9.青の町、朱と赫赫の魔法使い
「おはよ~、ニア。あ、二人とも、今日はミラビリスんとこ行くからね~」
翌朝、まるで昨夜のことなどなかったかのような、どこまでもいつも通りな笑顔のマレフィキウムが部屋へと入ってきた。そんな彼の態度に、パエオーニアは反対に何とも言えない落ち着かなさを感じていた。
「遅いぞ、百禍!」
「おっはよー、マレフィキウムさん。朝ご飯、先にいただいてまーす」
昨日持ってきたテーブルを囲んでいたのはオルロフとファートゥム。水を飲むオルロフの前で、ファートゥムが少年らしい旺盛な食欲を披露していた。マレフィキウムが席につくと、カーバンクルがいそいそと朝食を運んでくる。
「お待たせですよぅ、ご主人」
「ありがと、カーバンクル。あ、今日はきみも連れていくから、いつもみたいに出かけないでね」
「了解ですよぅ」
「じゃあ、食べ終わったら出発するから。ロビン、ケット・シー、留守の間、パエオーニアを頼むね」
さっと朝食を済ませると、マレフィキウムは移動用の緑の扉を出した。扉をくぐり抜けた先、そこはひとけのない路地裏。マレフィキウムは二人と一匹を従えると、細い路地を迷いなく進んでいく。
そしてたどり着いたのは、こじんまりとした一軒家。年季の入った扉にちょっとした歴史を感じる、よく言えば趣のある、有り体に言えば少々古臭い一軒家。
「……あれ? もしかして、留守?」
呼び鈴を押したが、しんと静まり返った家からは何の反応もなく。マレフィキウムが首をかしげたちょうどその時、近所の住人が通りかかった。
「ミラビリス先生に用かい? だったら残念だったね。先生は毎年この時期、カエルラに行っちまってるんだよ」
「え~、そうなんだぁ。どれくらいで帰ってくるか、わかります?」
「そうさねぇ……いつもと同じなら、あと一週間くらいしたら戻ってくるんじゃないかねぇ」
「一週間……」
少しでも手がかりになればとアルブスへやって来た一行だったが、訪問は完全に空振りで終わってしまった。
「おい、一週間も冗談じゃないぞ! 百禍、今すぐカエルラに行ってそいつ探してこい」
「えぇ、やだよ! きみねぇ、カエルラにどれだけの人がいるか、わかって言ってんの? 言っとくけど僕、人探しとかそういう細かいこと、さっぱりだからね!」
「ご主人、そこは胸を張るところじゃないですよぅ」
「じゃあ、パーウォーさんは? また占ってもらえば――」
「ファートゥム~。パーウォーに頼み事するのはいいけどさぁ、それ相応の覚悟はしときなよぉ。見返り、なに要求されるかなぁ……無難なとこだと、やっぱ着せ替え人形あたりかな~」
「あ、なんかヤな予感がするんで遠慮します」
結局ミラビリスには会えず、回収するはずだったものも手に入らず。三人と一匹はひとまずということで、アルブスのマラカイトへと向かった。
パーウォーに出迎えられ、二階の応接室へと案内された一行。
「あ~。そういえばミラビリスちゃんたち、毎年この時期になるとカエルラに行ってるわねぇ。なんか、恩人のお墓参りらしいわよ」
「そういう事情ならば仕方あるまい。探し出して連れ帰るわけにもいかないしな。間が悪かったか」
ミラビリス不在の理由を知り、オルロフはがっくりと肩を落とした。用事を終わらせて一刻も早く極夜国に帰りたいオルロフだったが、さすがに故人を偲ぶための旅を邪魔するなどというわがままなど言えるはずもなく。
「でもさ、そしたらどうしようか? とりあえず他の知ってそうな人のところにも行ってみる?」
貝の形をした焼き菓子を両手に持ったファートゥムがマレフィキウムを見た。
「他ねぇ……あとはパーウォーのとこにたまに顔出す、サンディークスさんって魔法使いなら知ってるけど。あ、でもそういや、あの人もカエルラ拠点にしてたっけ」
「サンディのとこ行くの? わかってると思うけど、アイツには気をつけなさいよ」
「うぅ……サンディークスさん、私を見る目がいつも怖いから苦手なんですよぅ」
「そのサンディって人、悪い人なの?」
眉をひそめたパーウォーや怯えるカーバンクルを見て、ファートゥムは次々と焼き菓子をたいらげながら小首をかしげた。
「悪いやつじゃないんだけど、油断するとろくなことしないやつなのよ。ファートゥムちゃんも気を付けてね。アイツの口車に乗っちゃ、絶対にダメよ!」
「本当に魔法使いってのはどいつもこいつも……」
「いやいや、石人の方がよっぽどすごいって!」
「そうねぇ……石人は、本っ当にすごいわよねぇ…………」
オルロフのぼやきに、目をキラキラさせるマレフィキウムと何かを諦めたかのように遠くを見つめるパーウォー。そんな対照的な魔法使いたちの反応にオルロフは怪訝な顔で、「外の世界での石人の評価ってのは、いったいどうなってるんだ?」と顔をしかめた。
「やることなくなっちゃったし、とりあえずカエルラ行こっか。でも、サンディークスさん見つかるかなぁ。あの人、住所不定なんだよねぇ」
「魔法使いなんて基本、みんな住所不定でしょ。マレフィキウムさんの家も俺の家もこの国にはないし。パーウォーさんが珍しいんだよ、お店構えてるとか」
「ワタシだって本宅はちゃんと隠してあるわよ。ま、サンディならどうせ願いの匂いを嗅ぎつけて、呼ばなくても向こうから勝手に来るでしょ。でもほんと気をつけなさいよ」
心配するパーウォーに見送られ、マレフィキウムの出した扉で瞬時にカエルラへと移動した一行。
