世界に隠された森1
間が開いてしまい申し訳ありません。
搭乗用のドアから一歩踏み出し、階段を降りようとしたその時、強い風が私の体を駆け抜けた。肌を冷やしながら、私の髪を横に流していく。
「寒い……わ…………」
顔に張り付く前髪を払ったその時、私は見てしまった。
目の前に広がるそれに、背くように顔を下に向ける。自分でも驚くほど速く。ほんの一瞬目に映っただけなのに、私の目は強烈な違和感を訴えている。見えた。あるはずのないものが。
もちろん自分の目を疑った。これは夢で、現実の私はあの座席に座りながらのんきにいびきでもかいているんじゃないかと、そんな突拍子もないことさえ考えた。
でも、これは夢なんかじゃない、現実なんだと、冷めた風が私をなで続ける。それだけで十分だった。悔しいほどに、私に伝わる感覚は現実味に満ちていた。
鼓膜に響く旅客機のジェット音、肌に当たる冷たい風、そして、鼻に広がる潮風の匂い。
それでも、信じたくなかった。ここに存在するということは、私の思い出の地は無くなったことになるから。
「お客様、どうかされましたか?」
立ち尽くす私を心配したのだろう、後ろから乗務員の声がかかる。目の前の光景がさも当然のように思っているその態度に、内心腹が立った。
苛立ちを抑えながら、これは当然のことだと自分に言い聞かせる。この事実を知っていて、現実として受け入れていなくては、本来ならこの旅客機に搭乗することすら許可されないなだから。
「い、いえ……何でもないです…………」
余計な事態を避けるために、そそくさと階段へ足を下ろす。途中何度も見返したが、そのたびに見せつけられたのは、深い青の水平線。
私を出迎えたのは、あるはずのないベルリンの海だった……。
階段を降り終え逃げるように、前に止まっているバスに乗り込む。旅客機と同じく、旧式のタイヤで走るバスだった。最後に降りたのだから当然空いている席はなく、体を車内の奥へと詰める。
並び立つ人の間から何とか自分のスペースを作ると、前に座る白衣を着た中年の男と目が合った。慌てて入ってきた私に驚いたのか一瞬眼を見開いたが、すぐに見るからに不機嫌で、早くしろよとでも言いたげな冷たい目線を送ってきた。私は謝罪の意を込めて軽く頭を下げ、つり革に手をかける。彼は太ってはいるががたいが良く、高校の体育教師のように説教をするとばかり思っていたが、何も言わず頬杖をついて窓の方へと顔を向けた。
気まずいので少しでも彼から距離を取ろうとしたのだろう。無意識に彼を視界の外に追いやって、その視線を追った。視線の先にあるのは、空港と砂浜とを隔てるところどころ塗装のはがれた白いフェンス。
その根元にあったのは、並べられた無数の花束だった。透明なフィルムに包まれた色とりどりの花が所狭しと並べられ、まるで絨毯みたいにアスファルトの地面を覆っていた。それは空港の一辺、その端まで届く数えきれないほどの、追悼の花。
正直、ここの人間には死をいたむような感情はないと思っていた。過ぎた過去だと割り切って、平気な顔して地図を書き直す連中だとばかり思っていたけれど、全員が全員そうというわけではないらしい。
同じ思いを抱いている人がいる。それを知って、少し心が軽くなった気がした。
「発射します。お立ちの方は手すりにおつかまり下さい」
アナウンスの後に私の体が揺れ始める。バスがターミナルへ向けて出発した。それに合わせて窓の景色も流れ、あのフェンスも見えなくなってしまった。
「あれを、見たか?」
少しの沈黙を置いて、目の前に座る彼が顔を外に向けたままぼそっと呟くように言った。いきなり話しかけられて少々焦り、
「は、はいっ」と、上ずった声で返してしまった。
変に思われていないだろうかと、私がそんなことを考えているとはつゆ知らず、彼は話を続ける。
「……アイリス」
「え?」
「アイリス・タスカー、あそこには俺の娘が住んでいた」
そう言う彼の横顔は怒っているというより、どこか悲し気に思えた。いや、確かに怒っている。バスに遅れて乗った私にではなく、このどうすることもできない惨劇にやり場のない憤りを感じている。
「娘さんが……」
「いや、まだ行方不明だ。必ず探し出す……そのために来たんだ」
彼の目はバスの行き着く先である、滑走路とターミナルをつなぐ出入り口を真っ直ぐ捉えていた。希望に賭けようとする眼差しは、バスが止まるのを合図に走り出すんじゃないかとすら思うほど熱意に満ちている。
この人は諦めていない。その姿に、私は感化された。ここで気落ちしている場合ではない。ここに来て、この惨状を見て、この地を訪れた目的が少し変わった。
伝えなければ。この事実を知らない人が大勢いるはずだ。そして何より、最低でも街一つ水没しているこの現状を隠蔽し続けている理由が知りたい。そこに、何か引っかかりのようなものを感じた。
記者の勘、とでもいうべきものだろうか。フリーであっても、私はジャーナリストの端くれ。何か裏がある、そんな確証のない自信が湧いてきた。
元々は単なる研究施設の取材だったが、こうしてはいられない。悲しんでいる場合でもない。
そこでようやく、もうあの街並みは無いのだと、現実を受け入れられた気がした。
「あの、えっと」
「……キースだ。キース・タスカー。そういえば名乗っていなかったな、すまない」
バスはターミナルを沿って走り、もうすぐ出入り口に到着しようとしていた。きっとこのまま人ごみに流され別れることになるだろう。お礼を言おうとも思ったけど、あなたのおかげで立ち直れましたなんて言うのは恥ずかしい。だから、気になったことを聞いてみることにした。
「キースさん、なぜ私に娘さんのことを?」
私の質問に、白衣のおじさんは照れくさそうに頭をかきながら答えた。
「アイリスが……娘がもうすぐお前さんくらいの年になるからさ」
「娘さんの無事を祈ります」
「ああ、ありがとう。そっちもがんばれよ」
バスが止まる。予想通り、立っている私は降りようとする乗客の流れに飲み込まれた。降りてからあの人を待とうかと思ったが、止まらず歩くことにした。せっかく共感できる人を見つけたが、彼には彼の戦いがあるし、自分にも自分の戦いがある。私自身のためにも、それを邪魔してはいけないと思った。
それに、あの人とはまた会う。そんな気がする。
「あっ、私も名前を言うの忘れてたわね……今度会ったら言わないと」
絶対に真相を確かめる。決意を胸に、私はターミナルへ入った。
もしよろしければ、これからもよろしくお願いします。