25.夜明けを目指して
『YAG――真実の愛による再誕』
液晶画面に表示されていたのは、パエオーニアと同じ加護の力。それがどんな力なのかいまだマレフィキウムにはわからないが、かつてテオフラストゥスが口にしていたパエオーニアの加護の力と同じものだった。
「これ、ニアと同じ力! もしかしたらやっぱり、この子が……」
マレフィキウムはガラス瓶を引き寄せると、願いを込めてぎゅっと胸に抱え込む。どうかこの子がパエオーニアでありますように、と。
不意に脳裏をよぎったのは、初めて彼女と出会ったときのこと。フラスコの中で退屈そうにしていた女の子。外に出ることが出来ない、かわいそうな女の子。
でも、もしもハイドランジアが殺されておらず、パエオーニアが無事に生まれていたとしたら……マレフィキウムは、パエオーニアに会うことはできなかったかもしれない。だから自分勝手でひどいとは思いながらも、マレフィキウムは残酷なパエオーニアの運命に喜びさえ感じていた。
けれど、そんな奇跡のように繋がった二人の糸を、マレフィキウムは驕りと焦りから自らの手で断ち切ってしまった。自分の過ちや愚かしさはマレフィキウム自身も痛いほどわかっていたが、それでも今の彼には、パエオーニアを諦めるという選択肢は選べなかった。もう一度彼女と会いたくて、そのために周囲を全部全部巻き込んで、マレフィキウムは今、行き先が合っているかどうかもわからない道をひた走っていた。
「あとはもう、作ってみるしかないですね。現時点ではこの子が本当にパエオーニアさんなのか、これ以上ここでは確かめようもないですし」
「うん。でもきっと、この子はニアだよ。なんとなくだけど、そんな気がするんだ。なんていうのかな……そう、きみがあの歯車に引き寄せられてた、あのときと似てる気がするんだ」
ガラス瓶を両手で包み込み、マレフィキウムはミラビリスへ苦笑いを向ける。
あのときは他人事だったことが、今はまさかの当事者に。そしてあのときの当事者が、今度は助ける側にまわって。巡り廻るいくつもの縁の糸が、マレフィキウムたちを舞台の上で踊らせる。
「私たち、今度は何に踊らされてるんでしょうね」
「さあねぇ。でも僕はニアさえ取り戻せるのなら、いくらでも踊ってみせるよ」
※ ※ ※ ※
青薔薇を手に入れたあと、ヘルメスとリコリスの二人とは別れることになった。ヘルメスはパーウォーからがっちり料金を取り立てると、「リコリスと一緒にいろんな世界を見てから、二人でアルブスに帰るんだ」と清々しい笑顔で旅立っていった。
「しっかし、ほんと仲いいわよねぇ、あの二人。あーあ、でもあのかわいい二人がいなくなると、ワタシとしてはちょっと寂しいわぁ」
「ちびっこならファートゥムとプリムラがいるじゃん」
二人が去っていった方を眺めながら未練がましくため息をつくパーウォーに、マレフィキウムが呆れ顔を向ける。
「だってぇ! ファートゥムちゃん、ヘルメスちゃんと違ってイマイチからかいがいがないんだものぉ」
「俺はパーウォーさんにからかわれるためにここにいるんじゃないんで」
「ね! もう、むしろオルロフちゃんの方がかわいい――」
「わけあるか! お前、いい加減にしろよ‼」
ヘルメスたちとの思いがけない出会いによって、素体、青薔薇と求めていたものがとんとん拍子で手に入ったマレフィキウム。まるでお膳立てされているようなこの状況にマレフィキウムとしても思うところがないわけではないが、今は流れに身を委ねるしかなかった。
「さて、と。じゃ、せっかく招待状も貰ってることだし」
