嵐がパエオーニアを翻弄した。中でもパエオーニアが一番強く感じたのは、言い知れぬ多幸感。マレフィキウムを見ているだけでこみ上げる、酔ってしまいそうな幸せの気持ち。
そしてマレフィキウムとの会話は、パエオーニアが海の底に置いてきてしまった大切な宝物を輝かせた。その輝きを頼りに手探りで、パエオーニアは大切なものを一つ、また一つと拾い上げる。全部は無理だったが、それでもいくつかは確かにパエオーニアの手の中へと戻ってきた。
「きみのこれからの時間、全部僕にください。そしてどうか、僕の家族になってください! 百花の魔法使いマレフィキウムの名にかけて、僕はパエオーニアに生涯真実の愛を捧げると誓う。そしてパエオーニアに、夢かなえる奇跡の青薔薇『プラウスス』を捧げる。百花繚乱の未来を来らしめよ」
マレフィキウムの言葉はパエオーニアを海から陸へ、そして夜明けの空へと解き放つ。
「プラウスス! 僕とパエオーニアの、夢をかなえて‼」
青薔薇と同じ色の空で、パエオーニアは赤い流れ星を抱きとめた。
※ ※ ※ ※
「ニア!」
散らばったフラスコの破片の中、一糸まとわぬ姿で倒れていたのはパエオーニア。いち早く気が付いたマレフィキウムが必死の形相で駆け寄る。
「ニア、ニア!」
マレフィキウムはパエオーニアを抱き起こし、必死に呼びかける。けれど蒼白の肌にまつげが長い影を落とすばかりで、パエオーニアのまぶたはぴくりとも動かない。まるで人形のようなその姿はエテルニタスの蒐集物を思い出させ、マレフィキウムの不安をどんどんと大きくしていく。
「ニア、お願いだから目を開けて‼」
もはや悲鳴にも近いマレフィキウムの呼びかけ。そんな二人を、テオフラストゥスを除く一同が固唾を呑んで見守っていた。
「……レフィ、キウム」
長いまつげが震え、ゆっくりとパエオーニアのまぶたが上がっていく。蜂蜜色と菫色が入り混じった紫黄水晶のような瞳と――
「ニア、左目が……」
静謐な夜のようだったパエオーニアの瑠璃色の左目。
「まるで……」
それは今、真っ赤に燃える太陽のように赤く染まっていた。