「しかし、魔法使いというのは本当に規格外なんだな。俺も魔術を扱うが、転移なんてできるやつ、お前ら魔法使い以外見たこともなければ聞いたこともない」
「そりゃあねぇ。この力はまあ、僕たち魔法使いくらいしか使えないからねぇ」
「ご主人もいちおう魔法使いですもんねぇ。たまーに間違えてとんでもないところに繋げたりしますけどよぅ」
「カーバンクル~? 余計なことは言わなくていいから」
一言多い使い魔の両頬をつかむと、マレフィキウムは笑顔で思い切り引っ張った。そんな主従のやり取りにオルロフは、「さすが百禍だな」と横目で皮肉な笑みを送った。
「でも今も昔も、転移とか空間に干渉できるのは、やっぱり魔法使いくらいのものだったみたい。とはいえ、前の俺は御先祖様たちの記憶を受け継いでないから、昔って言っても彼が生きていた時代くらいしか知らないけど」
「そんな僕たちでも、時間とか命とかはどうにもできないんだよねぇ。ま、魔法使いも万能じゃないってね」
男三人と一匹、たわいもないお喋りをしながら生活感あふれる路地を進む。
洗濯物を揺らす風、遠くから聞こえてくる表通りの喧騒、昼餉の匂い、窓辺に置かれていた榲桲の実の甘い香り――
「なあ、本当にこんなところに魔法使いがいるのか?」
「ん~、たぶん? だからさ、サンディークスさんはいつどこに出てくるのか、全然わかんないんだよ。僕とパーウォーはお互いの家を繋げてるからいつでも行き来できるけど、普通は自分の領域なんかそんな簡単に入れてくれないからねぇ」
「出ってこい出ってこい、サンディ~ク~ス。俺のお願いかっなえってよ~」
何を思ったのか、ファートゥムが突然調子っぱずれな歌を口ずさみ始めた。
上機嫌な少年の鼻歌を行進曲に、能天気な魔法使いとすっとこどっこいな使い魔、不機嫌顔の石人が路地を進む。そんな穏やかな秋の昼下がり、それは何の前触れもなく――
「何が望み?」
唐突に空間が切り替わった。路地は見た目こそ変わらないものの、周囲から一切の人の気配が途絶え、その違和感に三人と一匹は違う世界に足を踏み入れたのだと瞬時に悟った。
「ねえ、なにか望みがあるんでしょ? 言ってごらんよ。代償さえ支払ってくれれば、私がその望みを叶えてあげるよ。依頼主が人間でも怪物でも、魔法使いでもね」
袋小路の先にある一軒家を背に三人を見つめるのは、喉元を赤と黒で鮮やかに染め上げた、背の高いひょろりとしたイモリの獣人――朱の魔法使いサンディークス――だった。
※ ※ ※ ※
「私も、ついていきたかったなぁ……」
フラスコの中で膝を抱え、窓の外の青空を眺めながらパエオーニアはつぶやいた。
そもそも今回マレフィキウムが動いているのは、自分のことが原因だというのが彼女を落ち着かなくさせていた。このフラスコの中から出さえしなければ、パエオーニアは死ぬことも病気になることもないというのに。テオフラストゥスがそう言っていたのに。
だというのに、マレフィキウムは突然動き出した。何か大きな力に押し流されるように、今になって唐突に。その唐突さが、パエオーニアを不安にさせていた。
「どうしました、パエオーニア? 塞ぎ込んでいるようですが、具合でも?」
「なんだいなんだい、何か悩みかい? 吐き出せるもんなら吐き出しちまいな。愚痴ならアタシたちがいくらでも聞くよ」
憂い顔のパエオーニアを心配したロビンとケット・シーがフラスコのそばにやって来た。
けれど、このなんとも言い難い不安をうまく言葉に出来ないパエオーニアには、「ごめん、置いていかれたからちょっとすねてただけ」と笑って誤魔化すしかなかった。
しかし、そっとしておいてほしいというパエオーニアの気持ちは二人に伝わってしまったようで。ロビンもケット・シーも少しだけ心配そうな顔をした後、何も言わずに部屋から出ていった。そして一人になった部屋で、パエオーニアは再び「なんで?」に没頭していく。
――なんで、私はこんなに不安なんだろう。レフィがわけのわからないことをするのなんて、いつものことなのに。
マレフィキウムは思い立ったら即行動、考える前にやってみようという性格だった。そのおかげでパエオーニアは彼と出会えたわけで、彼女もそんな彼の性格に不満はない。
けれど、今回の人造人間を知りたいと言ったマレフィキウムは、パエオーニアにはいつもの彼とは違うように思えたのだ。
――怖い。何かが変わりそうで、怖い。
パエオーニアの生まれた王立魔導研究所は、五十二年前の火災で今はもう影も形もなくなっていた。だからパエオーニアのことを知るのは、もはやテオフラストゥスだけ。けれどそのテオフラストゥスも、薄暮の森に引きこもったまま。
ならばなぜマレフィキウムは、今さらパエオーニアのことを知ろうなどと思ったのか。知ろうと思う機会なら、もっと前にもあったはずなのに……
そこまで考えて、パエオーニアは肺の中の空気をすべて吐き出すような大きなため息をついた。
「おやおや、この家の主は随分と戸締りが緩いようで」
聞いたことのない声にパエオーニアがはっと顔を上げた。瞬間、彼女の視界を埋め尽くしたのは燃え盛る赫赫たる影。炎のような血のような、深紅の青年の影。
「ほう……これはまた随分と珍しい。そしてどうやら貴女も、この劇の演者の一人のようで」
金の瞳を三日月のように細めると、深紅の青年は満足げな笑みを浮かべた。