腰の物入れから青い貴石を取り出し、マレフィキウムは不敵に笑った。ここまで来たのなら、もう行くしかない。運命の激流に流される覚悟を決めると、マレフィキウムは緑の扉に手をかけた。
扉を抜けた先、一行の眼前に広がるのは鬱蒼とした森。石人と人との諍いから、訪れるものすべてを拒むようになってしまった、霧に沈んだ迷いの森。
「霧の先、夜の国の手前……繋いで、薄暮の森へ」
碧玉を握りしめた拳を森へと突き出し、マレフィキウムは思い描く。昼と夜の境目、薄暮の森へと続く一筋の道を。
「道が、開く」
あのときと同じようにカストールがつぶやいた直後、霧が割れ、森の奥へと続く一本の道が出来上がった。マレフィキウムは懐から人魚石を取り出すと、そっと囁く。
「行こう、ニア。たとえこの先で突きつけられるのが絶望だとしても、僕は進むよ。だって、進まないと何も変わらないから。もう、見て見ぬふりはしない。だから、きみが僕のもとにとどまっていてくれる限り、僕はもう諦めない」
マレフィキウムの独り言に答えるように、彼の手の中の人魚石がきらりと光った。
五十二年前のあのときと同じように、霧の中の道は彼らが通ったあとからすぐ閉ざされていった。前へしか進めない、一方通行の道。やがて見えてきたのは、あの頃と何一つ変わることない姿のからくり屋敷だった。
錆びついてきいきいと悲鳴をあげる門扉を抜け、手入れされていない雑草だらけの庭を通り抜け、開け放たれた両開きの玄関扉をくぐり抜け……マレフィキウムたちは、歯車の噛みあう音と管の中を流れる何かの音の二重奏に満ちた玄関広間へとやって来た。
「変わってないね、あのときと」
「ここは、時の流れから置き去りにされた場所だから」
ミラビリスとカストールは、少しだけ懐かしむように広間を見渡した。変わらないこの場所に懐かしさと、同時にいくばくかの物悲しさを覚える。変わらない場所――ここは時間も心も、前へ進むことを拒んだ場所。
「あの人の気持ち、今はわからなくもないかなぁ」
マレフィキウムは微苦笑を浮かべると、「さ、行こ」と奥へ向かって歩き出した。奥へ、奥へ、そして見えてきたのは、両開きの重厚な扉。蝶番が錆びついているのか、扉は開けるときにぎいぎいと抗議の声を上げた。
「待ちわびたぞ、若き魔法使い」
丸天井の下、部屋の中央に鎮座するのは巨大な物体。いくつもの円環をまとい、無数の小さな歯車を抱え、重力を無視して宙に浮かぶは天体観測機。運命改変魔法を発動させるための、トリスの魔法の杖。
その前でマレフィキウムたちを待ち構えていたのは、玉蜀黍色のくせ毛を後ろで一つにまとめたテオフラストゥス。そして、硝子の棺の中で眠るトリスだった。
「お待たせ、伝説の錬金術師さま」
テオフラストゥスはマレフィキウムの軽口を無視すると、すたすたと歩きだした。彼の向かう先、そこには机の上から床まで、ごちゃごちゃと様々な実験器具が。
「お前たちの目的はエンブリュオンを作りだすことなのだろう? ならば、ここにあるものは好きに使え」
「まだなんにも説明してないのに、よくわかったねぇ。伝説の錬金術師さまにはすべてお見通しってわけ?」
「すべて聞いていたからな。お前に渡した、その碧玉を通して」
「……あ~、なるほど。でも盗聴なんて、趣味悪いなぁ」
マレフィキウムの抗議にテオフラストゥスではなく、なぜかパーウォーが目を逸らした。
「道具は好きに使っていい。ただし、私もエンブリュオンの製造に関わらせてもらう。こちらからの条件はそれだけだ」
道具や施設の提供のみならず、まさかの手伝いまでの申し出に驚く一同。そんな戸惑う彼らの中からいち早く立ち直ったのはミラビリス。彼女は前へ進み出ると、テオフラストゥスを見上げた。
「あなたの目的は……なんて、そんなの一つだけですよね。パエオーニアさんの復活が、お母さんの復活に関わるんでしょう?」
ミラビリスの問いを無視し、テオフラストゥスは器具を並べ始めた。これ以上は質問しても無駄だとミラビリスもさっさと見切りをつけると、意識を切り替えてテオフラストゥスの隣に並んだ。
「色々と至らない点もあると思いますが、よろしくお願いします」
「……ああ」
伝説の錬金術師の屋敷に集ったのは、新旧魔法使いに人造人間に石人に。パエオーニアの新たな体を作り上げるまでの四十日間、彼らは奇妙な共同生活を送ることになった。ちなみにミラビリスの体調不良は、屋敷に来て少し経った頃にはだいぶおさまっていた。
ミラビリスの体調も回復したところで、当初の予定通り人造人間の製造に取り掛かる。主に作業するのは、もちろんミラビリスとテオフラストゥス。カストールとオルロフの魔術師組は二人の補助、ファートゥムとプリムラは知識の提供や諸々の雑務、そしてパーウォーとカーバンクルとウィルは皆の生活面を支えた。
マレフィキウムはと言えば、動くと厄介ごとばかり引き起こすので、早々に動かないことを命じられていた。
そして、とうとう三十九日目――
深夜、パエオーニアの眠る丸底フラスコの前に立っていたマレフィキウムの隣にやって来たのはオルロフ。彼はマレフィキウムの隣に立つと、懐から一枚の小さな紙を取り出した。
「餞別だ、やる」
「餞別って……どういうこと? 王子様、どっか行っちゃうの?」
ぽかんと見上げるマレフィキウムに、オルロフは大きなため息をついた。
「お前、俺の加護の力を忘れたのか? 俺の力は『消滅』。一定範囲内の石人の加護の力を消してしまう」
「あ……」
「というわけだ。俺がいると、パエオーニアの加護の力も消してしまう。もしかしたら再誕の加護は、彼女の復活に必要になるかもしれないだろ? だから、俺は今夜ここを発つ。でだ、こいつは最後まで見届けられなかった俺の代わりだ」
オルロフはきつめの目元を和らげ、今までで一番柔らかな笑みを浮かべるとマレフィキウムに小さな紙きれ――栞――を差し出した。
「これ……!」
栞には、押し花になった勿忘草が飾られていた。
「ミオソティスを目覚めさせたときの、あの勿忘草だ。お前がロートゥスにやった花と違って、こっちはすぐに枯れなかったからな。取っておいたんだ」
マレフィキウムはきれいな押し花になって返ってきた勿忘草を見て、ぽかんとした顔をさらにぽかんとさせた。
「王子様……きみって意外と乙女というか、なんというか」
「乙女って、お前もか! まったく、どいつもこいつも俺のことをいったいなんだと――」
「ありがとう」
ぼやくオルロフに、マレフィキウムはこちらもまた珍しくうさん臭さのまったくない笑みを返した。
「ありがとう、オルロフ」
マレフィキウムは栞をかばんの中にしまうと、代わりに瓶に入った勿忘草を取り出す。
「ここまで手伝ってくれて、本当にありがとう。きみがいてくれなかったら、きっと僕はここにたどり着けなかった。百花の魔法使いマレフィキウムの名にかけて、オルロフに真実の愛の花『勿忘草』を与えることを誓う。百花繚乱の未来を来らしめよ」
そしてマレフィキウムは三度目の「ありがとう」と誓約の言葉と共に、オルロフへ勿忘草を差し出した。
「お前は歩く災厄、百禍だからな。いいか、最後まで気を抜くんじゃないぞ」
オルロフは勿忘草を受け取ると、いつもと同じ、少しだけ意地の悪そうな笑みを浮かべた。そのまますれ違いざまにマレフィキウムの肩を軽く叩くと、「じゃあな」と一言だけ残して去っていった。